第9話
水樹が困っている一つは、階段を走って上れないことだ。こういう時は、顔だけではなく、体もシャムネコのように俊敏な陽希が、真っ先に飛び出して行ってくれる。理人は、水樹の傍に常について、万が一の危険に備えるという流れが出来ている。
水樹が追いかけて、ようやく明美子の泊まっている部屋に辿り着いたところで、陽希の姿は既になく、綺羽が尻もちをついて口元を押さえていた。陽希が、その背を摩って励ましている。
部屋に飛び込んでみると、其処に、明美子がいた。明美子は両手、両足を開いた状態で、縄で天井と壁に縛り付けられていた。真っ赤に口紅を塗った口と目は開いたまま、床の辺りをじっと見ており、胸から血が流れている。そして、丁度その視線がある方向の床に海を作り、今もぽたぽたと補充している。
水樹は杖を構えた。咄嗟に、まだこの部屋の中に、明美子をこんなにした犯人が潜んでいる可能性について思い至ったからだ。耳を澄まし、水音が聴こえることに気づく。
「水樹ちゃん。危ないから下がってて」
陽希が水樹の前に立ってファイティングポーズを取る。綺羽の傍には、理人がいる。彼は過去のことがあり、女性の背中を撫でたりはしないが、近くに屈んで話を聞いているようだ。
水樹は小さくため息を吐いた。
「お前こそ危険ですから無理しないでください。水が流れる音がしますね」
「キッチン……はないみたいだから、お風呂かなぁ」
陽希がまさにネコのように足音を忍ばせて歩いて、客室の奥へ進むのに歩幅を合わせて、水樹もついていく。
浴室が見えた瞬間、陽希の足が突然、びくっと止まった。水樹も、彼の腕の間から、浴室を覗き込む。そしてすぐ、陽希が足を止めた理由を理解した。
浴室は、血だらけになっていた。壁、床、天井、シャワーヘッド、鏡と血が飛び、こびりついている。浴槽に、全裸の男が一人、倒れている。縁から両手と両足が出て、すっぽり嵌ったような体勢だ。
廣二だ。俯いて動かないが、明らかにこと切れている。
更に目を眇めて見ると、電気のコードが、洗面台から浴室、浴槽の中まで繋がっているのが分かる。何らかの電化製品が、たっぷりのお湯が張られた浴槽に放り込まれて、其処に入っていた廣二が感電死したのだろう。下手に近づかないで正解だ、と水樹は腕組みしながら思った。
しかし、不思議なことがいくつかあった。
「この血液は誰のものでしょうか? 見たところ、廣二さんの体には傷がないようです。それに、此処は明美子さんが泊まるはずの部屋の浴室です。何故、その風呂に廣二さんが入っているのか?」
水樹が、ぽつぽつと述べた疑問に、陽希も重ねる。
「それに、見て。湯気が立っていない……」
屈んだ彼が、そう呟いた時、後から追いかけて来た一条と三千が、小さく悲鳴を上げる。
「こ、こ、これは一体……」
元から常に怯えたような態度である三千は、体を縮こまらせて真っ青になり、言葉を失っているが、一条はすぐにショックから回復したらしく、太い腕を組んで浴室を覗き込んだ。
「これは、この隆廣二って男が、あの女探偵を殺して磔にした後に血を洗い流そうとして、焦ってドライヤーを浴槽に落としちまった。そう言うことだろうな」
「流石は元警察官、落ち着いていらっしゃる」
水樹が彼の腕の横から顔を出すと、一条はあからさまに舌打ちして離れた。
「アンタは元犯罪者だろうが」
そう言うだけ言って、浴室を出てしまう。やっと少し落ち着きを取り戻した三千が、言葉の続きを引き取った。
「……あ、で、でも、確かに……そ、その可能性は高いでしょうね。廣二さんの、明美子さんへの情熱は、相当なものでしたから……や、いや、ということは、わ……私が明美子さんの経済事情を教えたせいで……失望して、殺してしまった……?」
「いいえ」
瞬きすら忘れて自分を責め始めた三千の言葉と、恐らくは思考そのものも、オーボエのような優しい声が包んで遮る。理人が、いつもと何ら変わらない笑顔で立っていた。
「田園さんは、あくまで事実を伝えただけです。事実は、いずれ、別のことから隆さんのお耳に入ったかもしれませんし。最終的には、どんな状況であれ、人を殺める人が一番悪いのですよ」
理人の穏やかな指摘に、三千も落ち着いたように見える。こうやって、空気を読むのが上手い理人に任せておくと、交渉などもスムーズに進んで良いと、所長である水樹は思う。
「……あの。すみません」
かなり遅れて浴室にやって来た旭が、小さく右手を挙げて口を開いた。
「……もうそろそろ時間です。現在時刻、十六時四十分。明美子さんが生前に仰った推理……確かめに行きませんか」
「未だミステリー会なんて続けるつもりだったのか」
尖った声を出したのは一条だ。目も三角になっている。
「人が二人も死んでるんだぞ。時計職人が遺した遺産なんてどうでも良いだろうが、どれだけ金に目がくらんでるんだ」
水樹は思わず間に入り、まぁまぁ、と手を上下にやって制した。
いつの間にか、水樹の傍に来て胸の前で手を組んだままじっとしていた綺羽が、それでもまだ声は震わせながら、言葉を絞り出した。
「……それで、どうなさるのですか? 日時計のところへ行かれるのならば、同行いたします」
「何か、殺人犯に繋がるヒントがあるかもしれないしなぁ。俺は行くよ」
陽希の明るい声が救いとなって、皆も目を見合わせ、頷いた。
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