第29話:「月のきれいな夜ですね」

 日が山の向こうに傾き、薄暗くなったころ、一日の移動が終わった。

 山の入り口、というような丘で、見晴らしのいい、開けた場所だった。それなりに手入れのされた小屋もあった。岩場には、以前、薬草採集の仕事のときに見たような、崖の途中からあふれてくる滝があった。みんな滝のそばまで行って、水を汲んだり、騎獣に水を飲ませたりしている。


「休むのに都合がいい場所だって? 当然だろう、ここはそのための場所だ。ここから先は峠道だ。個人ならともかく、こういう大所帯では厳しい道のりになるからな。ここでしっかり休憩して、峠道をできるだけ急いで抜ける。そのための場所だ」


 さすがデュクス、こういう知識も頼りになる。

 ただ、街を出てからここまで、前に騎鳥シェーンで一日移動した距離よりも、ずっと短い距離だったと思う。やはり身軽な行動ができる個人の移動よりも、こういう大集団の移動というのは時間がかかるんだろう。


「そりゃそうだ。何回小休止をしたと思っているんだ?」


 デュクスが笑いながらカップを差し出してきた。


「だからこそ護衛が必要なんだ。どうしても足が遅くなるから、タチの悪いヤツに狙われやすい。で、それを利用して、オレたちが顔を売るってわけだ」

「利用してって……」

「事実だろう?」


 湯気を立てるカップを受け取って、一口飲む。ただの白湯さゆだけど、緊張した一日をほぐすには、優しく感じられた。


「……みんな、あれ、なにを入れてるんだろう?」

「あれか? ありゃあブランデーだ。湯で割って飲んでいるんだよ」

「お酒? 仕事中にいいのか?」

「あん? むしろなんでダメだと思うんだ?」


 なるほど。

 なんか昔は衛生的な水が手に入れにくかったとか栄養があるとかで、エジプトあたりだとビールが飲料水代わりだったって世界史の先生が言っていた気がする。そういうものなのかもしれない。


 でも、自分の父親が酒で醜態をさらしていたのを思えば、とても酒なんて飲みたいとは思えない。緊急事態でもない限り、たぶん俺は飲まないし、飲もうとも思わない。今後も飲まないだろう。


「ええと、……じゃあ、シェリィの分の湯はないのか?」

「そりゃ、お前さんが手に入れて何とかするしかあるまいよ。悪いが、従属者セルブにわざわざ湯を支給するとは思えんな」


 デュクスの言葉に、そういったことを知らないで、ただ連れ歩けるからという軽い気持ちで彼女に「従属者セルブ」の刻印入りの首輪をつけさせてしまったことを、少し後悔した。彼女は獣人族ベスティリングで、ただでさえ扱いが悪いのに。


 シェリィは小首をかしげて俺を見上げる。特に気にしている様子はない。でも、俺だけが白湯さゆをもらえて、彼女にはないというのはひどく居心地悪く感じて、俺は中身を半分ほど飲んだカップを、シェリィに渡した。


「……ご主人、さま……?」


 シェリィが、受け取ったカップを両手で持ち、目を真ん丸に見開いて、何度も俺とカップを見比べている。


「ごめん、なんかシェリィにはもらえないみたいだからさ。飲んでいいよ。俺が口をつけたのはここだから……」


 後ろからデュクスが、「またそういうことをする」とあきれた様子でつぶやいたけれど、シェリィは大事な俺の相棒なんだ。悪いことじゃないだろう?


 シェリィはきょろきょろと周りを見て、カップを見て、俺を見て、また周りを見て、ひどく落ち着かない様子で、「ほ、ほんとに、ボク、もらっていいの……?」と聞いてきたけれど、俺は笑顔で「当然だろ」と答える。


「あ……う……ご、ご主人さま……ボク、ボク……!」


 しどろもどろになって、シェリィはうつむき、けれどちびちびと、白湯さゆを飲み始めた。うつむいたままじゃ飲みにくいだろうと思って声を掛けようとしたけれど、シェリィの奴、俺と同じ場所に口をつけて飲んでいることに気が付いたんだ。


 カップを渡したときは確かに反対に向けたし、俺が口をつけた場所も教えたのだから、間違えたとかそういうことはないはずだ。つまりシェリィは、わざわざカップを半回転させて、俺が飲んだ場所に重ねるようにして、口をつけたことになる。


 なんだか妙に気恥ずかしくなって、なにも言わずにただ、暗くなっていく夕焼け空を眺めるしかなかった。




「月が綺麗だな」

「ご主人さまは、お月さま、好きなの?」

「綺麗なのはいいことだと思う」

「ボクもすき!」


 見張りの場所に、俺はシェリィと二人で立っていた。これでも一応、一人で見張りをしようと思っていたんだ。だけど、まだ冒険者として半人前な俺のバックアップとして、彼女も一緒に見張りに立つように、デュクスから言われたんだ。確かに、シェリィの耳は信頼できる。狼と戦ったときも、奴らの陽動と背後からの奇襲を見破ったくらいだからな。


 この丘はもともとは森だったらしいのだけど、周辺の木をすべて切り倒して、見晴らし良くしたらしい。こうすることで、魔獣の徘徊する暗い森から、何かが近づいてきてもよくわかる見晴らしのよい場所になったということだ。

 おかげで、今夜は星と月が美しい夜空を眺めることができる。


「ね、ご主人さまは、どのお月さまがすき? ボク、銀のお月さま!」

「……そうだなあ……」


 夜の空には青い月、銀の月、赤い月が煌々と輝いている。地球の月に近いのは、銀の月だろうか。見える模様は全く違うけれど、サイズ感、明るさ、色、それらがもっとも近いのは、銀の月に思えた。


「……そうだな、どれを、と聞かれたら、銀の月、だな」

「ほんと? わふ、おそろい、おそろい!」


 耳をぱたぱたと動かし、しっぽをばっさばさと揺らす。うれしそうな仕草が、可愛い。

 そのしっぽは、「かざり」という、レースの布で覆われている。見えるのは、先端の10センチメートル程度。どうも、この世界では獣人の女性はしっぽを布で覆って見えないようにするのがマナーらしい。ふわふわふかふかなのがいいのに、残念だ。


「それにしても、月ってばらばらな場所にあるんだな。そろったりする日はあるのか?」

「あるよ?」


 シェリィの話だと、月に一度、三つの月が中天にそろうタイミングの夜があるらしい。そういう日を「藍月らんげつの夜」というそうだ。あと五日ほどだという。


「そうなのか。初めて見るな、そういうのは。その日は晴れてくれたらいいな」

「……ご主人さま、お月さま、見たことないの?」


 首をかしげるシェリィ。

 ……しまった。この世界の住人は、三つの月がそろう日が来たって、それは当たり前のことなんだ。


「……いや、うん、まあその……綺麗な月がそろうのは、見てて気分がいいだろ? その……そういうものを、俺たちが一緒に見るのは初めてって意味で……」


 シェリィは、じっと俺を見つめていた。

 変な言い訳をしたせいだろうか、妙に後ろめたい。

 嘘は言っていないぞ、嘘は。

 でも、月が綺麗って言い回し、なんかあった気がする。なんだったっけ。


 それにしても、静かな夜だ。パチパチと燃えるたき火の音、小さな滝から響く水音以外は、風が時折揺らす茂みのざわめきくらいしか聞こえない。みんな、もうすっかり寝入っていて、人が立てる音と言えば、見張りの男たちが時折歩く足音くらいだ。

 おかげで気まずさも倍増だよ!


「わふ……」


 そんな俺の心を知ってか知らずか、シェリィは微笑むと、くるりと背を向けた。そして、空を見上げる。


「ボクも、ご主人さまと藍月の夜、過ごしたい。一晩、ずっと、いっしょに……」

「おいおい、その言い方、なんだか俺がシェリィを追い出すみたいな言い方じゃないか」

「ボクそんなこと、言ってないもん」


 シェリィが振り返って、頬を膨らませる。


「藍月の夜は、特別な……」


 シェリィが何かを言いかけたとき、突然、背後から声を掛けられた。


「カズマ、ご苦労さん」


 デュクスだった。俺が交代する時に起こすはずだったのに、起こしに行く前に起きてきたのだ。


「見張りの交代だ。寝ていいぞ」

「……え? あ、ああ。ありがとう」

「なんだ? 忙しかったのか?」

「いや、暇だったよ。見張りで忙しいなんて、どうせろくでもないときなんだろ?」

「よく分かっているな。そうだ、護衛の仕事なんて給料泥棒と言われるくらいに、何事もなく済むのが一番だ」


 笑いながらデュクスは、腰の布袋から何かの木の葉を取り出すと、それを口にくわえた。ぱっと見は、ツバキか何かの葉っぱに見える。


「それは?」

「『シオシエの葉』さ。眠気覚ましにいいんだ」


 そう言って手をひらひらさせると、「そこのおチビちゃんと一緒に、とっとと寝てきな。明日はけっこう、大変なんだ」と笑った。昼間は、俺がシェリィと一緒にいることをあまりいい顔しなかったデュクスが、そんなことを言うなんて。


「どうせ何を言ったところで、ソイツに関してだけは、変わるとは思えなくなってな。好きにしろ。ただし、人に見られて困るようなことはすんなよ。ここはお前の宿じゃねえんだからな」


 どういう意味だよ、と心の中でつっこみつつ、俺はデュクスの言葉に甘えることにした。

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