1 言語と哲学一新しい言語像と新しい哲学像の提示ー

1 言語とゲーム-新しい言語像

 既に「言語論考」をひととおり解析しきったとしていたヴィトゲンシュタインが、しかし改めて「言語対話とはどう成立しうるのか」を、単語レベルから再解析しはじめる。例によってその流れは病的に執拗であり、初っ端から「えっなに言ってんのこのひと」となる。しゅごいなまじで。


 とは言え、まぁ流れとして把握ができないこともない。単語対話がやがて文章として成立していくとは言っても単語対話はそれそのものとして機能し続けるし、それと同軸で、あるいは別軸でもあったりもしながら文章対話も成立していく。これはなにかと言えば、対話における発し手と受け手とが相互の情報交換を、経由物――言葉が指し示している対象――を経て特定の共通認識を育て上げよう、というやり取りの中から生まれていく。


 こうした相互間の干渉作用がいわゆるチェスのようなボードゲームに近いため、言語「ゲーム」とした、のだろうか。「ここで言うゲーム、については、飽くまでチェス的なものを想定してね」と言っているようにも感じるのだが、どうだろう。まぁそう言うことにしておこうと思う。


 既に言葉、文章の働きについて把握しているものが、そうした働きをまだ把握できていない人間に対して「これこれこうした働きがあるのだ」と伝える動きについて、ヴィトゲンシュタインは「説明」「定義」ではない、という。これは確かにそうかもしれない。説明や定義というのは、それでもなお「設定する対象」が「概念として存在していることはまぁ、わかる」というところがベースにないと成り立たないのだろう。そういうベースのないところに、ベースを打ち立て、相互のやり取りを経て、一定の意味合い、というよりは相互間の了解を打ち立てる。


 ならばこのときにいわゆる辞書的意味合いから逸脱した内容を教えてしまえば、逸脱した理解になるのかしら? まぁ普通になりますわね。この世の中にそうして成立した誤用はたくさんある。ふいんきはなぜか変換できないはずが、言語ゲームが進んだ結果、なぜか変換できるようになってしまった。というかもう「なぜか」とは言えないのだな。「言語ゲームが変換を受容するところまで進んだ」と言うことができるようになった、となるのだろう。


 あ、話を飛ばしすぎている。まずはこれがあった。「特定の音素のつながり」もしくは「特定の文字のつながり」を「単語」として理解する。言語ゲームにおける第一歩はここだろう。こうして第一歩を定めることによって原初の言語がやがて文章となり、抽象的概念まで扱えるようになったりし、果てにはどっかのクソ変態天才が『論理哲学論考』なんて変態的な本を書き上げるにまで進んだ、とまで話を含め得られる。


 そして、例によってヴィトゲンシュタインだからここに執拗なたとえ話が入り始めるのだ。ここでヴィトゲンシュタインは無数の言葉たちを「道具箱の中身」と例える。そこにぎっしりと詰め込まれた道具たちは、ざっと言ってこんな感じの理解状態が考えられる。

・中にぎっしりと詰まっているのでよくよく個体識別も取れない状態。

・なんとなく一個一個の形状は判別がつかないでもない状態。

・実際に手に取るなどしてどんな姿形なのか、どのように名付けられるのかがわかった状態。

・これこれこのような目的があって用いられるのだ、と学んだ状態。

・実際に使ってみて実感を得た状態。

・使いこなし、応用用途も把握できた状態。


 ただし、道具であればまぁ外見が顕著に違ったりもするからまだ把握はしやすいのかも知れないが、言葉はちょっとね? 母音と子音の数は限られているし、もちろんアルファベットの組み合わせだって無制限的、と言うわけではない。なのでちょっと判別に苦労するかもね? とは言えゲームを繰り返し重ねていけば、認識度は上がっていくのだ。


 とにかく言語は、様々な状況に応じ、特定の目的を達成するためにAさんとBさんとの間での交換を繰り返すことで、相互間の認識が高まり、その後もすり合わされやすくなってくる。で、その言語に慣れない人、Cさんがいきなり「自分とは無縁のところで散々にすり合わされきた言語」をぽんとぶち込まれたら、当然混乱するよね? ある程度すりあわせのなされていない、けれどされていなくともまだ把握のしやすい言い回しにて彼には語らねばならないのだ。こうしてこんどはAさんBさんとCさんとの間での言語ゲームが始まる。



 ……以上が、ざっと通読した内容に対してのさっとした理解である。ではここでなにが発生するだろうか。『論考』においてヴィトゲンシュタインは「事実・現象」と概念を設定した。ある程度の事実・現象がまとまることによって特定のものDは言い表される。で、認識の叶うDについて「我々はその内的要素を全て把握している」と論じた。これは「Dは様々な要素によって構成されており、その要素をいちいちあげつらうことはできないんだけど、けど何故か我々はDがDであることを知ってしまっている」という意味合いだった。


 言語ゲームは、こう言った点からいきなり揺さぶりをかけてきていることになる。「内的要素を全て把握している」状態に届くまでには、Dについての言語ゲームを幾度となく繰り返し、体感した上でないと無理だよね? という話になるだろう。


 ……ん、次の「名」と「単純なもの」がまさしくそう言う話になりそう? さてどんなものか。



 ふむ、『探求』については鬼界氏がおまとめくださったパートごとに自分なりの読解を形とし、そこに対する思考、という形式が良さそうである。とは言えこれもやはり下手に決め打ちしきらないほうがいい。マイペースで、「頑張らずに」いくのだ。

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