中編

 かつてご主人さまの家があって、今は空き地になっている場所を、ボクはゆっくりと行ったり来たりしていた。

 ご主人さまはどこに行ったんだろう。

 この街が無残なくらいに形を崩して、人影がまったく見当たらないことと関係しているのだろうか。

 寂しい空き地の真ん中で、ボクは痕跡を探そうと鼻に意識を集中していた。

 しばらく目を閉じていて、暗闇の中で、ボクは見つけた。

 右の方向から人のにおいがかすかにする……。

 ご主人さまかどうかは自信がない。

 それでも、そうかもしれないというのは希望だ。

 ボクはまばたきを何回かすると、スッと立ち上がった。

 そして再び右回りに歩き出し、うっすらとただようにおいをたどり始めた。



 二本になった尻尾を揺らし、ボクはまた駆けた。

 においは少しずつ強まっている気がする。

 人間に近づいているそれだけじゃなく、嗅覚が敏感になっている気がする。

 このにおい、もしかしたら。

 もしかしなくても、これはご主人さまのにおいだ!

 温かな思い出が溢れるようで心強く、ボクは走るスピードを上げていく。


 ご主人さまは外と中を頻繁に行き来する生活を送っていた。

 でもボクと遊ぶのはいつも家の中。だから生活感のあるにおいに近い、守られているような落ち着くにおいがご主人さまのにおいだった。

 いつも安心感がとてつもない家。

 そこのふわふわのソファーや布団の上で、ボクとご主人さまはよくじゃれ合っていた。

 ボクが自分の尻尾に気を取られてくるくる回っているのを見ると、いつも笑いながら背中を撫でてくれて。

 ボクが体によじ登ると、ご主人さまは何か悲鳴のような声を上げながらボクの脇に手を入れて抱き上げてくれた。ボクの爪が刺さっても怒らないのは、住んでいる家ではご主人さまだけだった。

 すごく優しい人間だったんだ。


 ボクを拾ってくれたのもご主人さまだった。



 死にかけて路上で伏していたのは、思い出したくない記憶。

 ボクは道端に捨てられていた。

 まだ生まれて一年も経たない頃。

 たくさんいる兄弟たちから、ひとりだけ取り除かれた、いらない子だった。

 ひとりぼっちで、諦めの気持ちが心の中で膨れ上がっていて、命が消えるのを待つしかなかった。

 街の灯りも弱々しい夜。

 意識が遠のいていて、もう終わりかと目も開けられなくて。


 気づけばボクはご主人さまの腕の中にいた。

 現実感がないくらい温かくて、一瞬死んだのかと思ったほどで――ああ救われたんだと思ったんだ。



 ボクはにおいを頼りに右回りに走った結果、最初に目が覚めた建物に戻ってきていた。

 ここを出たときには夕陽が差し込んでいた。

 今は日も陰り薄闇が広がりつつある。

 早くご主人さまに会いたい。

 建物の敷地内に入ったところで、ボクは小走りに変えて周りを注意深く見渡し始めた。

 ご主人さまのにおいは建物の中に続いていた。

 どうやら何かの用があって、こんな廃墟みたいな惨状のところへ訪ねてきたらしい。

 出入口の付近をうろうろしていると、周囲に浮いてきれいな見た目の車が一台だけ停まっていた。どこからか来たばかりの車なのは一目瞭然だ。

 この車はご主人さまのものに違いない。

 車内を見たくなってボクはボンネットに飛び乗った。

 トンと軽やかに乗ったボクの足は、少し沈んだ。ボンネットがへこんだのだ。

 軽く触れた窓ガラスが割れたこともそうだったけど、ボクの力が変に強くなっているように感じる。

 これ、なんなんだろう。

 と、そんなことよりご主人さまだ。

 ボクは建物に入ろうと、車から飛び降りて開け放たれた扉に近づいていく。


 その扉から大人の人間がゆっくりと出てきた。


 ご主人さまのにおいがする人間だ。


 ついに会えたんだ!

 ご主人さま、いつのまにか子どもじゃなくなっているけど、そんなことは取るに足らない小さなことだ。

 ボクは駆け出した。

 目の前で立ち止まるご主人さま。すごく驚いた顔をしている。


 ボクは勢いをつけたまま胸元に飛び込んだ。

 その温かな腕の中に入ろうと思った。

 願いは叶った。

 でも、望んだかたちじゃなかった。


 ご主人さまは顔をゆがめて、後方に尻もちをついた。

 息が止まったように苦しそうに、体を細かに震えさせたあと、ひどくせき込みだした。

 そして。


 ボクの体を強引な手つきで掴むと、乱暴に引きはがして投げ飛ばした。


 ボクは拒絶された。

 そう思った。


 目に涙をうるませながら、キッとした目つきでにらみつけてくるご主人さまに、ボクは身動きできないまま困惑していた。

 ご主人さまは


「化け猫だ」


 まるで吐き捨てるような言い方だった。

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