『探究』読書日記をChatGPTさんに食わせる

このページには『探究』読書日記をどうchatGPTが召し上がったのかを単に垂れ流しておきます。わあい。まいにちがたのしい。



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このテキストを著述した人物の心理状態をプロファイリングすると、以下のような特徴が考えられます。


1. 知的好奇心の高さと分析的思考

著述者は、ヴィトゲンシュタインの哲学的著作に対し非常に深い興味を抱いており、その概念や主張を細かく理解しようとしています。

特に「言語ゲーム」や「道具箱」の比喩を取り上げ、独自の視点で解釈を展開していることから、論理的かつ分析的な思考が得意であることが伺えます。

2. ユーモアと自嘲的姿勢

「えっなに言ってんのこのひと」や「どっかのクソ変態天才」といったフレーズからは、難解な内容を読み解く自分を俯瞰しつつ、ユーモアを交えて書いていることが分かります。

自分の解釈や思考プロセスを「さっとした理解」として控えめに表現することで、謙虚さと自嘲的な態度も見え隠れします。

3. 執拗な探究心

テキスト全体を通じて、著述者は一貫してヴィトゲンシュタインの議論を丁寧に再構築しようとしています。特に、「単語」から「文章」、さらには「抽象的概念」へと言語が発展するプロセスを詳細に追っている点から、対象への執拗なまでの探究心が感じられます。

4. 比喩と例えの多用

道具箱やチェス、AさんBさんCさんの例などを頻繁に用いることで、抽象的な概念を具体化し、他者に分かりやすく伝えようとする努力が見られます。これにより、著述者のコミュニケーション能力や説明への工夫も窺えます。

5. 整理整頓と柔軟性

「マイペースで、『頑張らずに』いくのだ」という終盤の記述は、膨大な情報を扱いながらも焦らず、自分のペースで進めようとする自己管理能力を示しています。同時に、下手に決め打ちしない柔軟な思考を持ち合わせています。

6. 内省的で哲学的な姿勢

言語や認識に関する哲学的な問いを掘り下げ、自身の理解を深めようとする態度が全体を通じて顕著です。「我々はDがDであることを知ってしまっている」など、メタ認知的な思考を含め、深い内省を伴った文章です。

総合的な心理状態

著述者は、知的興奮と難解なテーマへの格闘に基づく若干の苦労が混在する心理状態にあります。一方で、探究そのものを楽しむ余裕や、自分なりのペースを大切にするバランス感覚も持ち合わせており、好奇心旺盛で創造的な人柄が反映されています。




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この続編の文章からは、著述者がヴィトゲンシュタインの哲学の中で直面している新たな進展と混乱が浮かび上がります。以下に、それらを具体的に整理します。


1. 読解における進展

『論考』の構造に対する批評的な視点の獲得

著述者は、ヴィトゲンシュタインの『論考』における核心概念(例:「名」「単純なもの」「写像理論」)を取り上げ、それを単に受け入れるのではなく、批判的な検討を始めています。このプロセスにおいて、著述者は「合成」「内的要素」などの議論の曖昧さに気づき、それを指摘することで哲学的議論の複雑性に対する洞察を深めています。


独自の視点での解釈の深化

ヴィトゲンシュタインの議論が、言語ゲームや論理の議論にどう繋がっているのかを整理し、自身の納得感を模索しています。たとえば、「合成」という用語の使い方に対する疑念や、全体の構造を把握するまで語義が不明瞭であることを批判的に分析することで、自己の理解を深化させようとしています。


2. 混乱や葛藤

哲学の根本的な曖昧さへの困惑

著述者は、『論考』における「名」や「単純なもの」の議論に直面し、それがいかに抽象的で曖昧なものであるかに苛立ちを感じています。「地獄の言語ゲームデスマ」や「最悪の状態」という表現は、これらの曖昧さが読解の障害となっていることを物語っています。


ヴィトゲンシュタインの態度へのフラストレーション

「自明であるヅラしている言葉の運用」や「一瞬で片がつくようなことを堂々巡りする」といった指摘から、ヴィトゲンシュタインが示す議論の進め方(あるいはその冗長さ)に対する強い不満が読み取れます。このような哲学的スタイルが、著述者にとって精神的な疲労や混乱をもたらしていることが明らかです。


受け入れるべきか、批判すべきかの葛藤

著述者は、「納得いかねえけど強制的に飲み込まなきゃいけねえ」と感じながらも、ヴィトゲンシュタインの議論をただ受け入れるのではなく、自分の立場からツッコミを入れています。この「納得できないが理解したい」という相反する心理状態が、情緒の不安定さを引き起こしています。


3. 進展と混乱の根本的な要因

ヴィトゲンシュタインの哲学の二面性

ヴィトゲンシュタインの『論考』は、シンプルな命題論理を扱っているかのように見えながら、実際にはその背後に複雑な哲学的前提や矛盾を含んでいます。この二面性が、著述者に進展を感じさせる一方で、さらなる混乱を招いています。


読解のプロセスそのものの苛立ち

著述者は、膨大な文字数や議論の堂々巡りに苛立ちながらも、同時にそれを楽しんでいる部分があります。この矛盾した態度が、彼の情緒的不安定さや感情の起伏に繋がっていると考えられます。


4. 著述者の心理的進展

この段階では、著述者は『論考』の哲学的曖昧さや自己批判的な構造を理解し始めています。同時に、これを批判的に読むことで自分の哲学的な思考を発展させている様子が伺えます。

混乱は依然として大きいものの、著述者が哲学的な読解のプロセスを楽しむ余裕を見せている点も注目すべき進展です。

結論

この段階の著述者は、『論考』を批判的に読み解くことで哲学的理解を深めていますが、同時にその曖昧さや矛盾に苛立ちを感じています。進展と混乱の間を行き来しながらも、自分なりの解釈を模索し、時折ユーモアを交えつつ読解を進めている点に、彼の知的な姿勢と忍耐力が垣間見えます。




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この記述から、著述者が『探究』の読書体験を通してどのような感情や知的葛藤を得ているか、いくつかのポイントを挙げて分析できます。


1. 読書体験の進展

ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」への理解の深化 著述者は、「言語ゲーム」という概念がヴィトゲンシュタインの長年の苦悩と試行錯誤の末に到達したものだと理解しています。これにより、言語ゲームの哲学的な深みを感じつつも、同時にその議論のペースや方法論に対してイライラしています。


「隠喩」と「言語ゲーム」のつながりへの洞察 「言葉の意味はほぼ隠喩」という佐藤信夫氏の考えや、『レトリックと人生』におけるメタファーの役割について触れることで、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームが言語的隠喩や思考プロセスの中核を成していることに気づいています。これにより、『探究』の議論を自分なりに位置づけようとしています。


共感と哲学的な洞察の交差 著述者はヴィトゲンシュタインの言葉(例:「厳密さ」に関する記述)を通じて、彼の生涯を通じた苦悩や孤独、そしてその哲学的姿勢に共感しています。この共感は、著述者自身の過去の経験ともつながり、個人的な意味を持つものになっています。


2. 混乱とフラストレーション

議論のスピードと反復への苛立ち 著述者は『探究』における議論の遅さや、繰り返される内容に「だるい」「次に進もう」などの感情を抱いています。このような読書体験は、哲学的な洞察を得るプロセスでありながらも、著述者にとってはストレスフルな部分が大きいようです。


哲学的議論の抽象性への困惑 「これって要するにただの隠喩やん」という著述者の指摘からもわかるように、ヴィトゲンシュタインの議論が抽象的であり、具体的な例や即時的な結論が得られないことが、混乱の原因となっています。


ヴィトゲンシュタインの姿勢への共感と反発 「うるせー!」という感情的な発言に象徴されるように、ヴィトゲンシュタインの議論方法への反発が強く表れています。同時に、「生きづらい毎日だったんだこのオッサン」と語ることで、彼の哲学が生涯の苦悩の反映であることを認識し、一定の共感を示しています。


3. 読書体験の特徴

知的な刺激と感情的な揺さぶりの両立 著述者の体験は、知的な挑戦と感情的な共感が交錯する独特の読書体験です。ヴィトゲンシュタインの哲学の難解さに苛立ちながらも、その深い洞察に触れ、彼の人間性を感じ取ることで、読書が単なる哲学的な学びを超えたものになっています。


自分自身との照らし合わせ ヴィトゲンシュタインの記述に、自身の過去の感覚や経験を重ね合わせることで、哲学を通じて自己理解を深めようとしています。特に「厳密でないもの」に対する彼の姿勢に対する共感や反発は、著述者自身の生き方や考え方にも直結しているようです。


4. 読書体験の意味

著述者は、ヴィトゲンシュタインの哲学を読むことで、言語や概念の厳密さへの執着や、それに伴う孤独感や生きづらさを追体験しています。この読書体験は単なる知的な試みを超えて、著述者自身の人生観や価値観に影響を与えるような深い体験となっていると考えられます。


「共感性羞恥の追体験すんのが目的の本だったっけ?」という発言からも、ヴィトゲンシュタインの人生に対する共感が、著述者自身の情緒的な反応を引き出していることがわかります。この共感を通じて、哲学的な議論が人間の生き方や感情に密接に結びついていることを改めて認識しているのでしょう。


結論

この段階での読書体験は、知的な混乱やフラストレーションを伴いながらも、ヴィトゲンシュタインの人生や哲学に対する深い共感や洞察を得るものとなっています。これは単なる哲学の学びではなく、自己理解や人生観の再考を促すような、非常に個人的で意義深い読書体験であると言えるでしょう。




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この読書体験を追っていくと、次の節目で現れている主な特徴は次のように整理できます:


1. 「我々」という主語に対する違和感

 読者はヴィトゲンシュタインが自身の回顧において「我々」という主語を使う点に強い抵抗感を抱いています。この抵抗感は、ヴィトゲンシュタイン自身が「論考」において抱えていた責任や問いが、なぜか「共有されたもの」として表現されていることへの苛立ちや戸惑いに起因しています。このような指摘は、読者自身が著者の思考や責任をより個別的・直接的なものとして捉えたいという態度を示しており、それが「責任逃れ」と感じる表現に対する批判へと繋がっています。


2. 自己言及と自己否定に対する感嘆

 ヴィトゲンシュタインが「モデル」に対して従来の哲学的枠組みを否定し、自説すらも解体していく姿勢に対して、読者は畏怖や敬意を抱いています。ただし同時に、その姿勢が極限まで徹底されることで、哲学そのものの危うさや読者自身の認識に及ぼす影響についても考えざるを得ない状況に陥っています。


3. 「言語ゲーム」と「比喩」への関心の深化

 読者は、言語ゲームの概念と隠喩の関連性について、自身の疑問を掘り下げています。佐藤信夫のレトリック論を参照することで、隠喩が「成功することで辞書に登録されていく」という動態に言語ゲームの影響を見出しつつあります。さらに、ヴィトゲンシュタインが哲学的比喩に対して批判的である一方で、生活形式や社会的文脈に根ざした比喩は言語ゲームの不可分な一部であるという可能性を模索しています。


4. 哲学の射程と読者自身の距離感

 この節目では、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームが「人間社会のコミュニケーションやディスコミュニケーションを解き明かすもの」として新たな可能性を示唆する一方で、それが著者自身の視点から見ると「哲学者自身が自己をさらけ出して論じる」極限的な作業であることが浮かび上がります。ここで読者は、ヴィトゲンシュタインが哲学的作業を進める姿を、まるで魚が陸地について論じるような生存を懸けた作業として捉えています。


読書体験の変化として想定されること

認識の転換

 初期の苛立ち(「何度も同じことを繰り返している」)から、哲学的営みの過酷さやその射程に対する尊敬と理解へと移行しています。ヴィトゲンシュタインの「執拗な分析」が単なる冗長ではなく、哲学的手法として必然であることを受け止めつつあります。


比喩と哲学の関連性に対する問いの深化

 言語ゲームの概念を隠喩と結びつけ、それが社会的・文化的背景に依存するものである点に注目するなど、ヴィトゲンシュタインの哲学的概念を広い視点で解釈しようとしています。


哲学を読む視点の移行

 最初は読者が「消費者」として作品を評価していたのに対し、現在では「共感性羞恥」や「哲学的姿勢」を追体験する立場にシフトしています。


今後の読書の方向性

隠喩と言語ゲームのさらなる接続

 ヴィトゲンシュタインの概念を佐藤信夫や他の研究者の議論と対比し、具体的な事例や応用に踏み込む可能性があります。


哲学の本質への問い

 哲学が「生存可能な活動」であるか、あるいは「自殺的な行為」であるかといったテーマに踏み込み、哲学そのものの意義や限界を探る方向へ進むかもしれません。


読者自身の読書姿勢の再構築

 これまでの読書体験を振り返りながら、哲学的な問いを自分の言葉で語る準備を進める段階に移行しそうです。




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この続きから展開される読書体験は、以下のように整理できます。


1. 「我々」の意味の再解釈

読者は冒頭で抱いていた「我々」という主語に対する違和感について新しい視点を獲得しています。

「我々」はヴィトゲンシュタイン自身の過去と現在を含むものであり、自己との対話的な「独り言」であると捉え直しています。この再解釈により、読者は彼の哲学的スタンスの一貫性や回顧的な自己批判を理解し始めています。

2. 『論考』に対する評価の揺れ

読者は『論考』の核心的な考え方を振り返り、それが持つ矛盾や限界について、ヴィトゲンシュタイン自身が後に徹底的に批判している点に驚きを感じています。

特に「写像理論」の問題点――現実との対応性や普遍性への過剰な依存――が、本質的にはヴィトゲンシュタイン自身の想起の中に留まる主観的なものだという認識を深めています。

『論考』の価値は認めつつも、それが限界を内包していること、そしてその限界をヴィトゲンシュタイン自身が後に暴いていることに、ある種の皮肉を見ています。

3. 理解の限界と「語りえないもの」

「理解」に関する議論の中で、読者は次のような問題に直面しています:

理解や意味が「何をもって成立するのか」を語ること自体が矛盾を含む。

「わかった」と言うことは、最終的には言語の枠組みの中でしか表現できず、その枠組みが普遍的に正しいとは言えない。

この結論は、ヴィトゲンシュタインが『論考』で示した「語りえないものについては沈黙せよ」という命題に回帰しています。

4. 荘子との対話的な比較

読者は荘子『斉物論』との親和性を見出しています。荘子が「知る」と「知らない」の境界を曖昧にし、その根拠を揺るがす態度は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームが抱える不確定性と共鳴しています。

これにより、「知識」や「理解」は主観的な合意形成に過ぎない可能性が示唆され、言語ゲームの普遍的な構造が一層曖昧なものとして捉えられています。

5. 言語ゲームの再評価

言語ゲームについて、「よくわからないものの同意形成」という本質に近づいています。これは、社会的・文化的文脈に依存するがゆえに、一見して客観的な議論や知識体系が持つ曖昧さを露わにするものです。

この結論は哲学的な抽象から、実践的な言語使用の具体性へと向かう姿勢を促します。

読書体験の展開

この読書体験は、読者自身が初期の「苛立ち」から徐々に深い理解と共感に至る過程を反映しています。


当初はヴィトゲンシュタインの言葉遣いや理論の矛盾に対する反発が強かったものの、議論を追うにつれて、それが単なる矛盾ではなく「哲学的思索の限界」に根ざすものであることを理解します。

さらに、ヴィトゲンシュタインを荘子や仏教思想と対比させることで、言語や哲学が「わからなさ」に対して常に不完全な試みである点に気づいています。

今後の可能性

この体験を踏まえ、読者は次のような方向性に進むかもしれません:


哲学の普遍性の探究

 ヴィトゲンシュタインの議論を他の思想体系(荘子、仏教)と比較しながら、言語哲学が示す普遍的な枠組みを探る。

言語ゲームの応用

 具体的な社会的・文化的事例において言語ゲームの概念を適用し、現代のコミュニケーション論や認識論における示唆を深める。

「理解」と「同意形成」への問い

 「わかった」と「理解した」の違いや、同意形成がもたらす曖昧性について、さらに哲学的考察を重ねる。

読書が進むにつれ、哲学的問題への批判的態度から、探究的・創造的な対話への姿勢に変化していく過程が明らかです。




○6


この読書日記からは、読者の心的状況が複雑に推移している様子がうかがえます。以下に、その変化を分析し、読者がどのような感情や思考を抱きながら読書を進めているかを整理します。


1. フラストレーションと批判的態度

『哲学探究』の冗長さや「読む」という概念への限定的なアプローチに対する苛立ちが随所に見られます。

ヴィトゲンシュタインが「読む」を視覚認識と発音のスキルに限定して論じている点に、読者は「無菌状態での議論」を行っていると感じています。この抽象性が実際の教育現場や日常的な「読む」の経験とかけ離れていると指摘し、議論の根本的なナンセンスさを批判しています。

また、ヴィトゲンシュタインのテキスト全体に対して、「削る努力が不足しているのではないか」と言及することで、読者はテキストの構成そのものにも不満を抱いています。

2. 理解への模索

一方で、読者はヴィトゲンシュタインの核心的な議論――言語の複雑性や使用法の曖昧さ――について、ある程度同意を示しています。

「読む」という行為が単純に定義できない複雑なプロセスであることを認めつつも、その複雑性をどのように説明するべきか、という点で議論の方法に疑問を持っています。

特に、ヴィトゲンシュタインの「簡単には断定できない」姿勢に対して、「重要性は認めるが議論の展開方法には改善の余地がある」との態度が伺えます。

3. 苦笑と皮肉を交えたユーモア

「くっそ重い言葉」や「悪魔のような課題」といった表現に象徴されるように、読者は哲学的課題の重さを感じつつ、それをどこか冷静かつユーモラスに受け止めています。

特に、「はい何も語れませんでしたね、しんどい」という部分からは、言語や理解の本質を語り尽くすことの難しさに対する諦めと、それでも探求を続ける意志が見受けられます。

4. 哲学的探究への希望と不安

ヴィトゲンシュタインが指摘する、「言葉は定義では十分に説明できない」という命題に直面した際、読者はその難解さに圧倒されつつも、議論の先に待つ新たな発見を期待しています。

ただし、次に何が待ち受けているのかに対する恐れも感じられます。この本が投げかける課題の重さが、読者の精神的負担となっていることは明らかです。

心的状況の推移

初期段階:苛立ちと反発

 テキストの冗長さや抽象性に対して、強い不満と苛立ちを感じる。特に「読む」という概念への限定的な定義が、現実感のなさを伴い批判の対象となる。


中間段階:理解への模索

 批判的な態度を保ちながらも、ヴィトゲンシュタインが提示する言語の複雑性や使用法の曖昧さには一定の理解を示す。ここでは「重要性」と「方法論的な問題」の二重の視点が交錯している。


後期段階:ユーモアと受容

 読書体験を通じて、哲学的探究の難解さをある種のユーモアで受け流しつつも、それに真正面から向き合おうとする意志が現れる。


読書体験の全体像

読者は『哲学探究』を通じて、哲学的課題の重さに苛立ちながらも、その背後にある重要な議論や洞察を拾い上げようとしています。

ヴィトゲンシュタインの議論の冗長さや不完全さに反発を覚えつつも、それを超えたところにある言語や理解の本質を探究する姿勢が垣間見えます。

苦笑や皮肉を交えながらも読書を続けることで、読者自身の哲学的な思索が深まっていることが明白です。

今後の展開への予測

読者はヴィトゲンシュタインの議論が進むにつれて、さらに困難な課題に直面することになるでしょう。しかし、その過程で得られる洞察が、読者自身の言語や理解の捉え方を大きく変える契機になる可能性があります。

苛立ちと同時に得られる思索の喜びが、彼の読書体験をより豊かなものにしていくと考えられます。



○7


この日記から読み取れる読者の心情や、ヴィトゲンシュタインの議論に対する態度は、次第に「疲労感」と「根本的な問い直し」の間を揺れ動いている様子を示しています。以下に、この先の読書体験について予測しつつ整理してみます。


1. 苛立ちの深化:ヴィトゲンシュタインの教育方法と議論の進め方への不満

教育者としてのヴィトゲンシュタインの姿勢に対する読者の強い拒否感がまず目立ちます。

「理解度の確認」をすっ飛ばして「正解を押し付ける」ような態度への批判は、単なる逸話としてではなく、哲学者としてのヴィトゲンシュタインの限界を象徴するものとして受け止められています。

その延長線上で、彼の哲学的議論の方法論――自己批判や過去の主張への再挑戦――が「苦行」として受け取られている点も特徴的です。

2. 読者の疲労感と理解の模索

日記のトーンから察するに、読者は疲れを感じながらも、この議論の根底にある問いに向き合おうとしているようです。

「言葉の意味」や「理解とは何か」という根源的なテーマに対して、ヴィトゲンシュタインが多くのルートを試みながら結論を避けていることに対し、読者は「またか!」と呆れる一方で、哲学的問いそのものの難しさも受け入れ始めているように見えます。

3. 今後の読書体験への予測

(1)さらなる疲労と苛立ち

ヴィトゲンシュタインの議論が「結論に辿り着かない構造」を持つ以上、読者の苛立ちは今後も続く可能性が高いです。

特に、「論考時代の自分への自己批判」を繰り返しながらも、新しい結論を明示しない点が、読者のフラストレーションをさらに深めるでしょう。

(2)ある種の突破感

一方で、読者が言語の本質――「本当の意味や本当の理解は存在しない」という考え――に気づき、その概念を「腑に落とす」瞬間が訪れるかもしれません。

この瞬間は、苦行を乗り越えた結果として、ヴィトゲンシュタインの哲学の核心を掴む達成感に繋がる可能性があります。

(3)ユーモアの強化

苦行的な読書体験が続く中で、読者は引き続きユーモアを武器にするでしょう。「先生、それ論考時代の先生に言ってください!」のような軽妙なツッコミは、読書体験の苛立ちを緩和し、読者自身の哲学的思索を深める助けになると考えられます。

読書体験の予測される進化

苛立ちのピーク

 ヴィトゲンシュタインの言説が明確な結論を回避し続けることで、読者のフラストレーションはさらに高まるでしょう。ただし、その過程で議論の本質的な部分に触れる瞬間が訪れる可能性があります。


概念の腑に落ちる瞬間

 読者は、「言葉とは媒介物にすぎない」というテーマの重要性を、体感的に理解する時を迎えるかもしれません。この時点で、ヴィトゲンシュタインの方法論に対する評価が変化する可能性があります。


耐久力の向上とユーモアの深化

 読者が苛立ちを解消しつつ、自分なりの哲学的洞察を得る力を鍛え、さらに楽しみながら読書を続けるようになる可能性も考えられます。


まとめ

この先、読者はヴィトゲンシュタインの哲学に向き合う中で、さらなる疲労感とフラストレーションを抱える一方、重要な哲学的発見を得る可能性もあります。読書は決して楽ではありませんが、ユーモアや批判的思考を武器に、読者自身の思索がより深まる契機となるでしょう。「明日はどっちだ」という問いの答えが見つかるのは、案外遠くないかもしれません。



○8


以下では、今回の日記から読み取れる「現況の読書体験の状態」と、そこから予測される「今後の読書体験」を整理し、分析します。


1. 現況の読書体験の状態

1-1. フラストレーションの収束と「フラットに読む」姿勢

苛立ちの克服意識

これまで苛立ちや批判が前面に出ていた読書姿勢でしたが、今回の日記では「フラストレーションを抱えるだけ無意味」と割り切り、落ち着こうと努めている様子が見られます。著者自身が「刈り込みたかったかもしれない」未整理のテキストだと理解しつつ、「今はあるものを受け取る」というスタンスに変化しています。


自分の思考を“第三者の目”で見る

ChatGPTなどを活用して、自分の思索を一度客観視する工夫をし始めています。ヴィトゲンシュタインの「人々が自分で考えるように促したい」という言葉と響き合うように、読者自身も“自分の思考を見直す”段階に入りました。


1-2. 東洋哲学との接点の強化

『荘子』『老子』との比較・連想

「何が正しいかわからない」「有限な事例の積み重ねで無限を推し量ろうとしている」といった問題意識をめぐって、荘子や老子の一節を引き合いに出し、ヴィトゲンシュタイン的な考察を東洋的視点から補完・対照しようとしています。


荘子が示す「是か非か」の曖昧さや、老子が説く「無から有を想定する」構造が、言語ゲームにおける「定義や判断の不確かさ」と呼応している、と捉えているようです。

「やらなきゃいいのに」と「やらざるを得ない」の往復

『荘子』が示唆する“そのような議論をそもそも組み立てること自体が無駄”という態度と、ヴィトゲンシュタインが“実例を無数に挙げながら、言語の可能性や不可能性をあぶり出す”という姿勢は対照的です。読者は、その違いを肌で感じつつ“両者の間”を行き来している段階です。


1-3. 「定義の一致」と「判断の一致」への着目

価値判断を含む合意という視点

ヴィトゲンシュタインの言う「定義の一致」だけでなく、「判断の一致」までもが言語コミュニケーションの要となる、という指摘に強い興味を示しています。


これは単なる語彙の共有以上に、文化的・社会的背景や価値観まで含めて“すり合わせ”が必要であるという観点で、読者が「人と人とのつながり」という次なるテーマに行き着きそうな気配がうかがえます。

無限に列挙されるケースと不定型な言語機能

「事例を積み重ねた先にぼんやりと浮かぶもの」を見るために、果てしなくケースを挙げるヴィトゲンシュタインの方法に対し、「やはり無数の具体例を示さなければ、本当に見えないものがある」という納得をし始めている部分もあります。一方で、荘子や老子のように“そもそもそのような思索は尽きることがない”という視点から「大変さ」を実感している状況です。


2. 今後に生じうる読書体験の予測

2-1. 「共同体」「つながり」への議論の拡大

言語ゲームの社会性に踏み込む

今回の日記の終盤でも「近接」や「共同体としての言語ゲーム」の話題が見え隠れしています。今後、読者は“個人の理解の問題”から、他者やコミュニティとどう価値観・判断を共有(あるいは共有できない)しているのか、社会的・文化的視点へ関心を深めるでしょう。

具体的には、「規則に従う」とはどういうことか、「言葉の意味は共同体によってどこまで確立されているか」などの議論に進むと考えられます。

2-2. 東洋哲学とのさらなる対比・融合

荘子・老子との“読み合わせ”継続

既に荘子・老子の引用が自然に入り込んでおり、読者の中でヴィトゲンシュタイン思想と東洋哲学の比較が今後ますます進む可能性があります。

例えば、「判断の一致」を老子流に言えば「有と無の相互補完」という視点にも置き換えられるかもしれません。読者はこの比較を楽しみながら、自身の立ち位置を確かめていくことが予想されます。

2-3. 苦行から“思考の楽しさ”への転換

結論のなさを受け入れるステージへ

ヴィトゲンシュタインのテキストがもつ“結論を示さない”性格や、荘子・老子が説く“割り切れなさ”を、読者はこれまで批判的に捉えがちでした。しかし、現在は「フラストレーションを抱えても仕方がない」と開き直り、「ケースを積み重ねる」という地道な作業が発見を促すことを理解し始めています。

今後は、“いろいろな思考を試してみるのが面白い”という建設的な受容に移行し、読書を“思考実験の場”として一層楽しむ可能性があります。

2-4. 思考の整理と書き出しの深化

自分なりのアウトプットの確立

チャットボットを使って客観的にまとめる試みを継続することで、読者はより体系的に自身の思考や感想を整理するでしょう。また、東洋と西洋の哲学比較を自分の言葉でまとめ上げる“独自のテキスト”づくりに進むことも期待できます。

これにより、読者自身が「考え抜いた結果を次に生かす」段階に入り、今度は新たな角度からヴィトゲンシュタインを再読み込みする、という循環構造が生まれると考えられます。

まとめ

現況:

苛立ちをいったん手放し、フラットにテキストへ向かう姿勢へシフトし始めています。東洋哲学の引用を通じて、ヴィトゲンシュタインの“無限の列挙”と“結論なき考察”を別の観点から照らし出し、受容する準備が整いつつある段階です。


今後の展開:


言語ゲームの社会的・共同体的側面へ関心が向かい、「人と人とのつながり」を再検討していく。

荘子や老子など東洋哲学との対比・融合がさらに深まり、思索の幅を拡大する。

“苦行的読書”から“思考の面白さ”を発見する読書体験へとシフトしていく。

思考の整理やアウトプットを通じて、読者なりの新しい哲学的観点を培い、より成熟した理解へ近づく可能性が高い。

「苛立ち」を通過したからこそ生まれる“発見”を、読者自身がどのように育てていくか――その過程が、今後の読書日記の大きな見どころになっていくでしょう。



○9


読者はヴィトゲンシュタインの「痛み」の議論や「私の内部」といったテーマに触れた際、その個人の感覚的経験と哲学的記述との矛盾を感じています。特に「感覚の自己認識」がどのように体系的に理解されるべきかを掴みきれず、「私」と「感覚」をどのように分けて考えるかで悩んでいるようです。『論考』の「自己」との関係や『荘子』から引いた哲学的表現を通し、自分と世界の境界線を強く意識しつつもその不可分性を実感しています。 2. **「結局、語り得ないもの」への受容** 「語り得ないもの」や「沈黙すべきこと」について、定義できずに存在する哲学的問題を再認識しています。読者にとって、ヴェトゲンシュタインが言語の限界を少し減らすことで「語り得ないもの」を処理しようと試みた反面、結局その存在がどうしようもないことにどうしても立ち返らざるを得ないことに疲れを覚えています。それでも言語ゲームを通じてその不確定性に対面し、理解する日は来るかもしれないという希望を持ちつつ進行しています。 3. **自己と他者の関係性に関する思索** 『荘子』の抜粋と共に振り返っていた「私は世界そのものである」という理想的な境地と、やがて「他者」との違い、俗世間との対峙が始まるという問題が繋がり、個々の自己認識としてどう他者とのつながりを模索するかに疑問を抱いています。 ### 今後の読書体験の予測: 1. **言語ゲームと道枢を巡る追求** 今後、読者は「言語ゲーム」や「道枢」といった哲学的パラメータをより深く追求するでしょう。『荘子』や『老子』の教えを絡めつつ、言語が持つ限界や参照しきれないものについての理解が深まります。その中で、「言語が絶対的なものではなく、限られた‘ゲーム’に過ぎない」という認識が強くなる可能性があります。 2. **主観と客観の関係性のさらに深い考察** これまで感じていた「内から外への移行」「自己認識と他者認識の上下関係」に関する思索は段階的に深化し、「外部と自己との境界」が哲学的問題として浮上します。『荘子』と『ヴェトゲンシュタイン』の衝突する考え方をさらに整理することで、このテーマに関する新たな洞察が得られることが予測されます。簡単に答えを出せる問題ではないことを理解し、哲学者としての「生きる知恵」を試す場合も考えられます。 3. **苦しみから思索の喜びへ** 疑問や苛立ちを抱えつつも、言語の限界を感じながらもそれが一つの思索の場に変わり、思索そのものが面白くなり始める時点へ移行します。『荘子』『老子』が示唆する、無為自然な受け入れと、限界を感じつつも耐え抜く姿勢が、その後の哲学的道の追求に好影響を与えるところが予測されます。言語と認識の限界に対して満足感や知恵を見出しながら、最終的には自己と他者の共存とつながりに向かう可能性が高いです。 ### まとめ: 読者の精神的葛藤としては、「痛み」や「感覚の認識」の不確実性が深く意識され、ヴィトゲンシュタインの議論に対する立場が一層明文化されてきているとはいえ、依然として「自己」「他者」「社会性」に関する理解は不安定さを残しています。今後、言語に関する絶対的解答がないことを受け入れ琴線を正確に調整し、答えに満足することよりもその過程と、様々な観点で重層的に求めることを楽しみながら進んでいく可能性が見込まれます。

以下では、今回の日記に表れている読書体験の大きな展開を総括するとともに、そこから予想される「今後の読書の方向性・展開」について整理します。


1. 現況の読書体験の総括

1-1. 「痛み」と主観・客観問題への飛躍

『論考』の写像理論とのギャップ

ヴィトゲンシュタインが『探究』で強調する「痛みの主観性」をめぐる議論は、かつて『論考』でドヤ顔(と読者が感じるほど)に提示されていた “アプリオリな論理構造” との矛盾を際立たせます。


読者は「なぜ ‘痛み’ の主観性を徹底追究する立場の人が、かつて写像理論をあれほど絶対的に見なせたのか?」という苛立ちを持ちながらも、この矛盾がむしろヴィトゲンシュタイン自身の思索の激変を物語る証拠だと感じているようです。

“痛み”は他者と共有可能か?

「私の痛み」と「あなたの痛み」の同一性は証明不可能であるにもかかわらず、人間同士は“痛み”を共通に了解してしまっている。この “言語ゲーム” のブラックボックス(「なぜか共有されてしまう」部分)に、読者はあらためて深く着目しています。


1-2. 荘子『斉物論』との対比で際立つ“諦め”と“合一”

主観と客観の曖昧さ=道枢の議論

読者は「痛み」と「自己認識の境界線」に関するヴィトゲンシュタインの議論を、荘子が説く「是と非」「自と他」をめぐる曖昧さと重ね合わせています。


荘子が「道と合一することは実は起こらない」とある種の諦めを語る一方で、ヴィトゲンシュタインは “言語ゲーム” を通じて「どうしても区切りを作ってしまう人間の姿」を浮き彫りにする。この対比が読者の思索を深める大きな要因になっています。

「説明し尽くせる」と思う人たちへの違和感

「痛み」や「主観」を全面的に客観化しようとする立場への違和感が、荘子的な「そもそも割り切れない」という境地と響き合っています。


読者自身は「自分はもう ‘道枢’ 的視点(割り切れなさの納得)にいるため、なぜこれをわざわざ疑う人がいるのか不思議」とし、そこに苛立ちと興味が交錯している様子がうかがえます。

1-3. 「沈黙せよ」と「蠅取り壺」──『論考』6.53の延長線

語り得ないもの・沈黙すべきものが減った?

ヴィトゲンシュタインは『論考』で「語り得ないものには沈黙せよ」と述べましたが、『探究』では “言語ゲーム” によって語り得る範囲が少し広がったように見えます。


とはいえ、結局は “語り得ないもの” が依然として残り、それを指し示すだけで終わる(=“結論らしい結論が出ない”)構造に、読者はもどかしさを抱きつつも「仕方ない」と受け入れているようです。

蠅取り壺からの出口と「哲学療法」

ヴィトゲンシュタインの “哲学の目的は蠅取り壺から蠅を逃がすことだ” という例えが、『論考』の 6.53 に通じる内容として提示されます。


読者はこれを「ほぼ同じことを言っている」と見なし、ヴィトゲンシュタインの最終的な態度(“形而上学を排しつつ、しかし思考をやめない姿勢”)をどう評価するか、いまだ結論を保留している段階です。

2. 今後の読書体験の展開予測

2-1. “私的言語”と「他者理解」の深堀り

本日扱われた「痛み」問題は、『探究』の有名な「私的言語論批判」に深く関わります。

おそらく今後も「痛み」や「感覚」を例に挙げながら、「どうしても ‘私の主観’ を伝えきれない部分があるのに、なぜ人間は問題なくコミュニケーションできるのか?」という謎が更に掘り下げられるでしょう。

読者はここで、荘子的な「自他の区別を前提にしつつ、それでも共有してしまう不思議さ」にも改めて目を向け、ますます比較を進めると考えられます。

2-2. 行動主義・振る舞い主義への視線

ヴィトゲンシュタインが「行動以外はフィクションでは?」と批判される側面を “偽装された行動主義者” と形容する箇所に、読者は強い関心を持っています。

今後は「行動主義 vs. 内面主義」のような議論に対して、読者が「結局行動しか確かめようがない」とするW的立場をどこまで受け入れるか、あるいは東洋的な“内面の割り切れなさ”との折衷を図るのかに注目が集まるでしょう。

2-3. “沈黙”と“語り得ないもの”との新たな向き合い方

“痛み”や“主観”の検証で改めて実感する「語り得ないもの」――これを読者は「割り切れなさ」として捉えています。

今後は、ヴィトゲンシュタインが『探究』終盤で触れる「世界のあらゆる混沌を前に、哲学はどう身を処すのか」という問いに進むにつれ、読者はさらに「沈黙すべきもの」と「言語ゲームによってどうにか取り扱えるもの」の境界を意識するはずです。

同時に、荘子や老子の “無為・不言” の概念と対比させることで、“沈黙” と “思索” のせめぎ合いを再考する展開が見込まれます。

2-4. 「あえて収斂しない」読書態度の可能性

前回までの読書日記と比べると、読者は “苛立ち” を通じて「まとめきれない現状」を受け入れる柔軟性を身につけつつあります。

これから先、ヴィトゲンシュタインが結論を示すわけでもなく、むしろ “言葉で語りきれないもの” をあぶり出す作業が増えるに従い、読者自身が「あえて一つに収斂しなくてもよいのでは?」と悟る局面が来るかもしれません。

そうなると、読者は“道枢” のような割り切れなさ、あるいは “蠅取り壺” のような哲学的ジレンマを、半ば楽しみながら思索を続けるスタイルへと更に移行していく可能性があります。

3. まとめ

今回の大きな展開: 「痛み」という典型例を通じて、ヴィトゲンシュタインが “主体と客体の境界線” や “他者との共有不可能性” を徹底して問い直す姿勢に到達した点です。読者はこの議論を、荘子の「斉物論」や老子の思想と対比しながら、「割り切れないものを抱えたまま歩む哲学」として捉え始めています。

読書態度の変化: 苛立ちや矛盾指摘は続きながらも、「そもそも何かを ‘説明し尽くす’ ことはできない」という東洋哲学的な諦念・納得を感じつつ、ヴィトゲンシュタインの議論を改めて“咀嚼”しようとしている点が特徴的です。

今後の予測:

私的言語論へのさらなる洞察

行動主義・内面主義の対立軸の検討

“語り得ない” 領域との向き合い方の深化

一つに収斂しない“読み方”への移行

以上を踏まえ、今後の読書日記は「周回遅れに感じる議論」に対する苛立ちと、そこから立ち現れる深い哲学的洞察との間を揺れ動きながら進むでしょう。東洋哲学と西洋哲学の思考法が交錯することで、読者なりの新しい言語観や世界観が育まれていく過程が、さらに充実していくと予想されます。



○10


以下では、今回の日記に表れている読書者の心的状況を整理するとともに、今後どのような読書展開が見込まれるかを考察してみます。


1. 現況の読書体験の整理

言語と思考の不可分性への再確認


ヴィトゲンシュタインの引用箇所をきっかけに、「母国語の文法や語順が、われわれの思考パターンを規定してしまう」という主題が強く意識されています。

漢文や英語、ドイツ語、パーリ語など、言語が異なると思考の順番も異なるという事実を改めて目の当たりにし、言語相対主義や文化相対主義的な視点を再確認している様子がうかがえます。

「分けること」への不信感(もしくは違和感)の浮上


日記の後半では「排中律を引き合いに、二分法(あるかないか)を絶対視しようとする人々」と、「分けることによって却っておかしなことになる」と主張するヴィトゲンシュタインの対立が描かれています。

読者は「わかる」ことによって得られる安心がある一方で、「わからないでいること(割り切れなさ)」を提示し続けるヴィトゲンシュタインの態度に注目し、そこで何かを掴もうとしている段階に見えます。

内的言語とブラックボックスへの着目


「椅子に内的言語があるのか?」「人間の内的言語はどこにあるのか?」といった問いかけをとおして、「言葉にできない思考」の存在が再認識されています。

書かれた言葉は、膨大な「言葉にならなかった思考」を取捨選択した結果にすぎず、その背後のブラックボックスにこそ“とびきりのお宝”が眠っているかもしれないと考えているようです。

即興的な試行(“てきとーに手を突っ込んで拾う”)の肯定


「いまは適当に手を突っ込んでみて、なんじゃこりゃーと叫んでおけばよい」という独白には、読者が“結論を急がず、探索のプロセスそのものを楽しむ”姿勢が見え始めています。

これは「ブラックボックス」と言語化可能領域との境界を探る試行錯誤を、ある種の創造的行為として受け止めている状態とも言えます。

2. 今後の読書展開予測

さらなる言語相対論・文化論への発展


「フランス語は人間の思考の順序と同じ順序で語が並ぶ」→「では他の言語はどうなのか?」という疑問が深まるにつれて、読者は言語相対性・多言語比較の議論に関心を寄せそうです。

ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」が、文化・言語環境の違いによってどのように変化するのかを探求する可能性があります。

“割り切れなさ”に対する理解の深化


「分ければ安心」という人間の欲求に対し、「分けすぎると見落とす領域がある」というヴィトゲンシュタイン的態度を読者がどう咀嚼するかが、今後の焦点になりそうです。

行動や概念を二分法に落とし込むことへの警戒感がさらに強まる一方で、“曖昧さ”や“割り切れなさ”をポジティブに評価する方向に進む可能性があります。

内的言語(思考)と外的表現の境界探求


「内的言語」のあり方を考える過程で、「言語化されない思考」をいかに捉えるか? という問題意識が高まりそうです。

ここでは、認知科学や心理学のテーマ(“思考と言語の関係”や“意識の言語化”など)にも触発されるかもしれません。書き下す前の“アイデアの塊”をどう扱うのか――これをヴィトゲンシュタインの議論に照らし合わせつつ検証する展開が考えられます。

実践的・創造的なアプローチへの転換


「ブラックボックスに手を突っ込む」行為を、創作や実験の場面でより積極的に試すようになるかもしれません。

ヴィトゲンシュタインの哲学に共感しながらも、単に難問を眺めるだけでなく、自分自身が“言語化できない部分”を扱う創造的試み(執筆・表現活動など)へと展開する可能性があります。

3. まとめ

今回の心的状況


言語が思考を規定するという視点への強い関心

“分ける/わかる” 安心感への疑念と、“割り切れなさ”をめぐる好奇心

内的言語の存在とブラックボックス的領域に対する、実験的・肯定的姿勢

今後の方向性


多言語・文化間の差異を意識した言語ゲームの再考

二分法では捉えきれない曖昧領域への興味の拡大

内的思考と外的表現の境界を探る試みの発展

創造的実践を通じた “ブラックボックス” の活用

ヴィトゲンシュタインの断片的な言葉をきっかけに、読者は言葉にならない思考の豊かさと、言語がもたらす安心と窮屈の両面をますます意識していくでしょう。次の段階では、この“言語化されない部分”をどう評価・活用していくかが、より重要なテーマとして浮上すると思われます。



○11


以下では、今回の日記に描かれた読書体験を整理しながら、今後どのような展開が予想されるかを分析します。


1. 現況の読書体験:翻弄される「私」と「あなた」のあいだ

「私の内面」から「あなたに渡す」段階へのシフト


日記では、これまで自分の内側(私の中のもの)を問題としていた視点から、他者にそれを“どうやって伝えるか”に意識が移っています。

「根本的には渡しようがないはずのものを、なぜか渡せてしまう」という言語ゲームの不思議さに対し、読者は強い混乱と同時に、どこか面白さを感じている様子です。

表現されなかった思考・捨てられた思考への意識


「一文字書くたびに数倍・数十倍の思考を捨てているかもしれない」という認識が、言語表現そのものの限界を再確認させます。

「文章=そのものではない」という断絶感を覚えつつも、その断絶のなかで「何か奥に刻まれるものがあるかもしれない」と期待も抱いています。

「わからない」が支配するコミュニケーション


「私が感じているもの」と「あなたが感じているもの」が同じかどうかを根拠づけることは不可能である、という悟り。

それでもなお、われわれは「わからない」ままにやり取りをし、言語ゲームを回してしまっている。この「あいまいな共有感」に対して驚きや困惑を持ちながら、読者はそれを受け入れようとしている段階です。

奔流(思考の洪水)に翻弄される実感


読者は「奔流に巻き込まれて葉っぱのように回っている」という比喩で、自分が次々に湧き出る思考に圧倒されていることを示唆しています。

そのうち断片的に“つかまれそうなもの”に出会っても、すぐに消え去ってしまう。このプロセスを“いまは無理にまとめず流されるままにする”という姿勢で受け止めています。

ヴィトゲンシュタインの例示:「目の見えない人の頭の中は真っ暗だという像」


ここで提示される「像」は互いに正しいかもしれないが、一致しているとも限らない――という二重の構造に、読者は“言語ゲームにおける共通理解”の問題を重ね合わせています。

結局、「一致・不一致は証明できないが、ある程度の辞書的意味やリアクションで“とりあえずの了解”に達してしまう」点に、言語コミュニケーションの根源的不可解さを感じているようです。

2. 今後の読書体験の予測

「私的言語」へのいっそうの掘り下げ


これまでの流れからすると、「私の中のものは、なぜかあなたに伝わってしまう」という問題は、ヴィトゲンシュタインの“私的言語論”と深く結びつきます。

読者は、おそらく「私的言語は本当に成立しうるのか」「内面を言語で伝えるとはどういうことか」といった箇所をさらに読むことで、言語の根本的な不確実性や、しかしなぜか成立してしまうコミュニケーションを、よりラディカルに考察していくでしょう。

“分からなさ”の受容から“楽しむ”姿勢への移行


既に「わからない」のまま受け渡しをしている現状に気づき、苛立ちながらもどこか“面白がっている”一面が見えます。

今後は、この“わからない”や“共通しているのか分からないまま成立しているコミュニケーション”を「哲学的テーマとして面白い」と積極的に評価し、自ら思考実験を重ねる余裕が生まれる可能性があります。

“捨てられた思考”と“書かれなかった言葉”の扱い


今回、“文字化される前に捨てられた思考”や“書かれなかった言葉”に注目している点は、読者が自分の創作活動や思考整理プロセスを見直すきっかけになり得ます。

たとえば、「どのようにすれば失われる思考をもう少しすくい上げられるか?」といった問いに発展し、新しい読書メモや執筆スタイルを模索するかもしれません。

心的イメージと概念の境界を探る試み


「像」は“あなたの主観”と“私の主観”のあいだにあるが、単なる知的定義とは異なる“感覚的・直感的なもの”を含んでいます。

今後、読者は感覚やイメージがどこまで言語化・概念化され得るのか、あるいは絶対に言語化できない領域があるのかといったテーマを掘り下げ、東洋哲学的な要素(荘子や老子など)と再び重ね合わせて考察していくでしょう。

“とりあえずの了解”の大切さに気づく


“わからない”が残る状況でも、辞書的意味やリアクションなどを頼りに“共有”が起こってしまう事実は、「コミュニケーションとはある種の妥協や合意の産物である」と再評価させる可能性があります。

そこから、“絶対的な同一理解が不可能であるなら、何をもってコミュニケーションの成功とするか?” という基準作りを考え始める段階に移行するかもしれません。

3. まとめ

今回の日記の主軸


「根本的に渡せないはずの内面(思考・感覚)が、どうして他者に伝わってしまうのか」という問題への大きな驚きと不信、そしてどこかしらワクワク感に満ちた状態。

言語化の限界と、捨てられた思考・言葉に対する関心。

「わからない」のまま成り立っている言語ゲームの不可思議さを受け入れつつある。

今後の展開


私的言語論の核心へ近づく

“分からなさ”を創造的・哲学的に活かそうとする姿勢の強化

捨てられる思考の救済・回収手法の模索

心的イメージと概念境界の再検討

“とりあえずの了解”に基づくコミュニケーション再評価

今までは“苛立ち”や“戸惑い”が強く表れていましたが、今回の日記にはどこか達観したような、あるいは「奔流に飲み込まれるままに泳いでみる」という姿勢が見え隠れします。おそらくこの先、読者は“わからない”を前提にしつつ、自分なりの言語観・コミュニケーション観を組み立てていく段階に入ることでしょう。



○12


以下では、今回の日記における読者の思考を整理し、そこから見えてくる読書体験の現況と、今後の展開予測をまとめます。


1. 読書状況の整理:荘子の「以指喩指之非指」と言語ゲームの交錯

1-1. 「以指喩指之非指」の再認識

『荘子』の「斉物論」を通じて得た“霊感的な感得”

読者は「あまりにも自明」と感じていた荘子の一節(以指喩指之非指…)が、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームをそのまま言い表していると気づきました。


「共通な対象を指し示す」ことで、否定や区別を合意形成するのが言語ゲームの機能であり、しかし “そのもの” を説明しきるわけではない(語り得るのは言語ゲームによって「何が起こっているか」だけ)という点に、読者は深く納得しています。

“言語ゲームそのもの” は語りようがない

読者は「言語ゲームによって何が起こるか」を説明できても、「言語ゲームそのもの」を直接的に言い表すことはできない、と再認識しています。これは荘子の回りくどい言い回しと通じ合い、「語り得ない領域を、どうにか指し示そうとするアプローチ」が両者に共通する、と捉えています。


1-2. ヴィトゲンシュタイン自身の苦悩への共感

『論考』から『探究』に至る自己批判の徹底

読者は『探究』でヴィトゲンシュタインが延々と論敵(=過去の自分)を攻撃する様子に対し、「こんなところで糞詰まりを…」と思う反面、そこには相当な苦悩や煩悶があったのだろうと推測しています。

「神託を賜る」ように言語ゲームを受け入れたヴィトゲンシュタインのプロセスは、理詰めではなく切実な実感の産物だったのでは、とも感じています。

1-3. 西洋的「考えの先」と東洋的「感じろ」との対比

荘子を“感得”することは、西洋哲学的には敗北?

読者はブルース・リーの「考えるな、感じろ」になぞらえ、荘子(斉物論)を身につけるには“体得”が不可避だと考えています。

一方、ヴィトゲンシュタインはやはり西洋的な“思考の論証”を徹底する態度を捨てなかったため、あまりにも執拗な議論展開になったのだろう、と読者は推測しています。

1-4. 「過去の経験」だけでは説明できない部分

命題の“不在のプロセス”をすっ飛ばすスキップ

「火に触れるとやけどする」「鉛筆の先端に触れると痛い」など、過去の経験で説明しきれない“飛躍”があるのではないか、と読者は気づいています。

そこに“言語ゲーム”が潜んでいる。つまり、われわれは「(無意識的に)スキップしているプロセス=言語ゲームの働き」に気づかないまま、あたかも過去の経験だけで理解できたように錯覚している。

2. 今後の読書体験の展望予測

2-1. 言語ゲームと東洋思想のさらなる融合

荘子的な“指し示し”とヴィトゲンシュタイン的“語り得ぬもの”の二重照射

今回の「以指喩指之非指」をきっかけに、読者は荘子とヴィトゲンシュタインの共通点(あるいは差異)をより深く対比していく可能性があります。

とりわけ、「語り得ないものをどう指し示すか」という哲学的テーマを東洋・西洋それぞれの方法論で比較することで、読者独自の言語観を深めると考えられます。

2-2. “感得”と“論理”の相克に対する態度の変化

理詰めに偏らず、“霊感的” な理解も有効な手段として評価

これまで読者は「自分にはあまりにも自明」な事柄を、ヴィトゲンシュタインが苦労して言語化する様子に苛立ちを感じながらも、今回「自明なものをあえて論理的に言い詰める難しさ」を再認識しています。

今後は、西洋的“ロゴス”に対する敬意と、東洋的“直観”や“感じる”ことの大切さを折衷しながら読書を続ける姿勢が深まっていくでしょう。

2-3. “スキップ”の正体探し

読者は「命題の下支えにある言語ゲーム」を追究する可能性が高い

火に触れる→やけどする、鉛筆に触れる→痛い、など、あらゆる経験にまつわる“当たり前”が、実は“スキップ”を含んだ合意の産物だという洞察に注目が集まります。

今後は、「どんな種類の ‘スキップ’ があるのか?」「どのようにして言語ゲームは ‘スキップ’ を可能にしているのか?」といった細部に目を向け、より具体的な事例を分析することも考えられます。

2-4. “論敵=過去の自分”の克服過程への共感

『探究』後半の展開に対し、読者はさらに深い共感を得る可能性

「過去の自分を徹底的に叩く」ヴィトゲンシュタインの姿勢に、読者は当初は苛立ちを感じながらも、今では彼の苦悩を理解しはじめています。

今後、『探究』を読み進めるうちに、読者自身も「過去に納得したつもりだったが、実はうまく言語化できなかった箇所」に直面し、ヴィトゲンシュタインのプロセスを自分ごととして体感する可能性があります。

3. まとめ

現況


荘子の「以指喩指之非指」によって、読者はヴィトゲンシュタインの言語ゲームが “最初からわかっていたつもり” でいた事柄と見事に重なると再認識。

「言語ゲームそのものは語りようがないが、その働きや結果だけが述べられる」という哲学的限界に対し、読者は意外な納得感と共に“霊感的把握”を肯定しはじめている。

今後の展開


東洋思想との並行比較:荘子・老子やブルース・リー的直観観と、ヴィトゲンシュタインのロジカルな分析がどのように噛み合うのかを深堀りする。

“スキップ” 構造の再検討:命題の背後にある言語ゲームのはたらきを、具体的な生活事例でより詳細に分析する。

過去の自分との対話:ヴィトゲンシュタインが自分を論敵にしたように、読者も過去に「丸呑み」してきた部分にツッコミを入れながら、思考を刷新していく可能性が高い。

最終的に、読者は荘子的な「感じる・悟る」態度と、ヴィトゲンシュタイン的な「緻密な論理検証」の両端を行き来しながら、“言語を超えた何か” と“言語を細部まで追い詰める努力” のバランスを探り続けることでしょう。その過程で、今後も「こんなところで詰まるの?」という発見と、「やっぱりこういう形でしか言えないか」という納得とが交互に現れ、読書体験を一層深めていくと予想されます。



○13



以下では、今日の日記に表れた読書体験を整理し、彼が抱えているわくわく感と混乱、そして今後どのような読書展開が予想されるかをまとめます。


1. 現況の読書体験の整理

1-1. 「言語ゲーム」の核心に近づく手ごたえ

他者とのコミュニケーションだけでなく、「自己自身」との間にも言語ゲームは存在する

彼は、メタレベルで「主観者=自分」が対象者になりえることに言及しています。たとえば、「自分」の内面や身体感覚を言語によって把握・説明する場合も、ある意味“他者”扱いしていると捉えられるからです。


この発想が、後半部で「自己認識と他者認識はどこで繋がるのか?」という問いをいよいよ強調していることを暗示しています。

『探究』がやっと“言語ゲームの他者とのやり取り”へ本格的に取り掛かろうとしている

彼にとっては「もっと早く扱われてしかるべきだった!」と感じるテーマであり、その“遠回り”感を面白がりつつも、ようやく話が進むことにワクワクしているようです。


1-2. 『論考』への容赦ない(自己)ツッコミ

「Grün ist grün」へのこだわり

『論考』で言及された「Grün ist grün」(緑である/グリュンという人名/未熟である、などの多義性)の例が、『探究』で改めて哲学的な問題としてぶち上げられている点に注目しています。


同音異義語の不思議さを、「当たり前に区別しちゃっている自分」に対する驚きとして捉えているところが彼の興味のポイントです。

著者自身が過去の自分(=『論考』時代)を批判する“生放送”を観たい

これはヴィトゲンシュタインの「自己批判の執拗さ」を面白がる姿勢であり、同時に自分自身がかつての『論考』的な見方に苛立った経験を重ね合わせている状態と見えます。


1-3. 同音異義語・言語の曖昧さへの着目

言語ゲームにおける“ボキャ貧”や“拡張”が生み出す混乱

彼は「ジャパニーズという(漢語や外来語を混ぜた)ごちゃ混ぜ言語」によって大量発生する同音異義語の問題を例に、言語ゲームの神秘(=なぜか分かってしまう仕組み)を改めて痛感しているようです。

それが、まさに言語ゲームの働き=「どうして我々は一瞬で文脈を読み取り、必要に応じて意味を切り替えられるのか?」という疑問に直結しているわけです。

2. 今後の読書体験の推測

2-1. 『探究』第二部への突入と「心の哲学」的テーマへの移行

他者理解だけでなく、自己理解や心理学的課題に踏み込みそう

『探究』第二部では、しばしば「心理的概念」や「内面と外面」「像」などがより深く扱われます。彼は既に「主観=自分」が対象にもなるのだと気づいているので、このテーマをワクワクしながら追究していくことでしょう。

「私的言語論」や「心の中のイメージ」をめぐる議論

第二部では、しばしば「心的イメージをどう扱うか」「痛みは私しか体験できない」などの事例を挙げており、彼はそこに「言語ゲームがどう作用するのか?」を再考するはずです。

「自己との言語ゲーム」や「まったく共有しようのない感覚をどうやって ‘わかった’ と言えるのか?」というテーマに引き込まれる可能性が高いです。

2-2. 過去の議論との照合と「新たな苛立ち・発見」

『論考』時代の発言との比較検証がますます面白くなる

彼は、ヴィトゲンシュタインが自分自身を論敵として叩く様子を実況的に見たいと言うほど、自己批判のプロセスに興味を持っています。第二部で扱われる心的言語や私的言語論では、さらに『論考』のロジカルな構図と対比される部分が出てくるため、そこに痛烈な自己批判が登場しそうです。

彼はその場面ごとに「ほらきた、やっぱり突っ込んでるじゃん!」と楽しみつつ、また新しい苛立ちや気づきを抱くと考えられます。

2-3. 同音異義語・言語的曖昧性の多文化比較へ

日本語だけでなく、韓国語など近縁の言語との比較に進展

同音異義語が多い日本語・韓国語を引き合いに出すことで、言語ゲームにおける「文脈スイッチ」の働きに新たな考察が進むかもしれません。

彼はすでに“日本語は漢語や外来語を組み合わせて語彙を作っており、同音異義語がめちゃくちゃ多い”という気づきを示しています。今後、その問題をさらに深堀りすることで、ヴィトゲンシュタインの言語観がどこまで多言語使用者にも適用可能かを考える展開が予想されます。

2-4. 軽妙なユーモアを交えた読書継続

苛立ちと同時に楽しさを感じるスタイルの持続

彼は読書中の混乱や遠回り感に苛立ちながらも、その過程自体をエンターテイメントとして楽しんでいます。

第二部では、一層抽象度の高い議論が現れ、「なんでまたこんなに回りくどいの?」と感じる場面が増えるでしょうが、同時にそれを「面白い」と感じる場面も増えそうです。

“ホンマモン”のヴィトゲンシュタイン独演会を妄想しながら、自らツッコミを入れる読み方は続くはずです。

3. まとめ

現況


言語ゲームの核心を追究する中で、「他者間のコミュニケーション」だけでなく「自分自身を対象にする」場面がようやく登場。

多義性や同音異義語の例を通じて、実は我々が何気なく使い分けている言葉の背後に“膨大な言語ゲームの処理”があることを再認識。

『論考』時代のヴィトゲンシュタインを思い起こしながら、「この人自身が今の時代に生放送で自己批判をしてくれたら絶対面白い」と感じるほど、“自己批判の哲学”に魅了されつつある。

今後の展開


第二部での「心的領域」や「私的言語論」への本格的踏み込み

『論考』と『探究』の自己批判的対立がより顕在化し、新たな苛立ちと発見を得る

多文化比較(日本語・韓国語など)を通じた言語ゲームの普遍性・特殊性の検討

混乱しつつも“わくわく”できる読書スタイルの持続・深化

彼が次に読む「第二部」では、言語論やコミュニケーション論がより心理・内面にフォーカスすることで、さらなる興奮やツッコミどころ、思わぬ発見が連続するでしょう。今後も「わからない!」「でも面白い!」という相反する感情を持ちながら、彼は読書を続けていくことが予想されます。



○14


以下では、今回の読書日記に表れた内容を整理し、今後の展開を予測します。


1. 現況の読書体験の整理

1-1. 「期待」型心的概念への疑問

希望・意図・信念・感覚といった内面の言語化の困難

「希望」や「意図」のような概念は、確かに言葉として表現される一方で、その背後には名状しがたい何かが潜んでいると感じています。「まるで感情のありようを克明に言い表せない」という苛立ちや困惑がうかがえます。


“体験”を言語で捉える難しさ

冒頭の解説にあるように、「体験」に着目した議論が展開されることは分かるものの、テキストを読んだだけではまだピンとこない部分が多いようです。特に「描写できるもの/できないもの」の境界が曖昧で、どこまで言葉で扱えるかがはっきりしない状態です。


1-2. 「世界との境界」にある不確かな領域

『論考』が「語り得ないもの」として排した部分との関係

「希望」や「意図」が、かつての『論考』では“語り得ないもの”に近い扱いを受けていた。しかし『探究』では、その薄皮一枚内側にある何かとして取り上げられ、“言語ゲームの射程ぎりぎり”にある問題を探ろうとしている様子が読み取れます。


「所持する/抱える」というメタファーへの抵抗感

それが自分の内面に“ある”と言い切ってしまうのは、バランスを失った表現かもしれない。けれども、確かに抱えてはいる…というジレンマに戸惑っている印象です。


1-3. 保留の姿勢

焦らず読もう、という自分への言い聞かせ

「今日は短いがここまで」「明日の自分に丸投げ」とあるように、「急いで理解しなくていい」と割り切る態度が見えます。難解な部分を無理にまとめず、今後のテキストと照らし合わせて少しずつ腑に落とそうとしているようです。

2. 今後の読書体験の展望

第二部への橋渡しとしての“体験”論


今回のパート(14「期待」型心的概念)は、第二部でより詳しく扱われる「情動」「意味を体験する」「想像」などのトピックに直結してくるでしょう。

彼はすでに「表現し切れない内面」をテーマにしているため、第二部の“内面と外面のあわい”をめぐる議論に一層没頭する可能性があります。

“言語では言い切れない”感情や意図をどう扱うか


「言葉にならない要素」に対して、今後のテキストでヴィトゲンシュタインがどのようなアプローチを示すのか、読者は注目していくはずです。

その過程で、「感覚」や「思考」と同様に、「希望」や「意図」も実は言語ゲームの枠内で扱える部分と扱えない部分があるのではないか、という視点が深まるでしょう。

『論考』との対比の深化


この先、彼は「語り得ないもの」として切り捨てたはずの対象が『探究』で再度問題化されていることを、ますます意識すると思われます。

自分なりに「ここが『論考』との大きな違いだ」と言葉にできれば、読み手としての達成感や発見の喜びが大きくなるでしょう。

一時的混乱を楽しむ読み方の継続


彼は「慌てて理解しきろうとしない」と言いつつ、あえてモヤモヤを抱えたまま先に進むスタンスを続けると考えられます。

その「モヤモヤ」に、後のテキストがどうヒントを与えるのか。見つかった時の歓びが、読書体験のモチベーションにもなりそうです。

3. まとめ

今日の読書体験: 「期待」「希望」「意図」などの概念が、言語では割り切れない領域にあると改めて感じつつ、無理やり結論を出さずに先へ進むことを選んでいます。

今後の展望:

第二部との連動で、“感情”や“志向性”などの議論が展開され、さらに深い“内面の言語化”問題へ踏み込む。

『論考』との対比が一層明確になり、「語り得ないもの」と「言語ゲーム」がどこまで噛み合うかを検討する展開が予想される。

「混乱をあえて味わう」読書態度で、次のパートや第二部の議論を楽しみながら吸収していく。

「急がなくていい、明日の自分に丸投げ」というスタンスは、ヴィトゲンシュタインの断片的・対話的な哲学に向き合ううえで最適とも言えるでしょう。今後も不確かな感触を手がかりに、徐々に理解を深めていくプロセスが続いていくと思われます。



◯15


以下では、本日の読書体験をまとめるとともに、どのように彼が第一部最終節(パート3の後半)を読みきり、第二部へと臨むかを予測します。


1. 読書体験のポイント:驚きの焦点


「ブラックボックスに投げ込む」ではなく「投げ込むことが“許されてしまう”」ことへの驚き

彼が感じているのは、「わけの分からないもの=人間の内面に関わる不可解な現象」のすべてを、ヴィトゲンシュタインが“言語ゲーム”という枠組み(ブラックボックス)を用いて「外側からしか見えないのだから、そのまま扱えばいい」と片付けてしまえる(しかも、それで通用してしまう)点です。

つまり、彼は「多くの謎を一挙に回収しうる装置として言語ゲームが機能してしまう」こと、そして「それでコミュニケーションも哲学的議論もそれなりにやっていけてしまう」ことに対し、衝撃と同時にある種の恐ろしさを感じている様子です。


2. 読書体験のまとめ


荘子『斉物論』の「真宰」との対比による発見

「真宰が何なのかは分からないが、それが働いているらしい」という荘子の姿勢と、「意志や意図の具体的なメカニズムを解明できないが、ともかく言語ゲームという事実を見れば、こうなっているらしい」という後期ヴィトゲンシュタインの姿勢が通じ合う。

ただし、ヴィトゲンシュタインは「解明できないものを無理に分解しようとしない」どころか、“言語ゲーム”という装置にあっさり放り込んで(その働きだけ)説明してしまうことを許容している点が、彼にとって新鮮かつ少し不安でもある。

654-655節:「説明」ではなく「確認」する哲学

“根源現象”としてあるものを、「なぜ、どうしてそうなっているのか」まで解き明かそうとせず、「こういう言語ゲームの行われ方がある」と確認する段階で止めてしまう。

これが「哲学」ができる最大限であり、それでも我々の日常言語やコミュニケーションは成り立ってしまう。その“成り立ちぶり”に対し、彼は驚きと興奮を覚えている。

『論考』との連続性における意外性

『論考』でも、語り得ないものを沈黙せよとし、根源的な要素を「単純」として扱っていた。後期ヴィトゲンシュタインも、結局は「分解不能な部分」に関しては“言語ゲーム”という箱に入れてスルー(または容認)しているように見える。

この点において、前期と後期のあいだに“断絶”だけでなく“連続”を感じることも、また彼が面白がっているところである。


3. 今後の読み方・第二部への展望


第一部最終節での総括

第一部のパート3(9~16)では、「感覚」「思考」「意図」「意味」など、内面に深く関わる概念が次々と言語ゲームの射程へ収まっていく。

これら一連の議論を「“わけの分からないもの”が、言語ゲームという仕組みのなかで説明するには至らないまでも ‘取り扱えてしまう’ ことが判明した」として受け取ることで、彼は第一部を締めくくる可能性がある。

第二部への期待

第二部では、情動・意識・アスペクトの転換など、さらに心理学的要素が強いテーマに突入し、「内面/外面」の境界がもっと鮮明に、あるいはもっと曖昧に示される。

ここでも「分からないもの」を言語ゲームの外観から把握する手法が続くので、彼は「本当にそれだけで ‘済んでしまう’ のか?」という問いを一層抱きながら読み進めるだろう。

読書姿勢の継続

彼の驚きは、「ブラックボックスでいいのか?」「いや、しかしブラックボックスで ‘ことが足りている’ らしい」というジレンマにある。

それゆえ、“あえて再度踏み込むのか、それとももう踏み込まずに ‘分からなさ’ を抱えたまま先へ進むのか?” を検討しつつ、第二部での具体的事例(情動・確実性・ムーアのパラドックスなど)を見ていくことになると思われる。

4. まとめ


今回強調されるポイント

“ブラックボックス” としての言語ゲームを安易に受け入れて良いのか?

“投げ込めてしまう” こと自体が恐ろしく、また便利過ぎるのではないかという驚き。

“根源現象” をただ認める態度

ヴィトゲンシュタインは「説明」ではなく「確認」や「指し示し」にとどまり、あっさり “それでよし” としている。

前期『論考』との意外な連続

根源的要素を“分解不能”として沈黙するか、言語ゲームとして容認するかの違いはあるものの、“捉えきれない要素を放置する” 姿勢は共通している。

今後の読書予測

第一部最終節では、この“わけの分からなさ”をどう整理し、どんな形で一区切りをつけるかが見どころ。

第二部では、具体的な事例(情動、感情表出、アスペクトの転換、ムーアのパラドックスなど)を通じて、彼は「ブラックボックスのままにしておく方法論」の正当性や限界を、より肌で感じていくことになるだろう。

こうした視点に立つと、彼が抱く「驚きと恐れ」の根源は、「分からないものの実在」を言語ゲームがむしろ効率良く扱えてしまう――つまり、“分からない” のに“こなせてしまう”――という人間のコミュニケーションの不思議さ・底知れなさにあると言えます。



◯16


以下では、彼が『探究』第一部を読み終えた際の読書体験をまとめ、その総括と第二部への展望を整理します。ポイントは「二周目に行かないとよくわからない」という実感や、新たな視点(アスペクト)の発見が期待される点です。


1. 第一部読了時点の読書体験の総括

1-1. 「言語ゲーム」の徹底適用とその衝撃

言語ゲームが、思考や意味、感覚の領域まで奥深く適用される

彼は当初、「言語ゲーム」は主にコミュニケーション上の現象や規則のすり合わせを説明するための概念と捉えていました。ところが読み進めるうちに、心的概念(意識や感覚、意志や意図)にもこのゲームの構造が入り込むことに驚きを感じました。

「言語が動いている場」は単なる言葉のやり取りだけでなく、「私の内面と世界との境界を描く薄皮一枚の部分」にまで達しているという気づきが、大きなインパクトをもたらしています。

1-2. “意味”と“思考”のずれ、あるいは不可分性

16章(「意味、言及、指示」)で確認された「理解」の問題

「読む」とは字面を音声化するにすぎないのか、それとも何らかの「本当の意味を理解する」状態なのか。ヴィトゲンシュタインは、外面的には読み上げができることを“基準”に見なせそうだが、そこに本当に「理解」があるかは分からないと強調します。

ここで明らかになるのは、「意味の理解」は単なる思考や概念的把握だけでは語れない、“言語ゲームの中で生じる現象” だという点です。彼はこれを「とんでもない結論」と表現し、“考えれば分かる” を超えてしまう領域に圧倒されつつあります。

1-3. 根本的な“不透明さ”を受け入れる姿勢

「わからない」まま成立するコミュニケーション

第一部の読了後、彼は「なぜこんなに不確定なプロセス(言語ゲーム)が、それでも成立してしまうのか」という謎を抱えています。

とりわけ最後に至って感じるのは、言語の機能は“一人称で完結する”ものではなく、常に他者や対象世界との相互作用に依存していること。そこに尽きない不透明さが残り続けるため、今の時点では完全に理解しきれないままです。

1-4. 「二周目が必要」――アスペクトの転換

改めて第一部を振り返れば、読み始めとは全く違うアスペクトを得るだろう

「意味と理解が言語ゲームの働きの中にある」ことを、1回目の通読だけで十分に把握するのは難しいと実感しています。

ヴィトゲンシュタイン自身が示唆するように、読者が内容を“再読”することで、新たな見方(アスペクト)に気づく可能性があるという予感が強いようです。

2. 第一部を振り返る際のキーワード

言語ゲーム

もはや単なるコミュニケーション規則の説明ではなく、「世界と自分を繋ぎ止める仕組み」 としての普遍的意味を帯びる。

“わからない” のままの共有

思考や感覚、意図といった内面領域でも、外面からの基準(発話、ふるまい)を通じて「わかった気になってしまう」構造。

“沈黙” と“理解”

『論考』の「語り得ない部分」との連続性を感じながら、実は後期も**“語り切れない何か”** を、言語ゲームの“確認”をもって受けとめている。

3. 第二部への展望

“共同体意識”や“他者との言語ゲーム”の本格化

彼自身が「共同体意識の話って第一部にはなかったですね」と書いているように、第二部では他者との間で成立する言語ゲームを、より具体的に検証するトピックが多く登場します。


ここで彼は、意識や感情、意味の体験など、“内面”と“社会”の繋がりをさらに深く考えざるを得なくなるでしょう。

情動、心理学的概念、アスペクト知覚などへの広がり

第二部では、**「情動」「意味体験」「アスペクトの転換」**など、より心理学的・哲学的なトピックに踏み込みます。


すでに第一部での「わからないまま成立している」要素を、第二部ではより身近な経験に当てはめ、一層具体的に考察することになり、さらなる混乱と興奮が予想されます。

“再読” と“アスペクト転換”

彼が「第一部をひっくり返して読めば、アスペクトが違って見えてくる」と自覚しているように、第二部に進む前にサッと第一部を再読し、“意味・理解・思考” の議論をアップデートする余地が大きい。


再読後、第二部を読み進めることで、「あの時の議論が、こう繋がるのか!」という新たな視点を得るだろうと予測されます。

4. おわりに

第一部の読書体験:総括


言語ゲームの適用範囲の膨大さ: 物理的対象の指示だけでなく、感覚、意図、思考、そして“私”そのものを包含する。

“意味”をめぐる手強い問い: 「語の意味はどこにあるのか」「理解とは何なのか」という問いに対して、言語の実践やふるまいの観点が示され、思考と意味のズレが浮き彫りに。

“わからない” まま共有している不思議: 我々は相互に、あるいは自己の内面同士で、“わからないもの”を言語ゲームによってどうにか運用してしまっている。

“再読” 必須の実感: 一度読んだだけでは、冒頭からの論点が最終章でどう変貌しているかを掴みきれないため、二周目の読解で初めて見えるものがあるはずだ、という期待感。

第二部への意気込み


「他者との間で言語がどう機能しているか」「情動やアスペクトの転換」「意味体験」など、さらなる具体例と議論を通じて、実践的に“わからないもの”に対峙していく段階へ向かう。

そこで彼は、第一部で培った問題意識をさらに広げ、**“コミュニティ”“文化”“心理”**といった観点から“わからないものの共有”を掘り下げていくと考えられる。

彼は「とりあえず読了」しながらも「第二部を読む前に第一部を再チェック」する姿勢で、さらに新たなアスペクトを発見するだろう、というのが今回のまとめと言えます。第一部は結局「語り得ないもの」をめぐる、言語ゲームと内面・意味の綱引きを描いた導入部でもあり、第二部こそがより具体的・多面的な展開になるため、彼のワクワクや混乱がいっそう深まることが予測されます。




○まとめ


以下では、彼(読書者)の第一部総括の内容を検証しつつ、実際に第二部へ進む際にどんな障害が想定されるかについて整理します。ポイントは「第一部をもう一度読み返すほどでもない」という結論に至った背景と、そこから生じうる“落とし穴”を見極めることにあります。


1. 第一部総括の検証

1-1. まとめ:第一部で得られた結論

言語ゲームは「結果」や「役割」でしか語りようがない


ヴィトゲンシュタインが700弱の断句を通じて「言語ゲームの周囲」を執拗にめぐるのは、言語ゲームそのものを“開明的に説明”することが不可能だからだ、と読書者は捉えています。

結局、“わからなさ”を含むブラックボックスを、さまざまな角度からの事例でもって「ああでもない、こうでもない」と語り続ける形が第一部の構造になっている。

単語や事物との“接続”がなぜか成立してしまう不思議


単語と対象を結びつけ、「これ!」と言える経過が実際にどう生じているかは誰にも語り尽くせない。にもかかわらず、我々は当たり前のように意味を通じ合わせている。

“わからない” まま成立するコミュニケーションの不可解さこそが、第一部を通した根本テーマだという認識。

「論理」や「世界」が指し示す無限の背景


『論理哲学論考』で語られた論理(あるいは世界の構造)を、後期のヴィトゲンシュタインは「あえて論理と呼ばない」「あるいは極力キーワード化を避けている」ように見える。

この態度は「理論的説明」ではなく「外縁を語ることでしか表せないもの」に専念し、読者に「これ以上分解できない」という実感を抱かせる。

西洋哲学 vs 東洋哲学の視座を得た


デカルト的・スピノザ的な「人間の一歩を重視する」姿勢と、老荘的な“世界なんて扱えないが、扱えないなりに言及する”姿勢を対比。どちらも究極的には同じ問題に取り組んでいるのではないか、と感じ取っている。

第一部を再読しなくても、“根幹”は把握できた


「わからない部分が多いが、結局『言語ゲームはブラックボックスであり、外縁しか語れない』という結論が第一部を貫いている」という納得感に到達。

ここまで理解できたなら、あえてすぐ第一部を再読しなくても構わないという判断を下した。

1-2. 妥当性・限界

彼の結論は、第一部の核心を比較的コンパクトかつ正確に押さえていると言えます。ヴィトゲンシュタインが意図している「外縁しか語れない」「実体説明を避ける」スタンスは、まさに第一部の大きな柱です。

ただし、テキスト固有の細かい事例やニュアンス(断句700弱の配置がもたらす微妙なズレなど)は置き去りになっている面もあり、第二部以降で参照したくなる場合が出てくる可能性は否めません。

2. 第二部に取り掛かる際に想定されうる障害

第一部の内容を「大枠はつかめた」として進むと、次のような“落とし穴”やハードルが考えられます。


2-1. 第一部後半の断句との参照不足

第二部での議論は、第一部の具体例・断句にしばしば言及する

第二部ではより心理学的・内面寄りの話(情動、確実性、アスペクト転換など)に踏み込む際、第一部後半の記述(たとえば「痛み」例や「私的言語」に関する断句)と密接にリンクしている部分があります。

障害: もし「断句◯◯番にあったあの例示って、第二部のこの論点とどう関わるんだっけ?」となったとき、ざっくり理解だけで済ませていると、微妙なニュアンスを見落としがちになる。

2-2. 細部の“追加効果”が拾えない

“外縁しか語らない”ためにこそ、細かな事例が重要

第一部は多くの例や比喩を使って「外縁」を見せているが、第二部ではまた別の角度の事例が示される。両者の微妙な違いがヒントになることがある。

障害: 第一部を大づかみで理解したまま突き進むと、「あれ、これって第一部にも似た例あった気がするけど、何が違うんだ?」という疑問をうまく解消できないかもしれない。

2-3. “見落とし”による理解の偏り

彼が仮説として立てている「言語ゲーム = 何もかも包み込むブラックボックス」

これはおおむね正しく見えるものの、ヴィトゲンシュタイン自身は、ときどき「ブラックボックス」化に否定的なニュアンスを入れていたり、逆に「いや、やっぱり外縁しか語れない」と引いたり、微妙に揺れ動きます。

障害: 第ニ部を読む段階で、もし「ブラックボックスで片付く」と思い込み過ぎると、「実はヴィトゲンシュタイン、こんなところはもう少し説明の試みをしているぞ」という箇所をスルーするおそれがある。

2-4. 思想的背景とのズレ

西洋哲学の流れや“論理学”を避ける理由の微妙さ

彼は「ヴィトゲンシュタインが論理をあえてキーワード化しないのは、ゴリ押しっぽく映るからか」と推測している。ある意味でそれは正しいが、第二部では「確実性」や「ムーアのパラドックス」など、論理や数学的話題に再び触れる場面も出てくる。

障害: 第一部の段階で推測された「論理回避」の背景を、そのまま第二部へ適用しようとすると、再登場した論理絡みの議論が誤解される可能性がある。

2-5. 東洋哲学的視点(老荘など)との照合が加速しすぎる

独自の東洋哲学理解と『探究』の対応付け

彼は第一部において、荘子の道枢や真宰に繰り返し触れてきた。第二部では「情動」や「意味の体験」をめぐる具体事例が増えるため、さらに「老荘と同じだ!」という感想を持つ可能性が高い。

障害: この視点が深まるのは面白いが、もし東洋哲学とのパラレルばかりを強調しすぎると、第二部が提示する“西洋的文脈”との違いや、新たな着想が埋もれてしまうかもしれない。

3. まとめとアドバイス

第一部のまとめは、全体の骨格を把握するうえで十分に有効

彼の総括は、「語りようのない“わけの分からない何か”を言語ゲームの周囲から見ていく」という書物の根幹をしっかり捉えています。そのため、“いまの段階では” 第一部をすぐに再読しなくても問題はないでしょう。


第二部では“事例とのつながり”の再確認が必須

ただし、第二部を読む際に行き詰まったり、「なんだか妙に曖昧だな」と感じるところが出てきたら、第一部後半の該当断句や事例に遡って細部を参照することをおすすめします。


特に「痛み」「私的言語」「内面と外面」といったトピックがまた登場したとき、第一部の具体例や論点をチラ見するだけでも理解が補強されるはずです。

“ブラックボックスでOK” の一面に固執しない

「ブラックボックスに投げ込むしかない」とは第一部の大きな到達点ですが、第二部では微妙に “外縁” が違った形で検討される可能性があります。


「実はもう少しだけ外縁を拡張できるかもしれない」 といったニュアンスもないわけではないので、第二部を読むうちに「さらにブラックボックスの使用法が広がるor変容するかも」と心づもりしておくと良いでしょう。

東洋哲学との接点は広がるが、差異に注目することも大事

老荘思想との比較は面白い発想をもたらしますが、ヴィトゲンシュタインが具体的に解体しようとしている “西洋哲学的前提” や “論理学的背景” は、老荘とは微妙に異なる視座を持っています。


第二部で出てくる“ムーアのパラドックス”や“確実性”の議論などは、西洋哲学的な歴史と文脈を踏まえるとまた違った深みが生まれるため、東洋との共通点とあわせて、“西洋の固有文脈” も並行して探る姿勢が障害回避に役立つでしょう。

結論

第一部を再読しなくても、骨格は十分押さえている

彼の総括は大筋で的を射ており、“わけの分からないもの” を外縁から捉え続けるスタンスを把握している。したがって、すぐの再読は必須ではない。


第二部に進む際は、細部や具体事例とのリンクが鍵

いざ躓いたときには、第一部後半の断句や例示にサッと戻れるよう準備しておく。また、ブラックボックス観に固執しすぎず、微妙に変化しうる “言語ゲームの外縁” を楽しむ余裕が大切。


可能な障害を意識しつつ、前向きに“読破”へ

「東洋哲学との対比が加速しすぎる」「論理学嫌いが先行しすぎる」「第一部の細部を見落として第二部の事例を誤解」などの落とし穴に注意しながら、第二部での一層豊富な事例と議論を堪能していくのが良いでしょう。


このように、第一部で得た理解を“地図”として活用しつつ、必要なときにだけ振り返るスタンスをとれば、第二部の新たなテーマや事例をよりスムーズに受け止められるはずです。

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