おとなしく廊下に立っていなさい

福田 吹太朗

おとなしく廊下に立っていなさい


その一


 トシアキは孤独だった。

 太陽が西の方向へと移動を開始する頃、彼は思わず校庭の片隅に立つ、たった一本の杉の木に見とれていたのだ。

 それは彼の孤独な姿に重なって、見えてしまったのかもしれない。 

 けれどもまさかそんな些細なことが、彼の苦難の始まりだとは、彼の御先祖さまでさえ、予測がつかなかったことだろう。

「おい、トシアキ! 何をボッとしているんだ。窓の外に天使でも見えたのか?」

「いえ先生、見えたのは希望なのであります!」

「何を訳の分からないことを言っている? これでは罰を与えなくてはならないじゃないか」

「先生、僕が何をしたって言うんです?」

「これは君のためでもある」

「僕は真っ当な中学生なんです」

「そんなことはどうでもいいんだ」

「絶望が希望に変わる時、ほんの一瞬虹が架かるんです。僕はそれを見逃したくはありません……!」

「それは君だけの希望じゃないか。人類を代表などはしていない」

「僕は小さな存在の中学生なんですよ?」

「そんな屁理屈は聞き飽きたんだよ」

「先生には絶望と不安しか見えてはいないんです」

 そこで三秒、間があった。先生はそれから不意打ちのように大声でがなり立て、彼なりの指導の指針を指し示したのだった。

「おとなしく廊下に立っていなさい……!」

 トシアキは先生の言いつけに従うしかなかった。彼には年長者の言うことは絶対であり、さらに教師のような人を導く立場の人間の言うことは、神にも優る言葉なのだった。

 トシアキはそれから両手に水の入ったバケツを持って、廊下の壁際に自らすすんで立ったのだった。


その二


 三時間目にも四時間目にも、五時間目にもトシアキは廊下に立たされていた。

 やっと一日の授業が終わり、皆が雀のさえずりのようにザワつきながら、部活や委員会活動や帰宅をする頃にも、トシアキはやっぱりまだ立たされていた。

 それを見かねて学級副委員長のユーコが、担任であるタノウエ先生に直訴して、

「先生! ノヤマトシアキくんをいつまで立たせておくつもりですか?」

 タノウエ先生は不意を突かれたかのように、額に汗をかいていたのだが、善良な道徳心が悪辣で横暴な支配欲を上回ったのか、きっぱりとした口調となり、

「トシアキ! 今日はもう帰ってもいいぞ?」

 こうしてトシアキは初日の苦難からは解放され、少しでも温かみのある、レンチンしたばかりの肉まんのようなマイホームへと、何とかたどり着くことが出来たのだった。


その三


 翌日はトマトのような太陽が顔を出す、蒸し暑い日だった。

 その日もトシアキは、入学してから連続四百四十四日出席の、皆勤賞を継続中なのだった。

 しかしそんな彼しか知らない祝賀ムードも、ちょっとした油断で脆くも崩れ去ってしまった。

 彼は前日の反省を生かし、窓の外を眺める行為は諦めていたのだが、ふと天井についた染みを見ているうちに、いつしかこの世の暗闇や悲しみについて思いを馳せるしか、心の持って行き場がなかった。

 そんなトシアキを目ざとく見付け、いきなり口撃を仕掛けてきたのは、感情が激しいことで生徒たちの間では悪名高い、数学教師のナカザワだった。

「おい! ノヤマ! 何ポカンと真上を眺めているんだ。今言った数式は解けるのか?」

「先生! 天井についた染みでも、この世界の不平等と虐げられた人々の正式な数を計るのには、役に立つと思います……!」

「お前ふざけてるのか? 数学は金勘定に使うんだ。難民や移民の数なんてどうでもいい……!」

「しかし先生! ほら見て下さい! 天井の染みが、どんどん広がっていっているんです……!」

 しかしナカザワはあくまでも強情な性格らしく、自説を曲げようとはせず、トシアキは思わず、目の前の教師は数学を悪用して、世界中の不均衡をさらに助長させようとしているようにさえ見えたのだ。

「いいか? ノヤマ。お前は間違っているぞ? 真に公平な社会なんてないんだ。他人を蹴り飛ばしてまで、人の上に立ってこそ、教育というものがその真価を発揮するんだ。勉強は他者との差をつけるためにあるんだからな」

「先生! それでは納得がいきません……!」

「よし、いいだろう、ノヤマ。お前はまだまだこの世の仕組みが分かってない……おとなしく廊下に立っているんだ!」

 こうしてトシアキは、またしても二日連続で、廊下に立たされることになったのだった。


その四


 やはり生徒みんなが帰宅する頃、トシアキの廊下に立つというお仕置きのような苦行は、まだまだ継続中なのだった。

 すると今度はやたら正義感だけは強かった、同じクラスのエージがナカザワに直談判したのだ。

「先生! トシアキは僕たちみんなのために闘ってくれているんです……!」

 ナカザワは途端に顔をしかめ、

「一体何者とだね? 何と闘っているっていうんだ」

 エージは一瞬言葉に詰まったのだが、すぐに持論を展開し、

「あいつは地図を広げようともがいているんです。僕たちはまだ、その地図すら見たこともありません……!」

「そうか。私も世界地図のジグソーパズルの一ピースしか見たことはないよ」

 鬼教師としてその名を知られた、ナカザワでさえ、その時はやや俯きながらエージの意見に賛同し、ようやくトシアキを解放したのだった。


その五


 その日は学年ごとに、社会見学とやらにそれぞれ出発したのだった。

 トシアキはとりわけ憤慨していた。

 彼のクラスが向かった先はお菓子の工場で、オートメーションで流れてくるチョコや飴やマシュマロを見ながら、トシアキの心の中では沸々と、怒りに似た感情が湧き出そうとしていたのだ。

 帰り道にもトシアキはずっと、

「あれじゃあまるでこの僕たちが、機械的に工場で生産されているみたいじゃないか……! そうか。それを見せようっていうんだな?」

 この言葉が大人たちに引っかかったらしい。

 トシアキはまたしても廊下に立たされて、泣きを見ると思いきや、涼しい顔でお菓子工場でお土産に貰った、ガムをクチャクチャ音を立てながら食べて、抑圧しようと企んでいた大人たちの、裏を見事にかいたのだった。


その六


 教師たちは次第に追い詰められていた。

 と、いうのも、トシアキに対して幾度も威光を見せつける進軍があったのにも関わらず、彼はまるで神がかったように、奇策を用いてことごとく撃退したばかりか、さらに経験を積んで一層逞しくなっていったのである。

 これでは権威者として面目丸潰れなのだった。

 何とか今すぐ、頭が柔らかいうちに骨抜きにしてしまわなければ自分たちの立場が危うい、彼らはそう考えていた。

 そこで謎の陰の実力者たちは一計を案じた。

 追い詰めてネズミに噛まれるよりも、狡猾な彼らは、ネズミ同士を戦わせる手段を見出したのである。

 これは見事な策略だった。

 トシアキの隣のクラスに、ノリユキという、頭はからっきしだが、腕っぷしは滅法強い、猪突猛進の闘牛の牛のような生徒がいたのである。

 ノリユキの目の前に赤い布をヒラヒラとさせるのは簡単なことだった。

 生徒から生徒、人から人へと、伝言ゲームさながらにノリユキの悪評をばら撒かせて、その出発点をトシアキに設定すれば、あとは勝手に雪玉が転がって雪崩となるように、同士討ちを演じてくれるはずだった。

「このやろう、ぶっとばすぞ!」

 ノリユキはやる気満々だった。

 だが当の本人のトシアキは、その時ちょうどガムを噛み終わったばっかりで、ノリユキの凄みのある勢いのせいで思わずガムを飲み込んでしまうハプニングはあったのだが、すぐに涼しい顔で応戦したのだった。

「君強いんだってなあ。僕なんか一捻りなんだろ?」

「お、おう」

 ノリユキはまさか自分が褒められるとは思ってはおらず、予想外の展開に最初の勢いは削がれてしまったのだ。

「お、俺の悪口を言っていたのはお前だな? ぶっとばすって言ってんだろ?」

「ははあん、君見事にあいつらの奸計にはまったね」

「カンケイって何の関係だ」

「関係っていうのは君と僕との関係さ」

「俺はお前のことなんか知らねえぞ?」

「だろ? 知らない相手なのに、どうして悪口が言えるんだい?」

 そこでハッと我に返ったノリユキは、そのまま逃げ去るように走ってはいけない廊下を走って行ってしまった。

 その晩のことなのだった。

 バットを持った覆面をした大柄な一人の侵入者に、無人の職員室がメチャクチャボコボコにされたのは。


その七


 それから何日間も何事もなく、トシアキは登校し、連続出席日数の記録はますます伸びようとしていた。

 敵はおそらく怯んでしまい、何も手出しは出来なかったのだろう、彼は勝手にそう思い込んでしまっていた。

 彼自身でもよくよく考えてみたら、大人や教師だからといって敵だとは限らず、じっくり話せば分かり合える間柄だったかもしれないのだ。

 その日は早朝にマッシュルームのような巨大な雲が南東の方角に浮かんでいたかと思うと、それがたちまち広がって、墨汁を一滴垂らして全体にじわりと沈殿したような、そんな不気味な空をしていたのだった。

 嫌な予感がするはずなのだが、トシアキは特に気にするふうでもなかった。

 彼は口笛を吹きながら登校し、この世界で起きている醜いことは自分には関係ない、そんなことには始めから関わってはいないのだし、悪いのは強欲な大人たちなのだ、そう口笛で歌詞にして歌いながら席につくと、一時間目の英語の授業を真面目に受けていた。

 授業が始まり、皆で教科書を読んでいた。そんな時いきなり彼目がけてチョークが飛んで来たのだった。

 トシアキが何かした訳ではなかったのに、この世にはやはり理不尽なことは存在するようで、彼はチョークを僅か数ミリのところでかわしたのだが、何となく憤るというよりは、不思議な気がしてポカンとしてしまった。

 英語の教師はミヤタといい、彼の見解によれば、みんなで英文を読み上げている時に、その口の開け方から、トシアキだけが英国訛りだと言うのである。

 こんな不合理で荒唐無稽な言い分はなかった。英国の発音でも、米国の発音でも、どちらもイングリッシュなのには変わりないではないか。

 しかしミヤタよりもはるかに大人の態度を見せていたトシアキは、堂々と抗弁し、その結果……廊下に立たされたのである。


その八


 のちになって分かったことなのだが、自称有能な英語教師であるミヤタは、この件を職員室で他の教師たちに説明する際に、盛んに、「オッフン」を、「オフトゥン」と言うのは英国の発音だと主張していたのだ。

 トシアキはバケツを持って廊下に立たされながらも、勝ち目はないと諦めかけていた。

 何しろ敵の側は、とてつもなく巨大で正体不明の集団であると思われ、陰謀に長けていて、統計学や数字にも強く、飛び道具を武器として使うことさえ出来るのだ。

 トシアキは給食のかぐわしい香りが廊下まで漂ってくる中、(ちなみにその日のメニューは彼の好物のハヤシライスだった)じっと耐えながら彼なりの次の一手を考えていた。

 そしてとことんまで突き詰めて考えて達した結論というのが、全く新しい方法、敵の裏を完全にかく奇策であり、それを用いて相手を出し抜こうというのだ。

 彼は考えた。権力に挑戦しようとする自分のことを、木っ端微塵にしようと企んでいる連中に対しては、勝ち目の薄い勝率一パーセントの闘いに挑むのではなく、あえて闘わずして闘うしかないんだと。

 これは極めて斬新な、新しい戦術だった。

 彼は両手のバケツを離す訳にはいかなかったので、職員室の中の様子は分からなかったのだが、今頃はきっと、蜂の巣をつついたような騒ぎとなっているに違いない、彼にはそんな自分の理性を以ってしてもコントロール不能な確信があったのだった。


その九


 相手に勝つために、あるいはすでに攻撃を受けているのにも関わらず、あえて闘わないというのは、どのような計画や考え、あるいは魂胆だったのだろうか?

 一か八かの戦略に見えたのだが、トシアキにはそれなりの勝算があった。

 敵が言葉で攻撃してきたのならば無言で返し、直接的な暴力で挑みかかってきたのならば、断固不服従の態度をとる。

 これは全く新しい戦略だった。

 だが敵もさるもの、早くもこの戦法を察知して、先回りしようと刺客を送り込んで来たのだ。

 それはサトミという、学年一の美女の異名をとる、男子からはもちろん、女子から見ても、誰の目からでも美人にしか見えない類稀なる女子なのだった。

 サトミはさりげなく廊下の向こうから、トシアキに近付いて来たかと思うと、彼の耳元に素早く自らの唇を密着させるように接近させて、

「ねえ? トシアキくん? 私と楽しいことしない?」

 ただでさえ女性経験の乏しいトシアキが身をこわばらせていると、

「ねえ、トシアキくんてば。こんなとこで立たされているよりも、もっと楽しいことがあるでしょ?」

 トシアキは内心焦っていたのだが、表面上は平静さを装っていた。

「僕は先生から、ここに立っているように言われたんだ。その言いつけを守らなくちゃならない」

 サトミはますますその美しい顔を、トシアキのごく平凡なパッとしない顔に近付けながら、

「本当は楽しいことがしたいんでしょ? 顔に書いてあるわよ?」

 彼女の甘美な吐息がトシアキの顔に降り注いでいた。

 これは一種の魔物による、邪悪な誘惑に違いない。古来迂闊にその誘いにのってしまった人間は、罰を受けるか、それ以上の苦痛や苦難や、場合によっては人生の終わりが来てしまうことを意味していたのだ。彼は耐えるしかなかった。

「もうっ! 面白くない人ね! あなたみたいな人と一緒にいても、きっと退屈で仕方ないでしょうね……!」

 そう吐き捨てるとサトミは、廊下の反対側へと足早に去って行ってしまった。

 そのタイミングで給食を食べ終えた数名のクラスメイトが、教室から出て来た。トシアキを解放しようというのである。

 しかし彼は、その友情には感謝しながらも、その申し出を断ったのだった。

 彼には覚悟が出来ていた。あらゆることに対する、覚悟なのだった。


その十


 雨の日も雪の日も、灼熱の太陽が照りつける摂氏約三十八度、華氏百度の日でも、たとえ槍が降って来たとしても、トシアキの覚悟は変わらなかった。

 しまいにはトシアキの足は根っこのようになって、廊下の一部となり、床に張り付いてしまった。まるで校舎の下から彼の体が生えてきているようだった。

 彼は沈黙し、その両腕は木の幹のようになり、さらには足は根っこと同様、動かなくなった。

 皆がその光景を不思議がって彼の前を通り過ぎたのだが、すぐに誰も気にしなくなり、平然とその前を行き交っていたのだった。

 彼は校舎の一部となり、オブジェと化してしまった。

 まるでどこかの高僧が立ったまま瞑想しているかのようだった。

 トシアキは廊下に立たされているというよりは、廊下と一体化していた。この光景はすぐに話題となり、ネットで拡散され、地元のローカル紙が取材に来たほどだった。

 だがいつの時代も人々は飽きっぽいもので、やがて校舎の窓の外を枯れ葉が舞う秋の季節がやって来た頃には、世間の人たちからも彼の存在すら忘れて去られてしまったのだ。

 そして冬がやって来た。暖房のない廊下で立たされているのには、厳しい季節なのだった。

 けれども彼は耐えた。やがて訪れる春の到来を待ちながら、古い固定観念に囚われた人々の心の中の氷も解けて、清らかな水となって流れ出すのを待ち続けるかのように。

 彼はひたすら待ち続けたのだ。


その十一


 やがて待った甲斐があった。

 教頭先生が彼と会ってくれるというのである。トシアキにとっては朗報だった。

 だが問題は、彼の足が廊下と一体化して、動けなかったことだった。

 仕方なく教頭の方からやって来て、トシアキは廊下に立たされたまま話し合いに応じたのだった。

「ノヤマトシアキくん。君の主張も分からなくはないが、こんなことまでするのは、ちょっとやり過ぎなんじゃないのかね? 私はそう思うよ」

 トシアキはやり過ぎは承知の上だった。なので、

「いえいえ、まだまだこれからです。こんなんじゃあ、納得がいきません」

 教頭は明らかに困った顔で、

「じゃあ一体どうすればいいんだね?」

 トシアキは即答で、

「それはこの世界が根本から、変わることなんです。それしかないんです。教頭にはお分かりにはなりませんか? 僕は歳を取られた人がどうだとか、そう言うつもりはありません。けれども実際、差別する人間はいるのですよ?」

「一体誰が、誰を差別するんだね?」

「それは難しい質問ですね。差別する人間は、見た目では分かりません。と、言うより、見かけだけは立派な人が、実は差別主義者だったりもします」

「だがそれと、君の今の行動は関係ないだろ?」

「ええ……」

 確かに教頭の言う通りなのだった。

「もうすぐ春ですね」

 教頭はポカンと呆気に取られるのと、怒りのため顔が赤っぽくなるのが、半々にミックスされたような顔をした。ハーフ&ハーフのピザのようだった。

「それがどうしたと言うんだね」

「春まで待ちましょう。春になれば自然とこの足も自由になり、動くことが出来るはずです」

「それで?」

 トシアキはやや間を置いてから、

「この学校の頂点にいるのは誰なんです?」

「頂点? 校長先生のことかね?」

「だったら校長先生と直接お会いになって、僕の意見を聞いてもらいます。……それでよろしいでしょうか?」

「よろしいも何も……」

 教頭は顔だけならず、首や手や腕にまでシワを寄せながら、苦々しげに去ってしまったのだった。


その十二


 そうして待望の春がやって来た。

 トシアキはあっという間にごく普通の、猫背で貧相な中学生に戻ったのだ。

 校長室まではイモムシが立って歩くようにたどり着いた。

 彼はノックしながらドアを開け、目の前のゴムみたいな体型の校長と、直接面と向かって話を切り出し、まずはこう述べたのだった。

「校長先生、始めに断っておきますが、僕は誰かの代表ではありませんし、何かの重荷を背負っている訳でもありません。勘違いしないでください」

 校長はトシアキの側に向き直りながら、

「そりゃそうでしょうとも。まあ、この椅子にでも座って。さ、ホラ」

 しかしトシアキは、ここで大人に屈するのは不本意であると感じ、あくまでも立ち尽くして真正面の窓の外に映った青い空を眺めていた。

「あなたは大人が嫌いだとか? あなただっていずれは大人になるのですよ?」

「僕も大人になるのでしょうが、それが進歩だとは思いません」

「それが進歩でなかったのなら、何が進歩なのです?」

「考えてもみてください。月の上を歩くのは人類の進歩だと言えるのかもしれませんが、そのためにいくらお金を使っているのですか?」

「お金は関係ありません。我々が行なっているのは教育なのです」

「教えて育てるのが教育ですか?」

「教えて育てて、正しい方向に導くのが教育です」

「教えて育てるのですか? 育ててから教えるのですか?」

「ちょっと意味が分かりません」

「僕たちは育てられているのですね? 牛とか馬みたいに」

「牛とか馬じゃありません。人間ですから」

「人間は愚かですよね」

「愚かなのは……愚かなのは教育を受けていないからなのです」

「じゃあ教育を受けてから教育しているのが愚かなのですね?」

 堂々巡りだった。

 さすがの校長も、丸い小高い丘のような頭頂部の辺りが、タコが調理されてはじめて赤く鮮やかになるのと同じなのか、徐々に色が濃くなっていった。

「もうこの辺にしましょう。これ以上は無意味ですから」

「無意味なことのために、僕はわざわざ……」

「学校や教育なんて無意味なんだよ……! あ、これは失礼。今のは取り消します」

 トシアキはうやうやしく頭を下げてから、

「では失礼いたします」

 ドアを丁寧に閉め、再び自分のクラスの前の、廊下に立ったのだった。

 彼の目の前には細長い窓があり、真っ白い筋のような雲が、不安定ながらも、ゆっくり横に流れていた。


その十三


 トシアキは廊下に立たされていた。

 まあいつもの光景ではある。

 トシアキは目の前の壁に向かって、一人で話しかけていたのである。

「いいですか? 皆さん。僕は何も好き好んでここに立っている訳ではありません。ここに立っているのは、皆さんと会話するためなのです。それが真っ白な壁であっても構いません。僕はたまらないのです。この世の中は不釣り合いで、絶えずぐらついているではありませんか。こんな世の中は左右のバランスが上手くとれた天秤ばかりとは言えません。片方に載せられた金貨が多くなれば、自ずと片方が少なくなってしまう。そんなことではいつまで経っても釣り合いはとれず、不均衡なままなのです。どうか考えてみてください。僕たちの足元はぐらついて不安定なのです。いつ崩れてもおかしくはありません。知識や富や権力を独り占めしてはなりません。ほらよく耳を澄ましてください。わがままで自己中心的な者たちの足音が聞こえるではありませんか。僕たちは無力なのです。決して腕力も、知恵だって些細なものしか持ってはいないのです。どうか忘れないでください。僕たちはいずれ、立ち向かわなければならないのでしょう。それがたとえ巨大で厄介な壁であったとしてもです。僕の目の前の壁は、半分剥がれかかっているのですが……」

 彼はそこで力尽きたように寄りかかり、ついに廊下に立つという行為を諦め、彼なりの決着をつけた様子なのだった。


その十四


 彼はその日教室にいた。

 窓の外を一瞬眺めたのだが、やがて教科書に目を落とし、それから真正面の黒板を見つめると、熱心にノートに書き写していた。

 彼には全て分かっていた。黒板に書かれた数式の答えではない。この世の中を動かしている法則についてだ。

 けれども彼は、それについて決して、多くを語ろうとはしなかった。

 元は饒舌で多弁だった彼が、人が変わってしまったように、寡黙な普通の中学生となったのは、この頃からなのであった。

 この世の中はままならない。彼は心の中で絶えずそう考えていた。

 だがそれも人間の一生、大げさに言えば人生なのである。

 授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 彼はノートを閉じながら、ふと窓の外を眺めたのだった。

 そこに見えたのは……そこに見えたのは?




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