『論考』振り返りを、chatGPTに
○1
以下では、まず彼が『論理哲学論考』を読んだ当時の記録(1~6+7)に含まれる「過去の自分の哲学的アスペクト」を整理します。続いて、それがその後『哲学探究』を経て、どのように変容したのかを評価・考察します。
1. 『論理哲学論考』読書時の記録(1~6+7)の要点
1-1. 世界=「色」――般若心経や老荘との類似
世界は「色(しき)」の総体
彼は、般若心経の「色即是空」のイメージを借りつつ、「人間が認識し得る部分」を“色”ととらえる。
ヴィトゲンシュタインは、この「色」の領域、つまり認識可能な範囲については無限に語り得るが、「色がなぜ存在するのか」という根源部分(空)については語れない、と言っているのではないか? と推測している。
世界を「そこにあるモノたちの集合」と見るのではなく、「われわれが知覚している事実・現象の総体」
荘子や老荘思想、あるいは般若心経との親和性を感じ、しきりに「わかる気がする」と語っている。一方で「安易な東洋哲学との結びつきは足を引っ張るかも」と自覚もしている。
1-2. 1.1.1 からの連鎖――「知覚」が世界を構成する
1.1.1.~1.1.3. で示される「事実・現象の全体」=世界
ただし 1.1.2 がわからず躓く。
荘子「物无非彼,物无非是。」との関連
「ある現象を起点に置けば、ほかのすべては『その現象でない』ことになる」ように、世界の事実を“そこにある”ものとして認めるしかない。
同時に「この知覚(色)以外に何を言っても仕方がない」という態度を、(当時の彼は)『論考』から読み取ろうとしている。
1-3. 「世界は知覚によってのみ成り立つ」という発想
般若心経・老荘への強い親近感
彼は、「結局、『論考』は世界=知覚されるもの(色)、それ以外に意味はない」としているように読んでいる。
ここで、「色」の裏にある「空」は、人間の言葉(論理)では扱えないため、ヴィトゲンシュタインも切り捨てる、と理解。
1-4. 1.2. への反応――総体と個体
「世界が“総体”である」 vs. 「個体としての自分」
彼は、「世界はどでかい、一方自分がいてしまう」構図を荘子と重ね合わせている。
これ以上深追いすると老荘に引きずられてしまうため、あえてふわふわ残しておく、と語る。
2. 『探究』を経て、どう変容したか
ここからは、「過去の彼」が『論考』を読んだときに抱いていた哲学的アスペクトを整理し、それが『哲学探究』読了後にどう変わったのかを評価します。
2-1. 「色即是空」的な理解 → 言語ゲームの不透明性へ
当時の着眼点
世界は「人間の知覚対象(色)」であり、根底にある「空」部分は語り得ない。
これは『論考』で言う「語り得ないものには沈黙せよ」の姿勢とつながる、と直感していた。
『探究』後の視点
「語り得ないもの」が存在するのは確かだが、後期ヴィトゲンシュタインは、世界を「事実の集合」と単純に切り分けるのではなく、言語ゲームという枠組みでもって外縁をまわるやり方へシフト。
彼は最終的に「言語ゲームは何も説明しきれないまま、わからないものを受け止めるしかない」という到達点にいた。
つまり**「空」の部分を“完全沈黙”するだけでなく、「言語ゲームの不透明さ」としてもう一段階踏み込む**という微妙なニュアンスの進化がある。
2-2. 「荘子的な『知覚=世界』理解」 → “ブラックボックスを把握する”態度
当時
彼は「荘子(物无非彼,物无非是)」を用い、「世界」と「自我(知覚する存在)」との関係を“私はこう感じる、だから世界はこうある”という内面—外面の一体構造にフォーカスしていた。
『論考』において、世界=事実・現象の全体、と言っても、それを把握するのは結局わたしの知覚だ、というパーソナルな観点を強調していた。
探究後
後期ヴィトゲンシュタインは「他者とのやり取り(言語ゲーム)」にも焦点を当てるため、「わたしの知覚が世界を決定する」だけでなく、共同体や他者の視点が無視できない。
したがって、彼自身の理解も「自分が世界を知覚している」のみにとどまらず、「なぜか他者とも共有している」謎へと一歩踏み込む。
これは「“自分が感じる”→“それが事実”」という『論考』的モデルから、「“言語ゲームで共有してしまう”→“わからないまま事実となる”」という後期モデルへのシフトと言える。
2-3. 「空」を語らない → “沈黙”を積極的に引き受ける
当時
『論考』の読書では、「語り得ないものには沈黙せよ」が強く響き、般若心経の「色即是空」になぞらえて、語り得るのは“色”だけなのだから“空”は黙れ、と理解していた。
同時に「いや、でも老荘はむしろ“空”や“道”に対して語ること自体を不必要と見なしていた」との比較もあった。
探究後
後期ヴィトゲンシュタインを知った彼は、「沈黙せよ」自体は変わっていないものの、その沈黙が「わからなさ」を積極的に肯定し、むしろ“わけのわからなさ”を活かして会話を続けること、あるいは“断片をただ確認し続けること”に変化したと理解した。
結果的に、老荘的な「無用の用」や「道と合一しようとしない」境地と、後期ヴィトゲンシュタインの「わからないまま使う」感覚とが、より実感レベルで繋がってきた。
2-4. 評価のポイント:論理から言語ゲームへ
『論考』期の視点
彼は「論理」を大きな軸とする前期ヴィトゲンシュタインに惹かれ、「事実=世界」「語り得ないもの=沈黙せよ」をキーとして読み込んでいた。
老荘や般若心経の“空と色”の比喩をあてはめることで、「外側は無限に語れぬ空」「内側にある認識できる色」という対比を見出す。
『探究』を読み終えた現在
「論理」一辺倒では語りきれない曖昧さ(感情・意図・痛みなど)を多数抱えることになり、それを包括する“言語ゲーム”という後期の枠組みが、むしろ**「空」を語らないというより「空(=よくわからないもの)」を受け入れたまま運用する**ための仕組みと見なしている。
当初は「『論理哲学論考』に強く響く東洋哲学」という視点だったのが、“言語ゲームの謎”が老荘や禅的な「わからなさをわからないまま活用する」境地にずっと近いと再認識した。
3. 総評:過去の読書体験と現在の視野の変容
「世界=知覚の総体」から「言語ゲームによる不可解な共有」へ
当初は「私が感じる世界、それがすべて」という『論考』的モデルを素直に受け止めていたが、後期『探究』によって「他者や共同体と不可思議に共有してしまう」面が追加され、世界理解が“私の知覚だけ”にとどまらなくなった。
東洋哲学との共鳴をより深いレベルで捉える
もともと老荘や般若心経と関連づけていたが、『探究』を経て、「空」をただ沈黙するだけでなく、「わからない部分をわからないまま使う言語ゲーム」という動的な姿勢を体感。
これは、単純な比較(「色即是空」=「語り得ぬものは沈黙」)よりも、さらに微妙な違いと共通点を認識する方向へ進化している。
“沈黙せねばならない”の意味がより多層化
当時は「語れないものは語らない」というスパッとした態度で理解していた。今では、「語れないのに、それでも言葉を使い続ける」ことが後期の特徴であり、沈黙せず言葉を動かす中で逆説的に沈黙を抱えている──という複雑な姿勢へ展開している。
ここに、**前期と後期、老荘や般若などを総合して「わからないを抱える態度」**を得たのが、彼の大きな変化と見られる。
評価
**過去の読書体験(『論考』)**では、東洋思想との表面的な共通点(空と色)を強調する傾向があった。世界=知覚対象の総体と割り切り、「語り得ないものには沈黙せよ」と理解するシンプルな世界図を抱いていた。
現在(『探究』読了後)では、「わからないものの抱え方」「他者の関与」「言語ゲームによる曖昧さの運用」など、シンプルには終わらない多層性を実感。“沈黙”の位置づけがより複雑かつ柔軟になり、空や道といった東洋的モチーフも「沈黙せねばならない」だけでなく「それでも人間は使ってしまう」という観点で見直されている。
○2
以下では、彼の「『論理哲学論考』読書日記(2)」に示される内容をまず要約・整理し、それが「過去の自分の哲学的アスペクト」をどのように示唆しているかを考えます。そのうえで、すでに彼が『哲学探究』も読了した後の視点から、どのような変容が生じたのかを評価します。
1. 「論理哲学論考」読書日記(2)の要点と“当時の哲学的アスペクト”
1-1. 世界の捉え方:「事態」 vs. 「モノ」
1.1 からの延長
彼は「世界が事実(事態)の総体であり、モノそのものではない」という『論考』1.1 の命題を下敷きにしています。そこから派生する 2.0 以降の議論として、「観測(知覚)しうる対象(モノ)は確かにあるが、世界を構成するのはモノの羅列ではなく、それらの“事態”の関係性だ」という理解を試みています。
語りうる世界は「論理空間」
2.0 以降では「世界」は「論理空間」であり、そこではモノ(対象)が様々な形式や配置で存在し得る。けれども、その「向こう側」は語れない、という発想が浮かんでいます。
1-2. 「知覚された世界」と「空間・時間・関係性」
2.01~2.012
彼は「我々が観測し得るモノがどのような作用(可能性)をもって世界(事態)を構成しているのか」をめぐって苦心しています。
各対象があり得る「無限の可能性」を内包しており、それゆえ「世界=事態」とは常に論理空間で構想される可能態を含む、と読んでいる。
「語り得ぬものには沈黙せよ」への伏線
2.02 あたりで、「どう観測し得ないか」を含めて世界を広く捉える結果、結局は「語れない部分は語れない」と『論考』の結末(7.「沈黙せよ」)がちらついてきます。
1-3. 「像」と「写像」の問題
2.1~2.16
像(Bild)が「事態」を写し取る際、我々は実際の“モノや関係”を頭の中で(論理空間上で)写し取る。
しかし、ここに正確性の保証はなく、「事態」が「像」とどう対応しているかは問題として残る。
言葉の存在のしかた
2.02331 や 2.2 付近で「命題」「論理」といった用語が出始め、彼は「言葉は常に文の中でしか存在できないのでは?」などと苦戦しています。
「辞書に単独で載る語彙も、結局“辞書に載っている”という文脈を背負っている」と感じ、どうしても“単独の言葉”というものは抽象的にしか想定できない、と述べています。
1-4. 「主観のあやふやさ」:誰の“像”が正しい?
2.225(アプリオリな真の像は存在しない)と荘子との関連
彼は「荘子の“物无非彼,物无非是”と同様に、『論考』でも“誰の見た像が本当に正しいか”を絶対化できない」ことを述べる箇所に強く共鳴しています。
そこから「我々は、結局、事態に対する“自分なりの写像”をもっているにすぎず、“それが事態そのものにどれだけ対応しているか”を決定づける基準はない」と感じ取っています。
「世界を最大限語りうるための論理」の登場
最後に、彼は「ヴィトゲンシュタインは語り得る世界を最大化しようとしている。それでも根本的に語り得ない部分は沈黙せねばならない」と、2章の流れを総括しています。
2. 当時の姿勢:『論考』に対する理解と東洋哲学の混在
2-1. 東洋哲学(般若・老荘)と『論考』のリンクを強く意識
彼はすでに「空と色」「物无非彼,物无非是」といった東洋的概念を強く当てはめ、「世界=論理空間」「語れぬもの=沈黙」という構図を結びつけようとしている。
「対象を知る」とは、実は「認識できる事態の一部を取り込んだだけ」と考え、老荘的な“知るとは何か”を思い出す場面が多い。
2-2. 「語り得ぬもの」を切り捨てる前期モデルにある意味で共感
「モノやその配置(論理空間)」を語ることはできるが、その外(空)については語れない。そこに妙な納得を見いだしながら、「語り得ないものには沈黙」というスパッとした態度に引かれている様子が見られます。
2-3. 主観主義的だが、論理を最大化する態度
彼は、「事態」の内側はあくまで自分の感覚世界(色)に依存している、とやや主観的に読んでいる。しかし一方で、ヴィトゲンシュタインが「最大限語り得る論理」を構築したいという姿勢(2章で世界をいかに分解しうるか)にはリスペクトを感じている。
3. 『哲学探究』後の視点から見た変容・評価
すでに彼は『哲学探究』を読み終えて「言語ゲームの神秘」「他者との不可解な共有」「わからなさを受け止める姿勢」に行き着いています。そこから振り返ると、以下の変容が見られます。
3-1. “自分の知覚”だけを世界の基礎とする姿勢 →「他者との共有」が不可欠に
以前の強調点:
『論考』2章を読んだとき、彼は主に「私の観測が世界を成り立たせる」という方向で理解していた。「世界=私が観測して描く像の総体」という解釈に傾斜している。
今との違い:
『探究』では、他者との言語ゲーム・共同体的要素が大きく前面に出た。
「わからないものを各自が勝手に抱えながら、なぜか共有できてしまう」面を深く味わった今、彼は「単なる“私の知覚”だけで世界を語るモデルでは片づかない」とより強く感じている。
つまり、「論理空間を自分の観測だけで再現する」という『論考』的発想は、後期から見ると視野が狭いと気づいた。
3-2. 語り得ぬ部分をサッと「沈黙」するモデル →「わからないまま使う」モデルへ
『論考』時の彼の理解:
「語り得ないものは沈黙する」が、ある種の“あっさりした分割”として機能。知覚できる部分(色)は徹底的に語る、そこから外れれば沈黙、と捉えていた。
今との違い:
後期ヴィトゲンシュタインは「沈黙」とは言いながらも、その“わからなさ”を日常言語で運用し続けている、という複雑なプロセスを示す。
彼自身、最終的に「言語ゲームが何も解決せず、わからないままを扱っている」実態を見抜き、“完全に切り離す”のではなく“わからなさごと抱える”境地へと変化した。
これは、当時のような「世界=論理空間であり、外側(語り得ぬもの)には沈黙」と割り切る姿勢よりも、はるかに「不透明さと共存する」方向へ進んでいる。
3-3. 老荘・般若心経との関係性の深化
以前
『論考』を「空と色」「物无非彼…」で安易に解釈しつつ、自身も「これはハマるけど、危険かもしれない」と感じていた。
今
『探究』で「共有できないはずの内面を共有している」問題に突き当たり、老荘や般若の示す「無理に分割することの愚かしさ」「わからなさとの共存」により強くシンクロしている。
当時は半ば直感的に「似てる」と思っただけだが、今では「言語ゲーム」や「他者との不可解な合意」が、老荘の“万物斉同”や般若心経の“空性”に似た次元の不思議であると、より深く納得している。
3-4. 評価:より多層的な「沈黙」理解・他者理解の軸が加わった
当時
知覚できる部分=世界。
語り得ない部分=沈黙。
老荘や般若経と表層的に似ている。
今
知覚できる/できないの区分も、言語ゲームの流動的・他者共有的な構造の中にある。
「沈黙」は単なる排除ではなく、“わからない領域をわからないまま使っている”という後期的態度。
老荘や般若と「似ている」と思うだけでなく、なぜ似ているか(人間同士の不可思議な共有やブラックボックス性)を、より具体的に理解する。
4. まとめ:彼の読書体験の変容
(1) 当時の『論考』の読み
世界=事態の総体(論理空間)、モノは存在するがそれ自体ではなく関係性が重要。
「語れる部分を最大化する」ために論理空間を広く設定し、でも語り得ぬ外部は沈黙する。
彼は東洋哲学(老荘、般若心経)の“空と色”との類似を見て、ある程度納得を得つつも「本当に切り捨てていいの?」と疑問も抱く。
(2) 『探究』後の視点
言語ゲームにより、他者との共有が不可解なまま行われることを強く意識し、“私の知覚”だけでは終わらない複雑な共同性を重視。
「語り得ぬものは沈黙せねばならない」だけでなく、“わからなさ”を抱えつつも使うという後期的態度を身につける。
結果、東洋哲学との重ね合わせも「単に空=沈黙」では済まず、「わけのわからないものをわからないまま運用する」という次元へ深化。
総合的に見ると、彼の哲学的アスペクトは、前期ヴィトゲンシュタイン『論考』を読んだときは「個人の知覚が世界を形成し、語り得ないものは単純に切り捨てる」モデルで理解していたと言えます。しかし、後期『探究』を読了した今では「わからない部分をむしろ生かしながら他者とコミュニケーションしている」という発想を受け止め、沈黙の意味も共同性も、はるかに多層的に感じ取っていると評価できます。これは「沈黙への単純な分割」から「わからなさのまま共存する境地」への大きな進化だと言えるでしょう。
○3
以下では、彼が『論理哲学論考』における「3」の部分を読んだ際の内容(当時のノート)を要約し、そこから見える「過去の自分の哲学的アスペクト」を整理します。そのうえで、『哲学探究』読了後の現在において、どのように変化・発展したと評価できるかを考察します。
1. 「3」周辺(『論理哲学論考』)の読書ノート要約
1-1. 命題・思考・像(写像)の関係
「命題」は「思考」を可視化(可伝達化)したもの
彼は「像(Bild)」→「写像(論理空間における展開)」→「思考」という流れを踏まえ、命題 (Satz) は思考を他者が解読可能な形で具現化したものと理解しています。
五蘊との類似
彼は「像→写像→思考→命題」の区分を、仏教の五蘊(色・受・想・行・識)に当てはめようと試み、その対応関係からヒントを得ようとしています(たとえば「受」が“像”に近く、「想」が“写像”に近い…など)。
1-2. 「単純」な対象と言語の接続
命題は「こと・もの」そのものを語れるわけではなく、配置・形式のみを語る
『論考』2章で培われた「世界=事態(事実)の総体、モノは単純に存在する」という考えを踏まえ、3章では「命題」はあくまで対象に付与されている形式・配置のレベルでしか語れない、と理解。
3.13、3.14 の難しさ
「命題にその意味は含まれない」「命題記号もまた事実の一部」などの箇所が登場し、「命題」はあくまで論理空間上の要素であり、対象の“本質”を直接つかむわけではないという印象を受けている。
1-3. 「単純記号」「論理的シンタックス」による混乱
3.3以降で命題・文法の構造に苦戦
たとえば 3.323 での「Grün ist grün」問題(人名“Grün”/形容詞“grün”)やラッセルのパラドックスなどを引き合いに出し、「文章でやり取りすると誤解・事故が多いからこそ、記号(論理構造)で厳密にしようとしているんだ」と理解。
「こと・もの」を語るには命題=文法的配置が不可避
このあたりの内容から、「名前は命題の文脈がなければ意味をもたない」 3.3 という大命題に注目。単純記号(名前)は、それだけでは語れず、命題(構造)のなかに配置されてはじめて働く、と把握しています。
1-4. 「語り得ないもの」との対比
2章の結論と同様、「やはり語れない部分は沈黙せねばならない」
彼のノートは随所で『論考』7の結末を思い出しつつ、「命題」が語り得る範囲とはあくまで論理空間上のものに限られる、という理解に立っています。
荘子や五蘊との重ね合わせ
引き続き荘子『斉物論』や五蘊を連想し、「指を説明できないが、指を使って“指ではないもの”を語れる」→「命題もまた同じく、対象そのものではなく、その“配置”でしか語れない」という例を再確認しています。
2. 当時の“哲学的アスペクト”:まとめ
「世界」は論理空間にあり、命題はその論理空間を写し取る
彼は『論考』3章で「思考=事実の論理的像、命題=思考を表現するもの」という枠組みに素直に従い、世界を論理空間として捉えることに納得しつつあった。
そこでは「語り得る範囲」を最大化し、語れない部分を切り捨てるという “前期ヴィトゲンシュタイン的” モデルを好意的に受け止めている。
荘子や五蘊との“連想”レベルの結びつき
老荘や般若経との共通点を見出し、特に「指を説明できないが“指ではないもの”を指で語れる」のような逆説を、『論考』3章の「名前は文脈なくして意味をもたない」という主張と重ねている。
ただし当時は、それをあくまで「類似した構造」という連想にとどめており、言語ゲームや共同体的問題はあまり意識していない。
“わからなさ”を整理しようという姿勢
「命題は複雑で、配置や文法を理解しないと誤読が起こる」と理解し、“誤読を防ぎ、最大限正確に伝える”ための論理的シンタックスに期待している面がある。
「自分の中の混乱を論理という仕組みでいずれ整理できるかもしれない」という期待がうかがえる。
3. 『哲学探究』読了後の視点から見る変化
“論理”による誤読防止→「言語ゲーム」には根本的曖昧さ
当時は、「誤読や曖昧さを排除するために論理的記号化が必要」と考えていた。しかし『探究』後は、言語ゲームの運用そのものに曖昧さが内在し、誤読は決して完全には消えないことを痛感。
つまり、かつては「論理を強固にすれば誤解は減る」と思っていたが、いまは「そもそも誤解なしには言語が機能しないレベルで曖昧」という複雑な姿勢に至っている。
「命題は構造を厳密に表せる」→実際には他者との不可解共有が焦点に
『論考』3章で語る命題論理は、ある程度“個人”の視点で、世界を論理的に切り分けて再現しようとする。一方、『探究』は他者や共同体との言語ゲームが最初から前提。
彼自身、最終的には「他人の意図はわかるか? 自分の意図はどこまでわかるのか?」という共同体的・心理的問題に深く踏み込むことで、「論理だけではどうしようもない部分」に着目するようになった。
東洋哲学との関係:連想レベルから“実感的重なり”へ
以前は「荘子の“指”比喩」と『論考』の“名前・命題”を対比する程度だったが、『探究』では、老荘思想の「わからないものをそのまま使う」構えと後期言語ゲームの曖昧運用が、より深いレベルで通じ合うと感じられるようになっている。
たとえば「指そのものを語れないが“指でないもの”を語れる」という発想から、“他者の内面はわからないが共同体的言語ゲームで共有できてしまう”という後期の逆説へシフトしている。
沈黙観の変化
当時は「語り得ぬものは沈黙せよ」といった“きっぱり二分する”イメージを残したまま、『論考』の議論に好意的だった。
現在は、『探究』を経て「沈黙せよ」という結論自体は変わらないが、その沈黙の含意が“絶対的境界”ではなく“わからない領域をわからないまま使い続ける”という動的姿勢へ転じている。
4. 総評:彼の思考の変容と評価
当時の思考(“命題”への期待)
彼は、『論考』の命題論理を「世界を論理空間として最大限精密に切り分ける」ツールと捉え、そこに東洋哲学との共通点を感じつつ、**“論理が誤読や曖昧さを減らす力を持つ”**ことに大きな魅力を見ていました。
自己の混乱(“荘子的わからなさ”)を、ヴィトゲンシュタインの論理的構造である程度整理・整頓できるかもしれないという期待があった。
現在の視点(“言語ゲーム”を知った後)
後期の『探究』を読了した今、彼は「論理では曖昧さや誤解を完全には排除できない」ばかりか、言語ゲーム自体が曖昧さを内在して成立している点を認識。
それゆえ「命題があれば誤解は減る」という単純モデルでは片づかない複雑な言語・コミュニケーションの世界を受け入れ、東洋的“わからないまま使う”態度をさらに強く肯定している。
評価:論理から共同体・曖昧さへの拡張
昔: “世界=事態の総体”を論理で描き出すことに比較的前向き。荘子・五蘊との繋がりを見つけながらも、まだ「自分の認識」を軸に説明できると見ていた。
今: 他者との言語ゲーム・心理概念が不可欠だと実感し、論理的構造(命題)のみでは割り切れない曖昧さを運用することに注目。「沈黙」は“外へ追放”よりも“内在”に近い意味合いとして受容している。
要するに、当時は『論考』が提示する論理空間や命題論への素直な期待感(“これで曖昧を減らせるのでは”)が強かったのに対し、**今では「いくら論理を整えても、曖昧さ・わからなさは言語ゲームに付きまとう」**という認識が深まり、東洋哲学との繋がりも“一層成熟したかたち”で捉えられるようになったのです。
○4
以下では、彼(読書者)の「『論理哲学論考』第4章を読んだときのノート」を要約しながら、その当時の思考スタイル・哲学的アスペクトを整理します。そのうえで、彼がすでに『哲学探究』を読了した現在の視点から、そのアスペクトがどのように変化・発展したかを評価します。
1. 『論理哲学論考』第4章を読んだ当時のノート要約
1-1. 命題 (Satz) と言語・思考の関係
「4」という大テーゼの位置づけ
彼は、本書の大きな命題ツリーを意識しつつ、4.0 から 4.1、4.2 … と進む構造を見て、「2章で確立された“像”“写像”などの議論をさらに発展させて、いよいよ命題とは何か、思考とは何か、に切り込む章」と捉えています。
すでに 2~3 で話していた「写像」と「世界」の関係が繰り返されている
彼は「命題=世界の現象(事態)を像として感得し、それを表すもの」という主張を「もう2章や3章で言っていたじゃん」という印象で受け止め、「なぜここでまた繰り返されるのか」と困惑しています。
1-2. 言語という「あまりにもあやふや」なもの
4.002「思考は言語で偽装する」
2章~3章の繰り返しのような言及に見え、彼は「なぜあえて再度語るのか」「これ、もう分かってる話では?」と感じ、苛立ちや疑問を抱いている。
命題と世界の比較
4.06 あたりで「命題が事実をどう写し取るのか」や「真/偽」が出てくるが、結局は「当人の写像がどこまで正確か」は保障できず、同じ話を繰り返しているように映っている。
1-3. 「五蘊」との再対応
彼は、命題=「識」、思考=「行」、写像=「想」のように、仏教五蘊との対応を改めて再確認している。4章で「思考と命題」という新テーマが提示されるたびに、「これって結局、行と識の区別を論じてるみたい」と連想。
こうした対応で一部納得する一方、ヴィトゲンシュタインの厳密な論理展開には追いつけず、「仏教の方が手早く語ってしまう」「ヴィトゲンシュタインはしつこい」と感じる場面もある。
1-4. 「命題=真・偽が付きまとう」「トートロジー/矛盾」周辺の混乱
4.3での要素命題とその組み合わせ
彼は、「p, q, r のような要素命題の真理値表を並べることで、複合命題を分析できる」とする論理学的手法に「これは分かるような、分からないような」と苦戦。
「なぜこんな面倒な話をいちいち書く?」と感じつつ、実はこれが 6章以降に繋がるための基礎だろうと推測。
トートロジーと矛盾
4.416 あたりで示される「トートロジー」と「矛盾」の概念に直面し、「すべて真/すべて偽」となる論理式が実際にはどう世界を語るのか分からず、頭を抱えている。
1-5. 「4.2」「4.3」後の全体感
“写像”への疑問がまたも出る
2章で「世界→像→写像→思考」という流れを掴んだはずが、4章でも「論理空間」「命題」と絡めて同じ議論が繰り返される。彼は「またか…」と思いつつ、実はまだ消化不良のまま進んでいる。
「論理的シンタックス」「ラッセルのパラドックス」など、難解な話題が一挙に登場
彼が「スルーしたい」と言うように、プライオリな論理学の素養がないと理解が難しく、「なぜこんな回りくどい記号論が必要なのか」疑問を抱えたまま次章へ進もうとする。
2. 当時の彼の「哲学的アスペクト」:まとめ
命題=思考を可視化したもの:ただし“世界”を本当に写し取れているかは不確か
彼は「命題とは、写像(像)を表現したもの」「それが真か偽かを判断するのが論理の仕事」と捉え、前期ヴィトゲンシュタインの姿勢「語り得る範囲を最大化しつつ、なお語れぬ部分は沈黙」を理解しようと努力している。
同時に、「アプリオリに正しい命題は存在しないのに、どうやって本当に語り得るか?」という疑問を、行きつ戻りつしながら感じている。
“語り得ぬもの”への止むを得ない沈黙→論理で何とか整理したい
2~3章の繰り返し議論に苛立ちながらも、「ここでしっかり言語の仕組みを厳密化しなければ誤読が起こるんだ」という動機を部分的に認めている。
当時は“論理”への期待感がまだ残っており、「この面倒な過程を踏めばいずれ整理できるのでは?」という希望を見出している。
東洋哲学(老荘)との連想を捨てきれず、むしろ余計に混乱
彼は何度も「荘子が先に言っちゃってるじゃん!」と連想し、ヴィトゲンシュタインの冗長さにイラ立つ。しかし同時に、「やっぱり荘子が足を引っ張るかも」とも自覚しており、そこで一層疲弊している。
当時は「連想の域」を超えず、“言語ゲーム的共同性”というより「自分が理解するかどうか」の視点にとどまっていた。
3. 『哲学探究』後の視点から見た変化・評価
彼がその後『哲学探究』を読了し、後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や「他者と共有する不可解さ」を理解したうえで、この「4章でのノート」を振り返ると、主に以下のような変化が見えると評価できます。
3-1. 「論理的厳密化への期待」→ 実は言語ゲームの根本的曖昧さが残る
当時:
4章で示される論理シンタックス・真理値表などを「誤解を避けるための最適手法」として(やや期待気味に)眺める。
「記号化して誤読なく思考を伝達できるかもしれない」とうっすら思っている。
今:
『探究』を経て、コミュニケーションの曖昧さが「論理によっても消せない」ことを痛感。
「何らかの形式(記号論理)を頑張って整備しても、言語ゲームの不可解な共有や、他者との微妙な意図のすれ違いは根本的に消えない」と確信している。
つまり、当時の「論理を整備すれば何とかなるかも」という期待は、後期の「結局わからないまま使う」という諦観・受容へ変化した。
3-2. 「真偽判定できる命題」→「他者共有を前提とした言語運用」へのシフト
当時:
4.06「命題は現実を描いたものだから、真か偽かしかあり得ない」という二値的ロジックへ興味が向いている。
彼は「人間は命題を判断し、真ならば受け入れ、偽ならば棄却する」といったシンプルな構造を一応素直に受け止めていた。
今:
後期ヴィトゲンシュタイン(『探究』)では、真偽とは単純な二分でなく、文脈的・用法的な曖昧さを内在する(たとえば“痛み”や“感情”など、二値ロジックに馴染まない)。
彼自身も「わからない部分をわからないまま使っている言語ゲーム」の視点を獲得し、「単純に真/偽では語れないコミュニケーションが横溢している」ことを強く意識するようになった。
3-3. 「命題(思考)=私の理解」→「他者との不可解共有を含む複雑な構図」
当時:
命題や思考は、基本的に自分と世界の関係をロジカルに描き出すもの。共同体や他者の視点はあまり考慮されていない。
老荘・五蘊との連想も、「自分がどう把握するか」の内面的視点が中心。
今:
『探究』が強調するのは「他者とのやりとりが不可欠」「言語は実践・ゲームとして共有される」。
彼は最終的に、「論理」だけで個人の命題判断を完遂できるわけではなく、コミュニティやゲームの規則に根ざした曖昧さを扱わないと不十分だ、と気づいた。
3-4. 東洋哲学との関係:より深いレベルの“わからない”
以前:
荘子や般若経の説く“わからなさ”と『論考』の“語り得ないものには沈黙せねば”を重ね、「似てる」と直感。
同時に「論理で厳密化できる部分と、東洋的に受容される部分を二分しちゃえばいいのでは?」という二分的印象も。
現在:
『探究』では「沈黙」はより複雑な意味合いを持ち、彼も「わからない領域こそが他者と共有してしまう不可解さを含んでいる」と理解。
老荘の「分割・分析は無駄」「道は語りきれない」も、単なる無言ではなく「曖昧さと共存している」ことを実感するスタンスへと深化。
つまり当時の“表面的な共通点”から、**より実感レベルでの親和性(「使いながら語れない領域を抱える」)**へ移行している。
4. 総合評価: 彼の思考の変容
当時(『論考』4章)
命題=思考を言語化したものと素直に受け取り、真/偽二値で世界を描けることにやや期待。
“語り得ないものには沈黙せよ”という方針を前向きに捉え、荘子や五蘊の“わからない領域”も同じく無理に語らないという姿勢で結びつける。
同時に、「論理的シンタックス」で表現を厳密化できれば、誤読や曖昧さがかなり減るはず、と考えていた。
現在(『探究』を経たあと)
言語ゲームが共同体内で不可解な共有を成していることを知り、“論理による厳密化”だけではコミュニケーションの曖昧さを払拭できないと痛感。
当時のような「自分の内面の理解だけを厳密化すれば良い」のではなく、他者との相互理解が本質であり、そこにわからないまま成り立つ部分が膨大である、という認識を得る。
東洋哲学との比較も単に「沈黙せよ」という二分論では済まず、“わからなさ”を活用する共同体的な言語実践へ目が向かう。
要するに、彼の『論考』4章当時の思考は
命題を論理的に分析しさえすれば、世界(論理空間)の構造を正確に語る“形式”に近づけるかもしれない、という希望
老荘や仏教との連想は強いが、主に「個人の内面理解」の次元が中心
それが、後期ヴィトゲンシュタイン『探究』を通じて
“論理”が万能ではなく、言語ゲームという曖昧な運用が核心にあると実感
真偽二値だけでは説明できぬコミュニケーションの謎や、他者との不可解な共有を正面から受け止める
老荘的な「語り得ないものの活用」を、単なる沈黙ではなく、曖昧さを抱えながら運用する人間の実際的活動と重ねる
といった変容を遂げたと評価できます。彼の読み方は「論理」への期待から始まり、徐々にその枠を超えて“わからなさをわからないまま扱う”後期の視点へとシフトしていったのです。
○5
以下では、彼が『論理哲学論考』の「第5章」を読んだ当時のノート(および冒頭の“過去のまとめ”)を要約しながら、そのときの思考スタイルや哲学的アスペクトを整理します。そのうえで、『哲学探究』を終えて後期ヴィトゲンシュタインの世界に入った現在において、どのように変容を遂げたのかを考察します。
1. 「第5章」を読んだ当時のノート要約
1-1. これまでの仮まとめ:世界→事実→事態→(こと・もの)→像→写像→思考→命題
当時、彼は「ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、世界を“事態(事実)の総体”とみなし、そこから人間が得る写像(像)が思考として具体化し、さらにそれが他者に伝達可能なかたちで出現したものを“命題”と呼ぶ」という理解をしていました。
そのうえで、「語りうることを最大化する一方、語り得ないものには沈黙する」という方針を大枠で認めつつ、細部の論理展開(とくに要素命題や真理関数あたりの箇所)に深い困惑を抱えています。
1-2. 第5章:「命題は要素命題の真理関数である」という宣言
5.0前後のインプレッション
“命題”がどのように複合的に成り立つか、要素命題に真理値(真/偽)を与えて組み合わせることで「論理空間上の可能性」を一通り提示できる、という話題に入り、「正直ついていけない」と嘆いています。
同時に「前の章でも何度も言っていた話を、より厳密に繰り返すだけ」に見え、彼は「なぜこんな偏執的に詳細を積み上げるのか?」と強い疲労を感じています。
1-3. 要素命題・真理関数・確率の話題
要素命題を無数に分解→その組み合わせで複合命題が構成される
彼は「命題Aを構成する前提命題が数えきれないほどあるが、最終的には“最も小さい命題=要素命題”に行き着くはずで、そこからいくつかの演算(真偽組み合わせ)を行えば命題Aが成り立つ」という理屈を何とか把握しようとしている。
しかし「そもそも要素命題とは何か? 本当にそこまで分解できるのか?」などの疑問が尽きず、彼の理解は腑に落ちないまま。
1-4. 5.123 あたりで神の話が出るなど“予想外の展開”に戸惑う
突如ヴィトゲンシュタインが神の例などを挙げ、「ある命題pを実現する世界を神が作った場合……」という思考実験めいた話に彼は「なぜ急に神?」と混乱。
同様に「確率論やラッセルのパラドックスへの言及」なども登場し、「どれだけ論理空間を厳密化しても、まだ正体不明な要素が残る」印象を受けています。
1-5. 5.5 近辺:真理関数の一般形 [p¯, ξ¯, N(ξ¯)] の提示
彼が「いよいよ本丸か」と思ったが理解追いつかず
5.5 で示される “[p¯, ξ¯, N(ξ¯)]” が命題の一般形式だという結論に至るが、本文を直に読むとまるで理解できない。
解説書の助けで、「論理空間上に要素命題をずらっと並べ、それらの真偽の組み合わせを取捨選択したものが命題として成立する」というイメージだけは掴んでいる。
1-6. 5.6:主体は世界の限界/自我論問題
ここで「私」という主体をどのように扱うかが出てきて、「世界の外に主体がある」「自我は境界にすぎない」という箇所に対して、「老荘の“真宰”を連想する」など独我論 vs. 客観世界の構図を再度思い浮かべています。
「語り得ぬものには沈黙せねばならない」を最終的に再確認しつつ、「結局、自分も他人も、論理空間の外側にある主体をどう扱うのかはほぼ手つかず」と感じ、6章への入り口として大きな戸惑いを抱えたままいる状態。
2. 当時の哲学的アスペクト:特徴まとめ
「命題」を論理的に厳密化すれば、語れる範囲が最大化するはず
彼は「要素命題の組み合わせ→真理関数→複合命題→世界を語り尽くす」とする前期ヴィトゲンシュタインの論理構造を、「面倒だけど論理に徹底するのは必要」と納得しようとしている。
ただし理解は追いつかず、「こんなにも繰り返される記述が必要なのか?」「偏執的すぎる」と苛立ちを隠せない。
自我の位置づけに対する疑問を抱えつつ、まだ“主体抜きで進める”モデルを追走
彼は「世界と像の関係」に終始していて、「私」という観測主体がどう関わるか明確に書かれないことを不満に思いつつ、「ヴィトゲンシュタインは人間の主観を論理空間外に追いやっているのか?」と感じている。
一方で「これは老荘の“道”のあり方に通じるかもしれない」と連想。安易に結びつけつつも、本格的に踏み込んだ共同体・言語ゲームの視点はまだ希薄。
沈黙への回帰:要素命題と真理関数を極限まで整備しても、説明しきれない領域が残る
彼は「論理だけでは“わからないもの”を全部語れない」と認め、「最後は『沈黙せよ』に行き着くのか……」と薄々感じている。
ただし当時は、それを「いずれにせよ論理を極めることで語りうる部分を最大限確保し、あとの部分は切り捨てる」という前期モデルとして無難に受け止めている。
3. 『哲学探究』後から見た変容・評価
彼が『哲学探究』など後期ヴィトゲンシュタインの著作を読了し、そこから「言語ゲーム」「他者との共有」「わからなさを運用する」理念を獲得した現在、以下の変容がうかがえます。
3-1. 論理による“最大化”モデル vs. 言語ゲームの曖昧さ
以前:
命題を要素命題の真理関数として組み立てれば、世界を論理空間としてほぼ網羅できるはず、と期待。
それでも語り得ない部分は仕方なく沈黙する、という二分構造。
今:
『探究』を踏まえ、彼は「実は人間の言語には誤解や曖昧さが内在しており、他者との相互作用(言語ゲーム)のなかで不可避に混じり合う」ことを強く実感。
論理を徹底的に整備しても、我々が日常的に使う言葉の曖昧な共有ぶりを払拭しきれないと気づく。
したがって、前期的な“論理最大化→残余は沈黙”という区切り方には限界がある、とよりはっきり認識している。
3-2. 要素命題の組み合わせという図式 vs. 実際の多義性・共同体性
以前:
彼は「モノは単純、要素命題も単純。組み合わせで複合命題ができる」と受け止めつつ、「本当にそんな単純分解が可能なのか?」と首をひねっていた。
しかし『論考』の狙いが「世界を論理的に細分化して把握する」ことにあるので、とりあえず肯定的に追走。
今:
『探究』を経ると、「そもそも言語ゲームにおける“要素”の捉え方は人によって、文化によって多様であり、“絶対的要素命題”のようなものが共有されるとは限らない」と実感。
つまり、「要素命題がある前提」で議論を進める『論考』的態度は前期特有の仮定であり、後期では言語の実践がこんなに複雑なら要素命題という概念も相対化されると思うようになった。
3-3. 自我の問題:主体を世界から排除→言語ゲームでは共同体が前提
以前:
『論考』5章あたりで「主体は世界に属さない、世界の限界だ」と書かれ、彼は「やはりヴィトゲンシュタインは自我を厳密な論理空間に入れないんだな」と気づいている。
当時の彼は「これにより神との断絶や、独我論の匂いが強い」と感じつつ、「なるほど、徹底排除したのか」とある程度納得していた。
今:
後期『探究』では、主体抜きに論理空間を論じることが不十分であるどころか、実際は言語ゲームこそが主体間の合意・参加によって成立していると知る。
結果、彼自身も「前期のように主体を論理空間から外して終わりにする」態度では収まらず、むしろ「わからないまま共同体のゲームに参加する」という姿勢をとらざるを得ないと深く理解。
3-4. 沈黙の意味の変容:排除する沈黙 vs. 運用する沈黙
以前:
5章終盤は「語り得ないものをひたすら切り捨て、言語化できる部分=論理空間を最大化する」前期ヴィトゲンシュタインの帰結に近い。
彼も「そんなに突き詰めても結局は“神”や“自我”については沈黙しろ、なのだろう」と感じ、哀しさや諦めをにじませている。
今:
後期の視点からすると、「沈黙せねばならない」部分は確かにあるものの、それを切り捨てるのではなく、**言語ゲームで実際に曖昧さを内在させながら“わからないまま扱っている”**ことを認める方向へ進む。
彼自身、「やはり沈黙が最終結論」ではあるけれども、その沈黙には「わからなさをむしろ活用する」コミュニケーションの味わいがある、と知る。
4. 総合評価:第5章当時の思考から現在への変容
当時の姿勢
論理空間を完璧に分析すれば、語り得るものを最大化できる
彼は『論考』5章で示される要素命題の真理関数や確率、真偽判定の仕組みを「とにかく理屈として追っていけば、誤読なく“真に語れる世界”を描けるのでは」と見ていた。
主体は論理空間に入らない、神など語れない→沈黙
「自我や神は語り得ない」と前期ヴィトゲンシュタインが暗に示す展開を、「独我論のようでありながら、実質は排除」「語れないものは仕方ない」と受け取っている。
老荘や五蘊との比較で直感的納得
彼は終始、東洋哲学の“わけのわからなさ”と『論考』の“沈黙”をオーバーラップさせており、「これがヴィトゲンシュタインの面倒な論理展開か…」と苦笑しつつ一応肯定するスタイルだった。
『探究』後の現在
論理による“最大化”モデルだけでなく、言語ゲームの曖昧さを実感
後期ヴィトゲンシュタインが語る「他者との合意形成が、曖昧な共有を伴う」という視点が強調され、彼自身「単に要素命題を組み合わせて真理値表を作るだけでは、実際のコミュニケーションは説明しきれない」と確信。
主体・自我を排除できない:共同体の視点の不可避性
前期が「主体を世界の境界」として事実上棚上げしたのに対し、後期は「私と他者がわけの分からないまま言語を共有する」現実を取り扱う。
彼も「老荘的“わからなさ”に、より言語ゲーム的な共同次元を乗せる必要がある」と理解を深めた。
沈黙の意味が“切り捨て”から“抱え持つ”へ
彼は「語り得ないものには沈黙する」結論が同じでも、その沈黙を活用しつつコミュニケーションしている言語ゲームのあり方を受けとめ、以前より多層的な理解に至った。
5. 結論:第5章当時のノートの意義と変容
当時
前期的ヴィトゲンシュタインの論理モデル(要素命題→真理関数→複合命題)を理屈として納得する一方、その徹底ぶりに息切れ。
「世界」は論理空間として分解可能だが、主体や神のような“語れぬもの”は沈黙するしかない、とやや割り切っている。
老荘や五蘊に似ている要素を見て安心しつつも、まだ「他者との共有」視点は浅い。
今
後期『探究』で言語ゲームの実際を学び、単なる二値論理だけで片づかない曖昧さに気づく。
「語り得ないものを排除する沈黙」ではなく、「語り得ない領域を含んだまま運用する」言語観に移行。
老荘や五蘊の“わからない部分”との共通性を、より実践的(他者と不可解に共有してしまう)レベルで認めるようになった。
このように、当時の彼は『論考』第5章に示される偏執的な論理構造を「正直わからないが、いずれ語りうるものを最大化するための苦労」として受け止めていたと評価できます。一方、後期ヴィトゲンシュタイン(『探究』)を経験した今では、論理的厳密化を頑張っても、言語ゲームに内在する曖昧さ・わからなさを取り除くことは不可能だと実感し、“わからないまま言語を使う”態度を深く肯定するほうへと思想が変容していると言えるでしょう。
○6
以下では、「彼」が『論理哲学論考』第6章に挑戦し、ほぼギブアップしながらも読み進めたノートを整理し、その当時の思考スタイル・哲学的アスペクトをまとめます。そのうえで、すでに『哲学探究』など後期ヴィトゲンシュタインも読んだ現在から見て、どのように変化・発展したかを評価します。
1. 第6章を読んだ当時のノートの整理
1-1. 6.0~6.1:論理命題のトートロジー性と「超越的」論理
6.0付近:数学や整数の話が突如出てきてパニック
彼は「論理=自明・偏執的構造」の究極形としてヴィトゲンシュタインが論じる場面に直面し、
- なぜ急に数字の話?
- 何を証明したいのか?
と混乱。
古田徹也氏など解説書がほぼカットする部分で、「結局ここも“論理がどれだけ自明か”を強調しているだけ」と苦し紛れに推測している。
6.1「論理命題はトートロジー」
論理命題が「論理空間をすべて肯定する」形となり、それは必然的にトートロジーになるというのが『論考』の議論。
しかし彼には「それがどうしてそんなに重要なのか」ピンとこず、「要素命題を全部真とするならそりゃトートロジーになるだろうが……」と、論理学の素養不足で理解が追いつかない。
6.13あたりの「論理は教義ではなく世界を反映する」
彼は「要するに、世界のありよう(論理空間)がそのまま“論理”として自ずと現れているから、人間がどうこうできるものではない、という宣言なのか?」と解釈している。
“論理定数”を造語しているように見えるヴィトゲンシュタインの独特な態度に「お前が勝手に語彙を定義してるから分かりづらい…」と苛立ち。
1-2. 6.2:数学や計算への言及
「数学は確実、命題は確実ではない」の違いをどう説明?
彼は「ここでヴィトゲンシュタインは、数学が“変項”を数字に置き換えたものだとみなし、それを命題の論理構造と対比させようとしている」と理解する。
しかし「数学は確実性を持つが、命題は世界との照合を必要とするかぎり必ず真/偽の検証を要する」という点で、話がすっきり繫がらずに戸惑いが強い。
1-3. 6.3:論理の外は偶然、自然法則も外的
論理(内的必然性) vs. 物理(外的偶然)
「ニュートン力学などは“世界を記述する1つの方法”にすぎず、論理とは違って可変的・偶然的だ」と読むが、彼は「ここまで来てまだ論理と自然法則を区別する話を繰り返すの?」と苛立ち。
ここにも「形而上学的なことは一切語り得ない」暗示を感じ取り、疲弊感が高まる。
1-4. 6.36~6.4あたり:因果律・神・倫理への言及
形而上のテーマ(神・倫理)は語れない
6.36付近で「すべては現象としてしか語れず、真に内側を把握したり、外側(神や価値)を把握したりはできない」という結論の繰り返しに見えて、彼は「結局“語り得ない”をまた強調するのか」と認識。
もはや「2.0や3.0で散々聞いた話」と思いつつ、最後に「倫理」「神」の話が登場し、やっぱり断絶が示される点は興味深いと感じる。
1-5. 6.5:すべては「沈黙」への準備
最終盤、もうすぐ7の「沈黙」
彼は「やはり最後は“沈黙”に行き着くな……」と悟り、読書メモでも「ここまで論理を積み上げた結果、『結局答えのないものをあれこれ語る意味なし』で終わりそうだ」と書いている。
「でもこの天才ぶりが圧倒的すぎて、読んでも分からない」とギブアップ寸前。「全章読んだけど、ぐちゃぐちゃに疲弊している」という状態がうかがえる。
2. 当時の彼の「哲学的アスペクト」の特徴
「論理空間=自明なもの」への執拗な反復に嫌気
彼は「ヴィトゲンシュタインがなぜこれほど繰り返し論じ、偏執的に理詰めを行うのか理解できない」と感じつつ、それでも「これは形而上学を封じるための徹底作業なのだろう」と推測。
神・倫理が最後に出てきても結局断絶へ
彼は「本書では神や倫理は語り得ないと説かれる」、つまり宗教や価値を論理空間の内側には決して置かず、沈黙するしかないという点を強く読み取っている。
同時に「しかしこれがヨーロッパ文化圏のキリスト教的人々に与える衝撃はいかほどか……」と推察し、ヴィトゲンシュタイン個人の“孤独”を感じ取っている。
荘子や老荘との関連:やっぱり似ている
例によって「語れないものには沈黙せよ」を荘子・老子の断定的放置と重ね合わせ、「東洋は短く、ヴィトゲンシュタインは偏執的に長く語るだけ」と笑いつつ、その相似を再確認している。
沈黙への覚悟と苛立ち
もう“語れる部分はすべて語ったのだから、後は沈黙しかない”というラストの流れを感じながら、頭では納得しつつ、感情的には「何だったんだ、この膨大な理屈は……」と呆れ半分。
しかし同時に「やはりここまで丁寧に積み上げることで、形而上を語ることの無意味さを痛烈に体感させたいんだな」と察している。
3. 『哲学探究』後の視点から見る変容・評価
形而上の完全封鎖→言語ゲームで不可解さを扱う方向へ
当時: 『論考』は形而上をすべて切り落とし、“語り得ぬものには沈黙せよ”で締める。神・倫理・自我などは決して論理空間の内側に置かない。
今: 『探究』では「わからない内面」や「他者の主観」を言語ゲームがどう扱うかを深く検討している。
後期ヴィトゲンシュタインは形而上の話題を単に排除するのでなく、“曖昧なまま使う”現実を重視。
彼自身も「単純に語れない領域を切り捨てる」のではなく、「言語ゲームはその領域を含んだまま運用してる」と気づいている。
神・倫理への態度:断絶 vs. “言葉にならぬ領域”を社会的に扱う
当時: 彼は「ヴィトゲンシュタインは神や倫理を語れない=断絶を確認したいだけ」と読み取り、そこに強い孤独感を感じていた。
今: 後期的視点だと、必ずしも「倫理や価値を語れない」だけでなく、「共同体の中で“価値語”がどのように使われているか」へも踏み込み得る。
つまり、「斬り捨て」より「わからなさを運用しながら語る」可能性に開かれ、彼の理解も“絶対的に断絶”から“曖昧に共有”へシフトしている。
“沈黙”の意味:切り捨て/諦め→他者との不可解さを抱えこむ
当時:
第6章を経て「結局は沈黙か……」と、やや徒労感を抱きながら理解していた。
論考が単純に“語る部分”と“語れない部分”をスパッと分割したかに見え、そこに連想する荘子の「不言」と同様に“あっさり否定”という印象が強かった。
今:
『探究』的には、沈黙する領域を含んだまま他者との言語ゲームを回していることこそが実情。「切り捨てて終わり」ではない動的アプローチに気づき、沈黙により深い積極性を認めている。
老荘との比較:単に同じという以上に、共同体や曖昧運用を見いだす
以前:
ひたすら「荘子や老荘が“分けるな、語るな”と先に言ってる!」と笑いつつ、それでも自分の連想に過ぎないと戒めていた。
今:
「語れないまま他者と曖昧に共有する」あり方に着目し、「荘子も同じ構造を黙して受け入れているのでは?」とさらに深いレベルで感じ取り始めている。
前期的“切り捨て”から後期的“曖昧に運用”へと移行したことで、老荘との関係もより円熟化したかたちで認識している。
4. 結論:第6章当時の思考と現在の変容
当時の第6章読書体験
「論理命題はトートロジー」「数学や因果律、神や倫理は語れない」といった議論にめげそうになり、まったく手応えを感じにくい。
「世界」は論理空間で描き尽くせるが、そこに主体や価値を持ち込むと沈黙しかない。
それでも「語れぬものには沈黙せよ」以外の結論はないと、一応理解(諦念まじり)。
現在:『探究』を経た視点
「沈黙」という結論は同じでも、単なる“語れない切り捨て”ではなく、“わからなさを抱えつつ運用する”のが人間の実態だと認識。
神や倫理をめぐる断絶に対して、言語ゲームの曖昧さ・実践的側面が注目され、「絶対的に論理空間外に捨てる」わけでもないモヤモヤを、後期の枠組みでこそ扱い得ると感じている。
老荘との対比も、「分割できない道=沈黙」から「曖昧を引き受ける共同体や実践」という解釈に一歩進んでいる。
最終的に、第6章では前期ヴィトゲンシュタインが「論理=世界を支配する必然」「主体や価値は語れない」ことを決定づける場面に当たるため、彼は大きな混乱と徒労を味わっていました。しかし、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲームに触れた今では、「沈黙」や「語り得ない部分」を排除ではなく、曖昧なまま社会的に運用するという視点を獲得し、当時感じた“切り捨て”感や“断絶”感とは異なる受容の仕方ができるようになっています。
○まとめ
以下では、彼(読者・筆者)が書き上げた「『論考』と既存の老荘・仏典思考とのマッシュアップ」のテキストをあらためて整理し、そのうえで、「『論考』→(『探究』も踏まえつつ)→筆者自身の現在の思考」へと展開した全体像を評価・総括します。結論としては、『論考』と老荘・仏典思想の驚くべき親和性、そしてヴィトゲンシュタインが示す“限界”を東洋哲学があっさり飛び越えているように見えることの面白さ、さらに「では自分はどう生き、どう書くか」という姿勢が明確になった点が大きいと言えそうです。
1. 彼のマッシュアップ・テキスト:概要とポイント
1-1. 「論考」と「斉物論(荘子)」の構図比較
『論考』最終結論:
語り得ぬものには、沈黙せねばならない【7】。
これを「世界→(主体)→思考→語り得るもの→語り得ないもの」という流れで再構成し、最終的に「形而上学を論じる営みは、いわば言語の限界を超えたノンセンスだ」とする見方を提示。
荘子斉物論における“悟られないもの”“分割できない道”
老荘や般若系仏教が示す「道」「空」もまた、人為的な分割ができず、語りたがる人間に対して「語ったところで実証などできぬし無駄だ」という姿勢を見せる。
したがって、両者とも“わからないもの”を抱えたまま結論を下し、あとは黙して生を営むほかないという大枠が重なる。
違い:ヴィトゲンシュタインが“世界の端”でひざまずく vs. 東洋哲学が“あっさり飛び越える”
筆者は「ヴィトゲンシュタインは論理を極限まで突き詰め、“そこから先は語れない”と感じ取って沈黙し祈るしかなくなる。一方、老荘は“何ならもう道のうちに飛び込みましたよ”と平然としている」と比較。
これは「西洋的厳密さ」と「東洋的飛躍」の鮮明な違いとして、ひとつの読みどころになっている。
1-2. 「世界」と「主体」の扱い
『論考』では主体の排除が徹底される
主体(我思う私)の扱いに関しては、「世界に含まれない、単なる境界」とされ、命題論の主眼には入らない。筆者はここに大きな衝撃を受けている。
しかし老荘的な立場では、主体を深く分析するより、世界と渾然一体であるがゆえに「分割して考えることをやめる」という方向に飛ぶ。「お前が主観を語ろうが語るまいが、全体が道である」とスパッと言われてしまう。
1-3. 「論理」の可視化と、その語り得なさ
「論理」を使って世界を語ろうとするのに、論理そのものは語り得ない
『論考』が示すパラドキシカルな点:論理は命題の“外”にあり、世界と命題の接続を保証するが、その論理自体を命題化することはできない。
筆者はここを「老荘における“道”や“真宰”も結局そうやって飛ばしてるよね?」とオーバーラップし、「結局、どちらも“言葉にならないが作用してる”ものを認める」と見る。
1-4. 神・倫理・形而上学の扱い
形而上(神・倫理)は語れない:断絶がある
『論考』では「神や倫理を含む形而上的命題は、世界に存在する事態との比較ができない。よって命題として成立せず、無意味」という結論へ向かう。
筆者は「これはヨーロッパ的には神との断絶を宣告するも同然で、ヴィトゲンシュタインはそれを苦悩したのでは?」と推測。
老荘や般若はここを「語れぬものをあっけらかんと放置、むしろ感得して突き抜ける」と見て、「論考」の末端にある孤独感と鮮やかな対照を見出す。
1-5. 最終的所感:「書くしかない」「生きづらそうな天才を惜しむ」
筆者の結論として、**「自分は何者かを書きたい人間だ。ならば、語り得ぬものを抱えながら、それでも書くしかない」**という実践的姿勢を改めて確認している。
同時に、ヴィトゲンシュタインが「人生を実践するしかない」とほのめかすように、「沈黙した先には祈りや受容しかない」という点で共感と寂しさを感じている。
2. ここから『探究』を踏まえた“現在”の変化
筆者は「『探究』についてはまとめる意義を感じない」と言いつつも、すでに後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム思想に触れ、**「わからないをわからないまま使う」**次元を体感している。そこで、下記の変化が見られます。
2-1. 沈黙=単なる切り捨てではなく、曖昧を共有する場へ
『論考』:沈黙するしかない
神や倫理、主体などは命題にならず「ノンセンス」。故に「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と言い捨てて終わる印象。
『探究』:曖昧な領域を“使いながら”言語ゲームが成立
後期ヴィトゲンシュタインは、**「わからぬものを排除するのではなく、共同体の中で曖昧さを含みつつ日々用いている」**現実を描く。
筆者自身、すでに「沈黙=カットアウト」ではなく「日常言語や実践の中で曖昧に維持されるもの」と再解釈しつつある。
2-2. 老荘との親和性:飛び越えているのか、それとも同じようにゲームを運用しているのか
かつての捉え方: 老荘は神秘を“簡潔に”飛び越え、『論考』は“偏執的論理”の末に沈黙して終わる。しかし結果は似通っている。
今の可能性:
後期ヴィトゲンシュタインを踏まえると、**「老荘の“飛び越える”というのも、実はコミュニティの言語運用や暗黙理解(わからなさの共有)が背景にある」**と見えなくもない。
ただし老荘がそれをあえて言語ゲームとして解き明かさないのは(東洋文化的に)そもそも過剰なメタ説明をしない姿勢があるため、と筆者は感じるようになった。
2-3. 「書くしかない」という意欲と、形而上の不在に対する態度
当時:形而上には絶望、しかし自分の執筆を続ける意志
筆者は『論考』を踏まえて「倫理や神を語っても仕方ない」と思いつつも、それでも書きたいという決断を下している。
現在:「わからないままでも書く」積極性
後期的視点では、わからない部分を含めた曖昧なコミュニケーションこそが現実だと分かるため、ますます「書いてしまえば良い」という開き直りが強まる。
沈黙の“外”にある知的営みを無駄とはしないで、むしろ曖昧・謎を抱え込みながら言葉を使うモードで創作・発信をする、というスタンスに発展可能。
3. 総合評価:筆者の思考・生き方への影響
論理による“語り得るもの”の限界を把握し、老荘・仏典がいう“超越”的飛躍を認識
『論考』を読了した時点で「すべての形而上学を言語から排除する過程」を体験し、それが斉物論や般若の“分割不能”思想と似ていると感じた。
後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム観にも触れることで、そこには単純な“排除”ではなく、人間が不可解なまま共同作業として言語を用いる仕掛けがあると知り、さらに一段深い理解に至った。
沈黙の姿勢:前期的“切り捨て”から後期的・東洋的“わからない活用”へ
筆者は当初、「ヴィトゲンシュタインは論理に徹底して神・倫理を排除した末、孤独に沈黙した」と捉え、そこに共感しつつも“苦さ”を感じた。
しかし今や“共同体の言語ゲームで曖昧を抱え込む”という後期的・東洋的気づきによって、沈黙が単なる拒否でなく、**“語り得ないまま感じ取り、行動に移す”**アクションであることが見えている。
書くしかない:やはり筆者は“何かを書きたい人間”
最終的に、**「言語には限界があるが、それでも書くという行為が必要かつ有意義」**という方向へ姿勢を固める。
これは老荘流に「結局生を全うするしかない」と似ており、同時に後期ヴィトゲンシュタイン流に「わからないまま言葉を使う生活に開き直る」とも繋がっている。
4. まとめと今後への展望
本稿(マッシュアップ)全体の要旨
『論考』が説く「語り得ないものには沈黙せよ」に、老荘や仏典の飛躍を重ね合わせ、西洋的徹底分析 vs. 東洋的飛び越えの対照を見出す。
しかし後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」観を併せ読むと、実は老荘的な“わからないまま使う”構造とそれほど相反しない可能性があると分かる。
最終的に筆者は「生きづらそうな天才・ヴィトゲンシュタインが提示した世界の限界」に呆れつつも、そこから先をどう飛躍するかは自分で決めるしかない、と結論し、「だから自分は書く」と実践の方向を確認する。
評価
このまとめは、『論考』の厳密な論理展開を(正直、理解しきれなくても)追ったことで、“語り得るもの”をめいっぱい整理した末に“語り得ない領域”へ至る感覚を実地で味わったことが大きな収穫。
他方、老荘や仏典の「先に到達しちゃってる」感じとの比較が、筆者にとって『論考』をより深く腑に落ちさせた。
さらに、『探究』で明らかになる言語ゲームの曖昧さ・共同性を含むと、「沈黙」にまつわる意味が一層多層的になり、単なる断絶から「わからないを共有する生活」への転換が見えてきたと考えられる。
今後の方向性
「わからない」で終わらず、“実践や創作”に進む
筆者は「自分は書く人間」と言い切り、抽象哲学で空論を続けるのでなく、「実際の作品や文章で世界を示す」方向へ動く。
老荘や仏典との対比をさらに深める
「東洋的飛躍」と「後期ヴィトゲンシュタイン」の言語ゲームとの詳細な擦り合わせを進めると、沈黙の意味や共同体の形成論まで掘り下げられる可能性がある。
沈黙の運用:排除か包含か
「語り得ぬものは排除」だった『論考』的モデルに対し、「曖昧なものを運用」する『探究』的モデルや東洋哲学の“あっさり使ってしまう”姿勢をどう共存させるか、引き続き考察の余地がありそう。
本稿の意義は、前期ヴィトゲンシュタイン(論考)と東洋哲学を“自分の哲学的素養・生き方”に統合しようと試みた点にあります。結局は「論考」を徹底的に読み込んでも“語れないもの”が残る事態は変わらず、彼はそこに老荘の飛躍、仏典の空観を結びつけ、“飛び越え方”や“わからぬままの日常”を複数の観点から再検討している。
そして、「自分が何を書くか、どう生きるか」という姿勢へ最後に帰結する流れは、まさに後期ヴィトゲンシュタインが“実践や生活形式こそが言語の本質”と説くのと相響き、また荘子が“道理の追究”と同時に“日常の楽しみ”を説いた精神にも重なります。こうして、筆者の“ファーストコンタクト”が完結し、新たな出発点としての執筆意欲が高まるのはごく自然と言えるでしょう。
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