まとめとしての長広舌

『論考』と『斉物論』ほか

○前段


 哲学的な諸命題(神とは何か、善とは何か、生とは何か、私とは何か、など)について「そんなもん構造的に言明しようがないんだから黙ってろ」と鉄槌をぶちきめた哲学的スレッドストッパー、それがヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(以下『論考』と略す)。その最終結論は「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」だが、ここにあえて付言すれば「そうした部分に沈黙した上で人生を実践することこそがよりよき生である」となる。これは同書まえがきにて「この本において最も大切なことは、この本に書かれていないことである」と論じられたことからも裏打ちされている。


 本稿は筆者の『論考』および『荘子』にまつわる作品に同時掲載される。何故か。『論考』と『荘子』、わけても斉物論との親和性がただならない、と感じたからである。筆者が斉物論を経て辿り着いた最終結論は「世界は決して解明的に語り得ず、にも関わらず確かに自分があってしまうのであれば、語ることを止め、生を全うせよ」であった。ほぼ完全一致である。なので両論を、理解できているとは言い切れないなりに通読して得た感覚について、ひとまずのドラフトとしてまとめたくなった。本稿によってこの思考が完成するわけではない。あくまで先に進むための手がかり足がかりである。


 本稿はテキストの柱に『論考』を置き、その経過におりおり荘子(あるいは老子、般若心経等)を配する。そのほうがテキストの順番がわかりやすいためである。

 哲学解説者の「飲茶」氏は、東洋哲学について「経過を解説せず、いきなり結論をぶちこんでくる」と論じられた。また謎の哲学者(と呼ぶのも違うのだがひとまず乱暴にこう括る)「+M」氏は、東洋哲学が「その理が腹に落ちればそれ以外の在りようができなくなる」と論じられた。

 これは荘子が属するとされている学統「道家」の総元締めたる『老子』において顕著である。「道と合一せよ、以上」くらいしか語らない。荘子は一般的に老子をわかりやすく解説したもの、とされるのだが、とはいえその論旨は割と脈絡を無視し、すっ飛ぶ。「その順番でなければならない」のかもしれないが、ひとまずこちらは、何故その順番でなければならないのか、がわからない。

 と言うわけで、先んじて『論考』について紹介しよう。


『論考』の構成は、最終結論を導き出すためのロジックの牙城である。結論から逆行すれば「どこまでなら語り得るか」「そもそも語るとはなにか」「何について我々は語るのか」と展開する。再び順番を戻し、ヴィトゲンシュタインの言葉を借りてアウトラインを引くと、以下のようになる。


 世界→(主体→)思考→「語り得るもの」→○→「語り得ないもの」


 上掲3(+1)チェックポイントの経過をたどるのが、これ以上なく雑に語る『論考』の流れである。かっこで括ったオプションは、他の諸哲学と『論考』とにおける最大の差異と言っていいだろう。すなわち、『論考』はあくまで3階梯で語り、主体については「語り得るもの」を論じるオプション、というよりおまけとして用いる。

 対して、多くの哲学は、世界「を感得する主体」が、早い段階で議論される(古代インド哲学におけるアートマンの存在、あるいはデカルトの「我思う、故に我あり」などが顕著だろう)。先に他哲学の思考パターンに慣れた上で『論考』に臨んだ身としてはここに「主体」を置きたいのだが、『論考』はそうではない。とはいえここに置かせてもらったほうが筆者としての理解がしやすそうなので、この点については『論考』の構成に逆らうこととした。


 以降、すみかっこ【】内には、対応する『論考』の条を入れる。



○世界(1~2.063)=「空」「道」「一」


 世界とは何か。「すべて」であるという【1】。この考え方は老荘が世界の根本原理、あるいは世界そのものの仮称として「道」という語を提示し、ここには一切の区切りもなく、また本来、人もここに同一なものであるにもかかわらず「そこから切り離されてしまった」と感じるようになってしまったことに、あるいは般若心経が(仏教が、といってしまうのはおそらく危ういのだろう)「空」こそが世のありよう(全ては渾然一体となったよくわからないなにか)なのだが以下略、と語ったことに限りなく近接する。限りなく、と書くのは、『論考』は世界の向こうに神を置く。対する老荘や般若心経においてこの「神」と比定されうるものは「世界」そのものに他ならない。このあたりはスピノザが唱えたという汎神論が近いのではないかとも思うのだが、まぁ、下手にそれを言ってしまうとヴィトゲンシュタインに「神のありようを定めるとかアホか」と殺されてしまいかねないので黙っておこう。


『論考』は世界を最大限の幅で語るべく、まずは世界を最小限の単位にまで分解する。

 ここは先んじて書いておくが、後に世界について論じる自身の言葉、すなわち「命題」においても語り得る幅を最大化するべく最小単位の命題を「要素命題」と名付けている【4.21】。

 要素命題とは、我々が認識しうる世界において原子に比定しておくのが一応いいだろうか。厳密に言えばそこよりさらに先に進むのだが、ともあれ「世の物事を様々に解体していけば、それ以上解体しようのない何かにたどり着く」とした。これを「事実・現象【1.2】」と呼んだ。で、いきなりちゃぶ台返しをしてしまって恐縮だが、「原子ですら事実・現象の集合体」とした。

 世界とは、こうした一見無限個に見える無数の、しかし行き着きうるはずであろうどこかまで行きつけさえすれば、きっと有限個として数え切れるはずの「事実・現象」がそれぞれにくっつき合い【2.01】、特定の「事態」を引き起こしていることになるだろう、こうした全ての事態をひっくるめたのが世界と言いうるのだ、とした。

 以上をまとめると、世界はあらゆる事態の集合体であり、全ての事態はそれぞれが様々な事実・現象を内在的に抱え、その外側に「それ以外のすべての事実・現象を漂わせている」となる【1.21】。

 この考え方は、般若経における縁起の逸話ともつながる。とある馬車が目の前にあったとして、では我々は何をもってその馬車を馬車と呼びうるのか。馬車を引く馬か。馬をつなぐ綱か、綱を止める留め具か。車輪か、ひとが腰掛ける場所、あるいは御者か。さらには乗せるべき賓客も含めるべきなのか。それとも様々な部品の形状、材質、原料、加工方法でも語ればいいのか。厳密に正しい線引きはできないだろう。「その集合体」と呼ぶしかない。

 更に荘子も語る。指とは何をもって指と呼ばれるのか。四肢の先についていることか。曲がることか。中に骨があることか。腱でコントロールされていることか。と言うかどうして私の指が指であるなら、私の指でないあなたの指まで指であると言い切ることができるのだ。

 よくわからないが、なんとなくの組み合わせの総体が馬車であり、指であると呼ぶ以外にない。


 そして『論考』は謳い上げる。世の中の物事のうち、原則として偶発的に発生することがらについてこの本ではあまり語る意味がない、と【2.012】。発生するかもしれない、しれないかもしれない事態について論じてみても「そう、かもね?」で話が終わる。そうではなく、様々な事態のうち、確実に、偶発性の入る余地なく成立「している」事態だけをまず見据える必要がある。ここで前者を外的要素と呼び、後者を内的要素と呼ぶ【2.01231】。すなわち馬車や指のうち「確実に、それらを成立させている要件」のみを内的要素とし、あってもなくても構わない要素を外的要素と呼ぶのだ。また同条にてヴィトゲンシュタインは「我々は内的要素をすべて知っている」と書く。これはすべての内的要素を「理解し、把握している」ということではない。ひとまず、なにが馬車、なにが指と呼ばれているかを「よくわからないけど、何故かわかる」状態についてこう語るよりない、と論じているのである。

 この点は荘子も喝破している。「指ではないものが何であるかを論じるなら、指を示して「これ以外のもの」と言ってしまったほうが早い」と。指における内的要素を「よくわからないうちにすべて了解してしまっている」以上、このやり方が最も速くなってしまうのだ。


 先の言葉を繰り返しておこう。世界はすべての事態の集合体である。事態は種々の事実・現象の集合体である。特定の事態には特定の事実・現象が含まれ、その外には含まれない「すべての」事実・現象がただよう【2.05】。

 ここに、さらに一つのオプションが加わる。その世界を感知するのは、なにも視覚に限らない。聴覚によるかもしれないし、嗅覚や味覚、あるいは触覚であるのかもしれない。さらに言えば我々の知らない何らかの感覚であるとか、言論空間ですらあり得る【2.0131】。このため『論考』は、世界、すなわち様々な事実・現象が織りなす事態の総合体が展開している場を「論理空間」と呼ぶ【1.13】。

 では、そんな論理空間を、我々はどう感じ取るのだろうか。



○主体(を省く意味)


 世界=論理空間から獲得した情報を、我々は「命題」として示す必要がある【2.0201】。前段にて示したとおり、『論考』は、「論理空間の前にある主観者としての私」を省く。その代わりに「私の内部で起こっている状況」を論じる。他の哲学において「主観者としての私」こそが重大なテーマとなっているにも関わらず、である。


 とはいえ無視しているわけではなく、いわゆる結論段となる6の直前に、オマケのようにその理由が差し込まれている。いわく「一連の流れを語るとき、別にいらない」「書いてみたところでほぼ存在が抹消される」「よく言って世界の行き止まり」とのことである【5.6】。

 その上で、「いや、何が私であるか、なんて話をしようとしたら、それこそ肉体のありようとか、肉体の統御にまつわるあれこれを列挙しなきゃならなくなるけど、いくら並べ立ててみたところで「私のありよう、形式」でしかないし、私そのものについてはなんにも言及できていないよね?」とキレる【5.631】。ちなみに荘子も同じような点にキレている。「この肉体の働きについて厳密に語り切ることはできないし、いくら語ろうとしても結局の所「どうしてそんなメカニズムになってるの?」には一切答えられないじゃん」と。

 彼らは、どうにも語りきれないものに対して下手に語ろうとしても、結局のところなに一つ確かなことを言えずに終わるではないか、と言うのだ。これは過去に「主観者としての私」について懸命に究明しようとした、あらゆる哲学者たちに対する絶縁宣言にも等しい。無駄なことしてんじゃねーよバーカ、ってなものである。ひどいわねこのひとたち。いいぞもっとやれ。


 一方で『論考』が、別口の意味合いで「主体」を世界→思考→命題の流れから省かねばならない理由があった。ひとくちに言えば、思考の入口と出口がクソなのである。

 入口。雑に語る。「見間違い」をすればもうアウトである。それが起こる可能性を想定した時点で、「正確に現象を観測する」ことが頓挫しているのがわかる【2.225】。

 そして、出口。『論考』上でヴィトゲンシュタインは先達の哲学者たち、そして直接の薫陶を受けたラッセル及びフレーゲについても批判している。何故か。「その表現の仕方がおかしかった」【3.323】【3.324】からである。つまり「感じ取ったことを的確に表現できない」言い回しをしてしまえば、伝えたい内容がまともに伝えられるはずなんかねーだろ、というのだ。


 ではここで、微妙にオチを先取りしておこう。『論考』とは、限りなく隙のない論証を築くことで、自説の確からしさを示す、が所与の目的「と、いうことになっている、はず」である。

 なのだが、上の通り「世界」を受け止める「私」は正確に世界を受け止めきれているとは限らず、さらには受け止めた世界を命題として正確に描けているとも限らない。だからこそヴィトゲンシュタインは「世界に実際に示された現象と比較し、真か偽かの判定を下せるもの」しか命題として取り扱えない、と論じた【4.023】。


 ん? じゃ、世界を前にして命題をひり出さんとする「私」の中で生じる営みって、まるきり命題として成立させらんないよね? だって現実と比較できないもん。

 え、そしたらどこまで「世界と命題とが論理でつながっている」みたいな言説に無条件の肯定を示せるわけ? 無理じゃね?


 ……まあ、なんてーか。


 世界に対する論考。

 命題まわりの論考。


『論考』を丹念に追えば、この辺についてある程度納得する、かもしれない……とも思っていたのだが、残念ながら『論考』における「世界と命題との間」、すなわち「世界を受け止め、命題として送り出さんとする「私」の領域」に対する論述は問題外であった。まるきり成り立たねーわカス、と激烈なクレームを提示するよりほかない。『論考』の言葉を借りれば、「私」の内部領域にまつわるあれこれに関する言説は、「すべて無意味である」【4.06】と断じるしかないのだ。


 とは言え、おそらくヴィトゲンシュタインはこのクレームも想定していた。最終結論に至る直前で「いやあのね、もろもろ語ってきましたけど、ぶっちゃけ全部無意味ですからね」と言い切っている【6.54】。

 ちくしょう、まじで天才すぎんかこいつ。なんでこんなのを他人からの指摘なしで気付けるんだ。変態だろ。


 まあいいです。以上のことから次段がまるっきり「無意味である」とは示されましたけど、気を取り直して追っていきましょう。



○思考=五蘊・十八界(2.1~4.061)


 ……という話をしていきたいのだが、いったんここについてのスタートとゴールを見据えておいたほうが話が早いだろう。『論考』における「語り得るもの」とは、命題として取り扱ったとき、その真偽を問えるもの、となる。ここで命題とは事態についての書き起こしであり、以下のような関係性を持つ。


 世界→事態→事実・現象

 思考→命題→要素命題


 世界を前にしたとき「私」はそれを思考に変換する【3】。そこから命題をこしらえることになるのだが、ならばこの命題は事態と同じように、極限(すなわち、要素命題)まで分解が叶うだろう、と言うのである。

 なお前段で「主観者としての私」は存在しない、と書いたが、世界を受け止め、命題を構築するまでの部分はどうしても「私」の体験、「私」というフィルタ、と書かざるを得ない。困ったものである。そして以下に書く経過は、上で示したとおり全てが無意味となり果てているのだが、とはいえこの点について、どうやらヴィトゲンシュタインは遺稿となった『哲学的探求』にて触れているようである。ならばそうした部分の言及を追いやすくするため、『論考』の言葉についてもまた整理しておきたい。


 さて、いま考えねばならないのは「いや変換はわかったけど、具体的にはどうやるねん」である。そして、ヴィトゲンシュタインは変換ルートの考察を仏教で言う五蘊+十八界よりヒントを得たのではないか、という手触りがある。事実かどうかはわからないのだが。

 世界の前に立った「私」はそのありようを「像」として見出し【2.1】、自身のうちに転写し、「写像」とする【2.1513】。この写像についての反応が「思考」であり【3】、思考を有意の表現として表明したのが「命題」である【3.1】。なおこの表現は一般的な人間の感覚受容が視覚メインであるために視覚的な言葉で仮託されているに過ぎず、実際には視覚的なもの以外も感得し思考、命題に置き換えることが可能である【2.182】。


 では、今度は五蘊と十八界について紹介しよう。般若心経で語られる五蘊とは「私」が世界、すなわち「空」をどのように認識するかの機序を追ったものであり、色・受・想・行・識からなる。空=「世界」のうち、「私」が目の当たりにしているものが色=「事態」となり、受=「像」を見出したこと、想=心中に「写像」を引き入れたこと、行=それによる「思考」。こうして識=有意の「命題」に至るのである。


 また十八界は、この五蘊が視覚情報由来ではなく、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして意覚の合計六感にても展開される(意覚とは五感の奥で働く認識の動き、とされるが、こと『論考』との対比で見る場合には「ことば」を写像化し命題にまで繋げる、としたほうが把握しやすそうな気もする)。これら六感を「私」が備えること、これら六感によって「私」が感得する対象、その両者が織りなす六つの世界、『論考』の言葉を借りれば、空間。これら十八のものを一括りとしている。論理空間が視覚的なものに限定されない、とする内容につながっている。


 これだけ言っていることが似通っていると、正直なところ、こう思ってしまうのだ。「この辺っていくら論じてもどうせ確からしい答えなんか出ないんだし、既に存在してる概念引用しちまえばいいんじゃね」と考えたのではないか、と。ただし、前後の論と同じような振る舞いを取れるよう、その厚みについてはきっちりと整えたうえで。


 重要なのは「われわれは世界から命題を引き出している」というスタートとゴール、だけである。世界より事態を引き取った「私」が、なんだかいろいろあって命題を形とした。なんだかすごい。ヤバい。

 なにせ我々は、ヴィトゲンシュタインが、なかんずくブッダが説いたような形で現実を認識しているだろうか。いるはずがない。言われてみて「そう、かもしれない?」と一瞬思うかもしれないが、いま我々が五感でさまざまな情報を得、一瞬でも思考の俎上に乗せた瞬間、それはすでに上掲の感受→思考ルートを通過済みである。こんなものを意識して行えているはずがなく、ここにも「なぜか」が現れる。なぜか、できてしまっているのである。

 この点を『論考』はこう記す。世界と命題が「論理的に分かちがたく結び付けられている」【3.315】のだ、と。事実が論理によって思考に接続されている、すなわち命題もまた事実と論理にて分かちがたく結び付けられているのだ――そう、なぜか。


 ここで『論考』はより命題を一般化しうるよう、思考について論じるもの、命題の現れ方をこのように表現する。「特定の記号が用いられることによる」と【3.1】。この記号は、最も一般的なものが「ことば」だ。そのうえで、「ことば」以外の様々な要素も包含する。

 我々は、例えば馬車、例えば指、という「ことば」から、一瞬にして馬車のイメージ、指のイメージ(イメージと書いたが視覚的なものである必要はない)を、「ぜんぜん具体性を帯びるわけでもないが、にもかかわらずその概念を了解してしまう」ことに気付くだろう。これは馬車や指が、「馬車」「指」という言葉と論理にて分かちがたく結び付けられていることによる、と語られる。

 これこそが先に「我々は内的要素をすべて知っている」と書かれたゆえんである。具体的にわからないはずなのに、「了解してしまっている」のだ。単語を見るだけで、実際の指や馬車を見るまでもなく、「それがなんであるか」を理解してしまう。この現象は名詞に限らず、さまざまな言葉にて発生している。動詞においても、形容詞においても、その他諸々の品詞たちにおいても。そしてこうした「よくわからないはずであるのになぜかわかってしまうもの」たちが、特定の法則(ことば、に話を限定すれば文法)に基づいて組み立てられる。それが命題である。

 そして、ここでもまた言うことができる。我々は、こと母国語に限定して言えば文法の助けなどなく、ことばたちを意味の通じる順番に並べることが叶う。ここにもまた「なぜだかわからないが」とつけられてしまうのだ。


 世界におけるさまざまなありようを種々の感覚にて感じ取ったものを、「私」は「なぜか」思考として了解でき、「なぜか」言葉として表現できてしまうのである。この現象についてヴィトゲンシュタインはこう論じている。「命題は現実のすべてを表現できるが、それを表現するにあたり、現実との共通点、すなわち論理の形式を表現することはできない」【4.121】。

 どういうことだろうか。つまりヴィトゲンシュタインという網羅的、ストレートに言えば病的思考マニアの検証からすれば、世界にあるあらゆる事態が命題に変換されるにあたっての経過は「言明のしようがない」としか言えないのである。あえてその変換形式を「論理」とこそ呼んでいるが、論理は「気づけばそこに示される」形でしか現れない。「では、ここで具体的にどのような科学的な意味での変化が起こったのか」を、どう頑張っても語りようがない、と結論している【4.002】。

 ここで、やや牽強付会的でこそあるが老子の言葉をひとつ引く。「天地之間、其猶橐籥乎?虛而不屈、動而愈出。」天地の間には何もないのだが、それが何らかの動きを果たすことにより万物が生じる、という。論理が語りようのないことであるにもかかわらず自ずと作用している、と語るヴィトゲンシュタインの言葉とに、やや類似性を感じずにいられない。まあこちらは余談である。


 ともあれ、世界にあまねく事態たちは「私」を経て、いよいよ命題にならんとしている。命題において、われわれはどこまでのものを語ることが許されるのだろうか。ここについてあらかじめ語っておくと、ヴィトゲンシュタインは既存の哲学において諸先人が「テキストにのみ頼ろうとした」ことに対する不満を大いに抱えており【4.003】、バートラント・ラッセルやゴットロープ・フレーゲが提唱した論理学がこうした不備を解消しうる論を提示したことに喜びながらも、その手立てについては大いに不満を抱えていた【3.325】。このどちらもが、「世界を真に論じるに当たっては役不足だ」とする、ようである。


 ようである、と書くのは、ここからの記号論理学の内容がさっぱりわからないためである。ま、まぁそのうちね?

 で、【4.1】から【5.641】、すなわち「この本の約半分」は、どうやら【6】を導き出すための途中式、の、ようである。まぁそのうちね?


 というわけで、ヴィトゲンシュタインが示した「語り得るもの」の最大化を見ていこう。



○「語り得るもの」(4.1~6)


 まずはこれを再提示しておこう。

 世界→事態→事実・現象

 思考→命題→要素命題


 世界、すなわち「すべて」と提示したものを語る最大化は、最小単位の接続及び配置によって示される、とヴィトゲンシュタインは論じた。長大にして難解、怒濤の計算式を一気に飛び越え、ヴィトゲンシュタインが示した「回答」は、こうである。


  [p¯,ξ¯,N(ξ¯)]【6】


 厳密な表記は各文字の上に横棒である。特殊文字なので暫定的にこのように表記させて頂いた。『論考』の7つの大テーゼを列挙した時にひときわ異様さをたたき出している、例のアレである。これを言葉に置き換えると、以下のようになる。

「我々が提示しうる全ての命題は、論理空間中にある全要素命題のうちから特定の命題に対する偽を示す要素命題を全て省いた先に現れる」


 まだややこしいな。もう少し解きほぐしてみよう。「何かを語る時、全部のもののうちそうじゃないものをどけさえすればオッケー」。これでどうだろうか。ここまで物事を切り分けてしまえば言い表せない命題なぞなくなるだろう、というのだ。


 さて、では『論考』によれば、命題とは現実を言い表したものとなる【4.01】。ともなれば、この謎関数を「世界における現象」として既に『論考』は語っているはずである。というわけで見返してきました。


「なぜならば、事実・現象の全体が、あらゆる何かがそうであるか、あるいはまた、全てがそうでないかを、規定するためである。」【1.12】

「ひとつのものは「そうである」もしくは「そうではない」に分解される。そして同時に全てはそのままで保持される。」【1.21】

「存在する事実の全体によって、どの事実が存在しないのかも決まる。」【2.05】


 言ってた! 確かに言ってたよこのひと! もしかしたら他の場所でも言っていたかもしれないのだけれど、ひとまず。

 ていうか上掲三条、正直はじめから順に読んでた時にはさっぱり意味がわからなかったのだが、そうしたあれこれをこんな後ろの方まで把握できてなきゃよく意味がわかんないとか鬼かこの本! いや鬼なんだけど。


 さて、ここまで出揃った『論考』における主張についてざっくりとまとめれば、以下の通りになるだろう。

「我々が論じうる、あらゆる命題は、真か偽かで判定しうるものでなければならない。この判定は世界で実際に生じている現象との比較によってしかなしえない。世界に対する人間の入力機能、出力機能がともに絶対的に正しい、などと保証しきれないからである。ならば現象との比較をなしえない命題を掲げたところで、それが本当の結論を得られるという確かな証立てができない以上、その論証に血道を上げる意味がない。「あなたが思ったこと」から決して脱し得ず、そこに絶対的な正しさを帯びるはずがないためである。」


 なるほど、この主張には自分自身大いに納得をしたものである。


 ……のだが。

 の、だ、が。

 なんですよ。


 この命題によって盛大に否定されるものが出てくる。何か。

「論理」である。



○「語り得るもの」「語り得ないもの」のはざま(6.001~6.3751)


 これまでも『論考』は自身の語れないものについて既に触れてきている。たとえば言及する対象の、対象そのもの。「主観者としての私」。そして、論理。ただしここで前二者は「それでも、確かにあってしまう」。ならばそれは論じようがなくとも真である。問題は論理だ。「それは語りえず、ただ現れる」とは書かれていたが、「論理空間の中にある実態」としては一切姿を現さない。ならば論理の存在は、どう足掻いても命題にはなり得ない。「世界」との比較をしようがないのだから。


 この反論を、ヴィトゲンシュタインはおそらく想定していたのだろう。「んだけどさぁ! 実際「論理」による作用があるんだからしょうがないじゃんさぁ! だからこそ数学だって成立するわけじゃんかさぁ! だいたいそう言う話したら力学や幾何学だって実在しないけど働きはあるじゃんかさぁ!」と、ものすごい勢いでまくし立てる。結果、【6.1】は本書屈指の難解さをたたき出す。言いたいことは「ほらほら、論理ってのは確かに見えない、見えないよ! けどこの通り、あまりにも自明に作用してしまってるんだよ!」である。病院行く? 【6.2】ではそうした論理があるおかげで数学が成立する、と語られている。ウンソウデスネー。


 そして、【6.3】。はじめはニュートン力学や幾何学を引き合いとして「ほらほら、こう言う法則が導き出されちゃってるでしょ? ならもう法則が現れてしまう、ってことについては諦めなよ」としてから、けれども途中で話が一転する。「この世で因果律と呼びうるのは自然法則だけだ」【6.36】と論じ、返す刀で「何かの事態によって何かの事態が引き起こされる、と確定的に言い切れるのは論理の上で必然となることだけだ」【6.37】と語るのだ。ここにおいて言い始めるのは「この世界の出来事を我々が本当の意味で語り切れるはずかないんだからな」である。


 ニュートン力学は、確かに一見世の中の出来事を合理的に説明している、ように見える。見えるのだが、それが提示しているのは飽くまで起こっている出来事をシンプルに、わかりやすく説明した、ということに過ぎず、「それが本当の自然法則を開明的に言い表している保証はない」とする(現に量子力学や相対性理論の世界ではニュートン力学では説明のしようがない現象も生じているそうである、しらんけど)。ニュートン力学の説明に基づけば今日昇った太陽は明日にもまた昇る、と言えるのかもしれないが、「本当の自然法則」に基づけば、もしかしたら太陽は昇らないかもしれないではないか【6.36311】。

 とは言え、それでいてこれは言えてしまうのだ、「それでも世界は、何らかの法則によって統御されている」と。


 ようは論理ってね!? そういうもんでね!!?!??? あっはい。



○「語り得ないもの」(6.4-6.45)


 ヴィトゲンシュタイン先生のとんでもない剣幕に「とにかく論理は確かに働いている、異論は認めない」と押し切られました。先生こわいです。とはいえ「語り得るもの」パートのラストに示された結論は論理の働きあってこその結論なのも間違いがない。なんだかケツの据わらせどころが定まらない感じがあり非常に落ち着かないのだが、まあ仕方ない。


 さて、ここまで書き連ねてきたところ、なんとヴィトゲンシュタインの提示する「命題」においては決定的に論じることの叶わないものが浮かび上がってしまった。世界に現象の存在しないもの、すなわち感覚論、認識論、形而上学、と言った類のしろものである。

 これらに属するもののうち、ヴィトゲンシュタインは「倫理」を取り上げる。それは確かに語りようはないけれど美しいものであり超越論的なものである、とする【6.421】のだが、なんのことはない。上掲の「語りうるもの」についての結論からすれば倫理と呼ばれるものは全て「それってあなたの感想ですよね?」にしか帰結しないのだ。「世界と比較のしようがない」のだから。倫理が世界に影響を及ぼせるとしたら、それは倫理に基づき動いた「私」によるもの、でしかなく、そしてこれが本当に倫理に基づいての行動であると一分の隙もなく証明できる手立ては存在しない【6.423】。


 更には、ついにこれも言ってしまう。「神を論じることはできない」【6.432】。ならば論じず、感じ取るしかない。この世に神秘があるとしたら、それは世界があること、そのものである【6.44】。我々が命題として語りうる、すなわちこの世に現象として現れる、という「限定された」領域の世界【6.45】は、一方では、あること「そのもの」が偉大なる神秘と言えるのである。

 そのように、ヴィトゲンシュタインは世界を通じ、「世界を超えたもの」に対する思慕を示す。その思慕はしかし、決して言葉で示しきることはできないのだ。



○「語り得ないもの」の前に立ち(6.5-6.54)


 いよいよ実質の最終段、【6.5】である。この段がなにかと言えば、「なぜ黙るしかないのか」である。


 答えを出しようもないものについて問うてみたところで何になるというのか。感想の押し付け合いにしかならないではないか。そうした不毛な議論を起こす問いは提示されてはならない【6.5】。仮に問いを立てようとしてみても、それは見せかけだけの問いもどきでしかない【6.51】と、ここに至ってヴィトゲンシュタインの口火は勢いを強める。


 所詮この世に現れる全ての現象は、起こっているか、起こっていないかを語ることしかできない。「真理」などと言う言葉を大上段に掲げている者たちがいるが、そんなものが仮にあるとしたならば、何らかの現象が起こること、もしくは起こらないことのどちらかでしかない【4.063】。これがなぜ起こっているのか、は、神秘のヴェールの向こうにしかない【6.522】。


 ならば、既存の哲学、形而上学的概念を追い求めようとする営みは「それは決して命題として成立しえないのだから、論じ合おうとしてはならない」と、とんでもない強火発言までもがラスト付近で飛び出す。この理由はかなり手前に書かれている。既にいちど紹介した章句、【4.003】である。改めてここの章句を全文抜き出してみよう。


 哲学的なことについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、まちがっているのではなく、ノンセンスである。だから私たちは、その種の問いに答えることなどできっこない。ただそれらがノンセンスであると確認することしかできない。哲学者たちの問いや命題のほとんどは、私たちが私たちの言語の論理を理解していないことにもとづいている。 (それらは、「善は美と、程度の差はあっても同一なのか」というような問いである)

 そして、もっとも深い問題が、じつは問題ですらないということも、驚くべきことではない。

(丘澤静也訳『論理哲学論考』光文社)


 いにしえの哲学者たちは本来答えを出しようはずがないものに対して、延々と言葉を積み重ね続けた。更に言えば「最も深い問題」、すなわち神についても、我々に神を論じる手段がなく、ならばそこに問題など立てようがないにもかかわらず、やはり延々と論じる「フリ」がし続けられた。神は論じ得ない、ただ感じ、仰ぎ、祈るよりほかないというのに。


 かくして、ヴィトゲンシュタインは「論理」という梯子を用い、世界の終端、「語り得るもの」と「語り得ないもの」のはざまに到達し、しかし立ち尽くした。そこにたどり着いても、結局我々の手元には倫理も、神も残らない。それらは神秘のヴェールの向こうから、決して顔を出そうとはしない。ならばもはや、ヴィトゲンシュタインは「論理」という梯子【6.54】、すなわち言葉を擲ち、ひざまずくしかない。祈るしかないのだ。



○「語り得ないもの」のむこう(7)


 ――語り得ぬことについては、沈黙するしかない【7】。


 以上の論考の果てにヴィトゲンシュタインが見たのは「神を実在として感得することが許されない」決定的な孤独だったのではないか、と自分には思えてならなかった。自らの生きづらさに苦しみながら、その生きづらさの源を求めるために思考を積み重ね、「我々が日常的に用いてきた言語」の限界を記号論理学が拡張してくれたことに喜ぶも、それでいてなおのところ倫理についても、神についても論じる――いや、こう言い換えよう、「問う」ことが許されなくなった。こうした結論への到達が、ヴィトゲンシュタインにとってはどれだけの痛恨ごとであったことだろうか。そうした虚無感については自分としても感じ入るところもある、あるのだ。


 が、これを嘲笑う思考がある。仏教、そして老荘である。仏教や老荘は恐ろしいことに、「はいお疲れー、我々は神秘のヴェールの向こうに到達しちゃってまーすwwww」と数千年前からヴィトゲンシュタインを煽り倒す。あまりにもひどい。


 ただし、勘違いしてはならないことがある。「ヴェールの向こうに到達した」ものは限りなく少ない。たとえば最古の仏典とされるダンマパダにはこんな言葉がある。


於此人群中,達彼岸者少。其餘諸人等,徘徊於此岸。

「至れる」者はきわめて少ない。彼の子孫もまた、至りはせず、此岸を巡るのだ。

(「賢人」章 85 筆者訳)


 ヴィトゲンシュタインの言う神秘のヴェールの向こうへの到達。般若心経はこれを「悟り」と呼ぶ。老子、荘子は「道と一体化する」と語る。この境地が本当にあるかどうか、はわからない。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、自分の手元にはどうしてもこの感覚が残る。


『論考』は、偶然と片付けるにはあまりにも『荘子』斉物論と語るところが近似している。ならばヴィトゲンシュタインが呻吟した先にたどり着いた一つの境地、分厚いヴェールの手前にて膝をつく以外に許されなかった絶望には、「その先に進みうる手段も、本当はあったのではないか」。無論、既に鬼籍に入ってしまったヴィトゲンシュタインに、その言葉を届けることなど叶うはずもないのだが。



◯論を終えて


 ここで考えなければならないことがある。では、こうした論を経て、自分は何をすればいいのか。これはもう、決定的にシンプルである。「何かを書きたい人間」なのだ。ならば「書いたものを世に垂れ流す」という現象を提示すべく、学び、書いていくしかない。過日斉物論を読み終えた時に得た実感は、なにひとつとして揺るがなかった。


 さあ、書きましょうね。けどその前に、もうちょっとこの生きづらそうなおっさんの思考と戯れましょう。


 というわけで、明日からは『哲学的探求』の読書ノート開始でーす。あ、『論考』ほど根詰めて読む気はないです。バンバン飛ばし飛ばしで行きます。さすがにそろそろダンマパダが恋しいので。

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