第23話:星の光を宿した澄んだ目で

 夕方ごろ、小さな泉のほとりで、俺たちは食事の準備をしていた。

 泉といっても、崖の岩肌から染み出すようにした水が流れ落ちてきて、それが溜まって流れ出していく、というような感じだ。ただ、岩壁と、小さいながら綺麗な水をたたえた泉があるというのは、少なくとも囲まれにくいという利点があるらしい。


「逃げ道も一つ、失うがな」


 そう言って笑いながら、デュクスは火を起こす。

 彼はカバンから取り出した綿ぼこりみたいなものに対して、石を両手に持って打ち付けて火花を起こし、あっというまに火をつけてしまった。火打ち石というらしい。そういえば、昔の日本も同じように火を起こしていたと聞いた。


 俺は、拾ってきた枝を、火にくべやすいようにへし折りながら聞いてみた。


「壁があると、やっぱり安心なのか?」

「壁があるから安心というわけじゃないが、壁を上り下りできる肉食獣は、それほど多くないからな。この断崖なら、ヤギとかカモシカとかくらいじゃないか?」


 デュクスの話によると、ヤギやカモシカは、ほぼ垂直の壁でも、わずかなとっかかりだけを頼りに、平然と四本の脚と蹄だけで上り下りするそうだ。


「クマも壁や木を登るから万全ではないが、言い出したらきりがない。絶対に安全というわけじゃないが、安心を一つ担保できるってことだ」

「そんなことよりもだ。今も信じられん。あの追剥狼ベナトループが、ワシらを諦めるなんて」


 カバンの中からバゲットみたいなパンの塊を取り出したアバルが、鍋の湯のスープの中にそれを小さく砕いて入れながら、しみじみと言う。


「ワシも薬草取りをして長いんだが、あのあたりで追剥狼ベナトループに出くわしたことは無かった。だからこそ出くわしたことにも驚いたが、それ以上に、ヤツらが引いたことの方が驚きだよ。聞いたことがない」


 アバルの言葉に、「もともと何かの獲物を追ってここまでたどり着いたヤツに出くわしてしまったということも考えられるがな」と前置きをしたうえで、デュクスが続ける。


「たしかに、追剥狼ベナトループのしつこさは厄介だ。オレも、人里まで追いかけられたことがあったくらいだからな。だからこそ、ヤツらの行動範囲の中で獲物を諦めるってのは、聞いたことがない」


 アバルがパンを放り込んだ鍋をかき混ぜながら、デュクスは小さく笑った。


「案外、おチビちゃんの説得が効いたのかもな」

「わふ?」


 首をかしげるシェリィ。


「ボク、なにもしてないよ?」

「なにもしてない、っていうナニかをしたのかもなって話さ」


 デュクスの言葉に、ますます首を傾げて俺を見上げるシェリィの頭をなでてやりながら、俺は聞いてみた。


「ベルナトループってのは、そんなに厄介なのか?」

「……お前さん、今の話を聞いていなかったのか?」


 デュクスとアバルに、思いっきりため息をつかれた。

 悪かったな!


「想像してみるといい。動きを止めれば襲ってくる、動きを止めなくても襲ってくる。寝るってのは最大の危険な時間だ。一日中、ヤツらがオレたちを見張っていて、一日中、気が休まらない。気を抜いたら、待っているのは確実な死だ。こちらから打って出ても逃げる。そのくせ、こちらが疲弊してきたら容赦なく襲ってくる。そんなヤツらに、延々と付きまとわれるんだぞ?」


 はい、よく分かりました!




 岩壁から染み出している水がさらさらと零れ落ちる音は、はじめこそ気になっていたけれど、やがて慣れた。そうすると、あとは森の木々の切れ目から見える夜空の美しさが、世界を満たす。


「……まだ寝ないのか? オレが見張ってんだから、気にせず寝ろ」


 デュクスが、焚火の前で剣を磨きながら言う。


「明日は明日で、ほら、あの山まで登るって話だ。お前さん、登山の経験は?」

「……無い」

「崖道を歩くことになると、騎鳥シェーンの上には乗っていられない。騎鳥シェーンは手綱で引いて、オレたちも歩くことになる。だが万が一に備えて、武装だの食糧だのは、自分で背負うしかない。しっかり寝ておけ」


 デュクスの言葉に、俺はうなずくしかなかった。


「なに、気にするな。どうせ時間になったら、今度はお前さんが見張りの番だ。その時にしっかりと休ませてもらう。お互いさまだ」

「は、はい」


 俺は、薄い毛布の中に体を横たえる。隣では、シェリィがやはり毛布にくるまるようにして、丸くなっている。


「カズマ、ずっと考えていたんだが」


 寝ようとした俺に、デュクスがぽつりと言った。


「なんだ?」

「そのおチビちゃんのことだ」


 デュクスの目が、どこか、厳しい。


「……そいつは、本当に……」


 言いかけた彼は、けれどいつもの、どこかひょうひょうとした表情に戻った。


「……いや、なんでもない。なかなか鼻が利く、便利なヤツじゃないか。大事にしてやれよ」

「大事にしてるよ」


 言い返すと、デュクスは「そうだな、その通りだ」と笑った。




 トントン──肩を叩かれた感触で、目を覚ます。岸壁から染み出して小さな流れを作っている水音が、急に大きくなった気がした。

 

「起きろ。見張りの交代だ」


 デュクスの言葉で、自分がいま、どこで、なにをしていたのかを、寝ぼけた頭でようやく思い出す。


「これから夜明けまでだ」


 周りは、滝の音以外に何も聞こえない。夜空には月が三つ上がっていて、西の空の方に傾いている。静かな夜だ。


「いいか、なにか違和感を覚えたらすぐにオレを起こせ。違うかもしれないとか、自分で確かめようとか、そんなことは考えなくていいからな。とにかく、何かが来たと思ったらオレを叩き起こせ」

「わ、分かった」

「じゃあ、オレは寝る。あとは頼んだぜ、目が覚めたらクマの腹の中、なんてことにならないようにしてくれよ?」


 デュクスはそう言って俺の背中のばしばしとぶっ叩くと、崖にもたれかかるようにして、実にあっさりと寝入ってしまった。

 ……この人、めちゃくちゃ寝つきが早い! 一分もかからなかったんじゃないか⁉


 俺は枯れ枝を折って、たき火に放り込んだ。ちらちらと火の粉が舞い上がっていく。

 夜は冷える。まして山の中だ。地球だと、たしか標高100メートルで0.6度下がるんだったか。けっこう登ったし、それなりに下がっているのだろう。背中がぞくっとなって体を震わせ、もよおしてきたことを自覚して、ちょっと茂みに入った。


 戻ったあと、岩から流れ出す水でのどを潤す。確か日本のどこかでは、「白糸の滝」といって、岩壁から突然水があふれだしている滝があるんだったっけ。それに似ている。冷たい水が、頭をシャキッとさせてくれる。


 戻ると、シェリィが俺の据わっていた場所にうずくまるようにしていた。


「なんだ、シェリィ。起きてたのか」

「ご主人さま……」


 シェリィは顔を上げて俺を見上げた。俺は自分の毛布を取って来ると、シェリィの隣に座る。


「眠れないのか?」

「ご主人さまが、ボクのそばからいなくなってたから」


 そう言って身を寄せてくる彼女ごと、毛布を羽織った。

 肌寒い夜だけど、こうして焚火の前でシェリィと一緒にいると、あたたかい。


 しばらく一緒になって、三つの月が浮かぶ夜空を見上げていた。

 何を話せばいいか分からず、ただ、黙って眺めていた。


 俺の話せる内容なんて、この世界に来てから何日かのものしかない。話せることがほとんど何もなく、俺の体験は、そのまま彼女と過ごした時間のすべてだ。


 シェリィはシェリィで、森の中での、彼女の家族の話くらいしかないだろうし、それを話すということは、彼女にとって、虐殺によって失われた家族のことを思い出さなきゃならないということになる。


 だから、なにも話すことがないのも当然だった。

 正直に言って、非常に気まずかった。


 ……はずだった。


「どしたの、ご主人さま」


 俺の肩に頬ずりするように、なんだかうれしそうな彼女。


「……いや、べつに」

「はふ……ご主人さま、あったかい。いいにおい……」


 そう言って、においを嗅いでくる。ちょっと待ってくれ、今日は風呂も水浴びもしてないんだ──そう言ったけど、シェリィは不思議そうに首をかしげて、またすんすんと鼻を鳴らして、妙に幸せそうにしている。


 頭の上にある、金色の毛に覆われていて先が少し垂れている三角の耳。

 やはり金色のふかふかの毛に覆われた、長いしっぽ。

 それらを除けば、今の彼女は人間にしか見えない。だけど彼女は、直立二足歩行をする犬のような姿が、その正体だ。ひとのにおいを嗅ぎたがるのも、その正体の習性ゆえなんだろう。

 

「……シェリィ。今日も、ありがとうな」

「んう?」


 首をかしげる彼女。その吸い込まれそうに美しい瞳に、燃えるたき火の姿が映り込んでいる。


「……ほら、あの、狼と戦ったとき。助けようとしてくれただろ? 腕の傷は、もういいのか?」


 あのとき、俺をかばった彼女は、片目狼とそのつがいに襲われた。先日の買い物で手に入れた服のうち、今着ているのは厚手の布の服。少しゆったりめで、丈夫そうな服だ。なんとなく作業服を思わせる無骨なデザインだし、きっと男性向けなんだろうけど、動きやすいという理由で、彼女は今回、この服を着ている。


 肌が露出しなくていいと思っていた。けれど、狼の食いつきには、無力だったとは言わないにしても、それでも十分でなかったのは、一目瞭然だ。自分の装備にお金をかけて、シェリィのほうは普通の服で済ませてしまっていた。せめてなめし革製の、肘まであるような手袋を買ってあげていたら、違った結果だったかもしれない。


「……ごめんな」

「どうして?」

「いや、その怪我は俺をかばったものだろ? その……申しわけなくてさ」


 そう言うと、シェリィはまた非常に不思議そうな顔で首をかしげる。


「ボク、ご主人さまのお役に立てて、うれしいよ? どうしてご主人さま、あやまるの?」

「そりゃ、その傷は……」

「これ? えへへ、ボクがんばったしるしだよね。このケガ、治すために、アバルおじさんにおくすり、つかうように言ってくれたでしょ? ボク、すごく、すごくうれしかった!」


 薬、というのは、気付け用の火精酒スピリタムとかいう酒による消毒のことだろう。アバルはひどく驚いて、「獣人なんかにもったいない……」なんて言ってたけど、万が一、狂犬病みたいな感染症を持っていたら、シェリィの命にかかわる。だから、あの狼たちとの戦いのあと、俺はあらためて、強く依頼したんだ。彼女の傷を消毒してくれと。


 「獣人なんかにもったいない」だって? それを惜しんだせいで万が一、彼女を失うことになったら、そっちのほうがよっぽどだ。


「ボク、もう、ご主人さまにいっぱい、いろんなもの、もらったもん。だからボク、ずっと、ずっと、ご主人さまのおそばにいるから」


 星の光を宿した澄んだ目で見上げてくる彼女が可愛らしくて、いとおしくて、俺は、かすれた声で「ありがとう」というのが精一杯だった。

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