後編

 ご主人さまの言葉が聞き取れた。

 ボクのことを「化け猫」と言った。

 まるで汚らわしいものを見るような目だった。

 その眼光にボクは射すくめられて、座り込んだままひと鳴きもできない。


 そうだ。

 尻尾が二本なのは、前に猫友だちから聞いたことがある。

 猫又だ。

 長く生きた猫が変化する姿。

 まさしく化け猫。

 それで人間の話す言葉がわかるようになったんだ。

 ボクはいったい何十年、この建物で眠っていたんだろう。

 子どもだったのが今や立派な大人のご主人さまは、ボクを見下ろしている。ボクの出方をうかがっているようにも見える。

 油断した隙に襲ってくるかもしれないと、警戒しているんだ。

 元は飼い猫だったボクに気づかずに。

 ボクはもうここにはいないほうがよさそうだ。

 お別れなんだ。

 決断ができなくてボクは行き場に迷いながらくるくる回っていた。視界の端に入る二本の尻尾がわずらわしい。

 この尻尾がなければ、化け猫なんかじゃなかったのに。

 ボクはぐっと歯をかみしめると、敷地の外へと一目散に駆けた。


 ご主人さまのつぶやく声が背後から聞こえてきた。


「隔離されていた街に、一匹だけいる化け猫……その回る癖、お前はにゃこなのか……?」



 ボクはにゃこと呼ばれていた。

 もうこれからずっとひとりぼっちのボクには、関係のない名前だ。

 走る、走る、走る。

 行き場もなく、鳴きそうになるのを我慢しながら疾走する。

 疲れ知らずのこの体が恨めしい。

 聴覚も鋭くなったみたいで、この人のいない街じゃ少し遠くに行ったところでご主人さまの声は聞き取れてしまった。

 ご主人さまは、苦しみに嘆くような喋り方をしていた。


「にゃこ、コールドスリープから目覚めたんだな。予定していた通りの日に起きるとは」


「他はすべて眠りながら死んでしまったのに、にゃこだけが生き延びたのは幸運だったのか……?」


「会えるかもしれないと思い、反対を押し切って街に入ったのは正解だった」


「この街は、今後も無人のままだろう。病は終息しても、人は戻らない」


「にゃこを街に残すわけにはいかない。探しに行かないと」


 車の走り出す重低音が聞こえてきた。

 でも、今やボクは車のスピードに負けないくらい速く走ることができた。

 夜闇が街を覆っていく。

 あと少しの間追いかけっこを続けていれば、ご主人さまもさすがに諦めるだろう。

 化け猫と一緒に暮らすなんて、周りから変な噂も立てられるだろうし、ご主人さまがかわいそうだ。



 街灯のつかない街は太陽が完全に沈んだら真っ暗になる。

 ボクはかつてご主人さまが住んでいた家の跡地に戻ってきていた。

 時が経ったことで土地勘もなくなってしまい、安心できる場所も思いつかなかった。

 瓦礫の山の陰になるところに身を潜め、ボクは丸くなった。

 勝手に逃げてきたくせに、心境はほとんど捨てられた猫だった。


 あの頃みたいに。

 

 ボクは目を閉じた。

 起きたら時間が戻っていて、ボクは化け猫じゃない普通の猫で、ご主人さまと布団の上でゴロゴロし合う穏やかな毎日がやってくる、奇跡を祈った。




 ボクはぬくもりを感じて、目覚めた。

 太陽が昇る前の薄明かりが、誰もいない街を包んでいた。

 体に何か温かいものがかけられていた。

 このにおいは、ご主人さまだ。

 ボクは跳ね起きた。

 見つかっていたみたいだ。

 でも、車に入れられたりどこかに連れていかれたりしていないのは、ボクが逃げ出したことを尊重しているからなんだろう。

 無理やりなことを嫌う人間だったから。

 ボクの体を温めているのは、ご主人さまの着ていた防寒具だった。

 服の生地に程よい弾力があって、まるでかつてじゃれ合いをしたときのソファーの感触みたいだ。

 ボクは途端に切なくなった。鳴きそうになるのを耐えた。

 ご主人さまを呼びたくて仕方なかった。

 ぐっとうつむくと、足元にはらりと一枚の紙が落ちていた。

 顔を近づけると、人間の言葉が並んでいた。

 猫又は言葉を聞き取ることはできても、言葉を読むことはできないみたいだ。

 きっとご主人さまは、読めることを期待してメッセージを残し、ボクの意思を確かめる心づもりだったんだろう。

 でも、わからないや。

 ここで待ち合わせをしようとか、

 食べ物はここに集まってるよとか、

 寒さをしのぐにはここがいいよとか、

 丁寧に書かれているのかもしれないけれど、ぜんぜん読めない。


 ご主人さまは、ボクのことを信頼しすぎている。

 そして誤解している。

 本当は。

 この体を抱きかかえて、強引に連れて帰ってもよかったんだよ。

 きっと大人しくなって従ったよ。

 ボクはふっと振り向いて、自分の二本の尻尾を見る。

 生き延びて、猫又になんかなりたくなかった。

 無意味に眠り続けて年を取っただけで、ボクは変わらずただの小さな猫なんだ。

 今だって、ひとりぼっちがつらくて悲しくて鳴き出したいのを我慢しているくらいなのに。

 この苦しみは命が尽きるまでずっと続くんだろう。

 ご主人さまがこの場所に戻ってくる可能性はたぶん少ないから。

 ここは隔離された街だと言っていたから。



 ボクは座り込んで丸まる。

 苛まれ続ける心の場所を隠すように。

 このまま小さくなって消えてしまいたいくらいだった。

 けれど、これでよかったんだとも思う。

 体が温かいと思って、そっと顔を上げれば、昇り始めた太陽の陽射しがボクを照らしている。

 夜明けだ。

 傍に置いてあるご主人さまのにおいがついた服に全身で潜り込むと、ボクは顔をこすりつける。


 ……さよなら、ご主人さま。


 届かない声でボクは鳴いた。

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コールドスリープねこ さなこばと @kobato37

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