第2話:俺は俺の道を生きるだけだ

 こ、こんな化け物と戦うのか⁉

 俺は木刀を握りしめて、震える脚で立ち上がった。

 ──と、窓に首を突っ込んでいた熊の化け物が引きずり出したのは、白髪の男!


「は、放しやがれえええっ!」


 叫びながら短剣を熊の頭に何度も振り下ろす男を、化け物は振り回して壁の裂け目に叩きつける!

 偶然には見えなかった。裂けた板に狙いを定めて男の首を叩きつけ、さらに振り回したんだ。

 ちぎれかけの首から、凄まじい勢いで赤いしぶきを撒き散らし、男は動かなくなる。鉄臭く、生臭いにおいが鼻をつく。


 熊は男を地面に下ろすと腹を食い破り、中からホースみたいなものをブチブチッと引きずり出した。恐怖映画のような凄惨な光景。目が釘付けになるばかりで、動けない……!


「ヒイイイイイイッ⁉︎」


 開け放たれたままのドアから、赤髪の男が手に紙のおふだのようなものを持って転げ出てきた。その体は月明かりに照らされて、ぬらぬらと真っ赤に染まっている。右腕は……無い。肩のあたりから袖も腕もなく、ボタボタと血があふれ出している……!


「化け物めぇッ!」


 赤毛の男は何かを叫びながら、左手の指の先で紙の札を挟むように持ち、まっすぐ左腕を突き出して何かを唱え始めた。


「ケダモノのくせに、ニンゲン様を食うだって⁉︎ お前こそ僕の法術のチカラで、毛皮にしてやる!」


 正気を失ったかのような凄まじい笑みを浮かべながら、彼は絶叫する!


水霊みなだまよ、恩寵の女神ヴァッサ・ルーの名において、グレダが命ずる! 我が符に編みし言霊ことだまが力を、現世うつしよあらわせ!」


 言葉が紡がれていくと共に、彼の指に挟まれた札が青い光に包まれていく……!

 魔法⁉︎ この世界、魔法が使えるのか⁉︎


 呪文みたいなものを言い終えた男が、ヒステリックに何かを叫んだ直後、札が青い閃光を放つ! 同時に熊の顔の周りに水のようなものがまとわりつき始め、熊の顔を覆っていく!


 ──やっぱりこの世界には魔法があるんだ!


 化け物の顔を覆った水の塊は、顔にまとわりついたまま、化け物が首を振っても顔を掻きむしるようにしても、飛び散った水が再び顔に集まって、剥がれない!

 窒息狙いか? 地味だけど確実な手だ──しかし、続けて赤髪の男が叫んだ。


「創世の女神から賜りし『チカラ有る文字』の奇跡の技、思い知れッ!」


 赤髪の男はもう一枚の札を取り出すと再度呪文を唱え始め、絶叫する!

 札が輝き出し、化け物の顔を覆っていた水が、澄んだ音と共に瞬時に凍りつき、無数の棘と化す!


「アヒャヒャヒャ! くたばれケダモノがッ!」


 狂ったように笑う赤髪の男。おそらく、熊の口の中でも、同じような鋭い氷の棘ができているんだろう。


 だけど俺は、言いしれぬ嫌な予感にゾッとした。チビに向けて「逃げるぞ」と手を伸ばす。チビは迷うそぶりを見せたけど、立ち上がろうとして、そして転んだ。しまった、まだ足のロープを切っていなかった!


 俺は「ごめんっ! すぐになんとかするから!」と急いでしゃがみこみ、カッターの刃をロープに食い込ませる。


「……どうして、あやまるの?」


 チビの、か細い声だった。


「今まで忘れてたからな。悪かった。助けたつもりになってお前の期待を裏切ってたんだ、あいつらと大して変わらないだろ……よし、切れた!」


 その時だった。俺の嫌な予感は最悪の当たり方をした。

 熊は、その巨体通りの凄まじい力を発揮し、顔を覆う氷の棘の塊を掻きむしり、噛み砕いたんだ。


 高笑いを続けていた赤髪の男は、悲鳴を上げて逃げ出そうとした。

 だけどそれは、獲物を逃すまいとする野性の本能を刺激したのかもしれない。


 怪物は、身の丈三メートルは超えていそうな巨体なのに信じられない瞬発力で、赤髪の男の目の前に駆け寄っていたんだ。

 丸太のような太い腕が、赤髪の男を薙ぎ払う!

 その鋭い爪が、赤髪の男の腰から上──上半身、引きちぎられた肉片、大量の血、そして腹の内容物を、三つの月が輝く夜空にぶちまける!


 赤髪の男がバラバラに吹き飛ばされた瞬間、怪物の頭に貼り付いていた氷は、一瞬で溶けて流れ落ちた。魔法が解けたのかもしれない。

 もし水のままだったら、顔に張り付いた水は取れなかっただろう。逃げ回り続けたら、いずれは窒息させ、倒せたかもしれない。凍らせてさえいなければ……!


 化け物は一度首を振ってみせると、赤髪男が落ちてくるところまで駆け寄り、空中で男の上半身を器用に口でキャッチした。ブチブチッ、ガリボリ……聞くに耐えない音と共に、赤髪の男のうめき声。体を分断されるほどの衝撃で吹き飛ばされたというのに、まだ息があるみたいだった。地獄のような状況に、俺は耳を塞ぎたくなる。


「チビ、今度こそ逃げるぞ」


 俺の言葉に、チビはひきつった顔で俺を見上げて、何度もうなずく。


「いいか? 俺はこっち、お前はあっちだ。別々に逃げれば、奴だってどっちを追えばいいか迷うはずだからな。いいか、絶対に奴に背を向けるな、走るな。ゆっくり逃げろ。それこそ地面を這いつくばるようにしてだ。分かったな?」


 ゆっくり、噛んで含めるように話す。クマと遭遇した場合、目をそらさずにゆっくりと後ずさりする──どこかで聞いたことがある対処法。それを踏まえての説明に、チビは硬い表情で俺を見上げる。


「大丈夫だ、お前を囮にして逃げるとかじゃないから。お互い、また生きて会えるといいな」


 そう言って頭を撫でると、チビはひどくびっくりした様子で俺の手を見上げて、そして頭を振って俺の手を振り払う。ああしまった、また嫌われた──俺は苦笑いすると、「とにかく、今のうちだ。行くぞ」と声をかける。


 ところがこいつ、いったい何を考えたのか、俺が逃げると言った方に向かって走り出したんだ。


「バカ、走るなっ! それにお前はあっち……!」


 慌てて追いかけて手を伸ばし、何でもいいから夢中でつかむ!

 わざわざ俺が逃げる方に逃げようとするなんて、俺が騙そうとしてるって思ったのか? ああもう、ホントに信用ねえなあ、ニンゲンってのは!


「きゃいんっ⁉」


 悲鳴を上げて倒れたチビ。俺も引きずられるようにして一緒にコケる! どうやらしっぽをつかんでしまったらしい。「なにすんのさっ!」と涙目になって、ふかふかのしっぽを胸に抱くようにうなりながら牙を剥く!


 だけど、もうチビに構っている暇はなかった。

 ──気づきやがったんだ、化け物が、俺たちの動きに!


 胸まで喰われながらもうめき声をあげ続けていた赤髪の男を放り出すと、怪物はのそりと俺たちに体を向けた。そして突然こちらに走り出したんだ。


 ──くそっ、戦うしかないか!


「チビ、今は動くな! 俺が隙を作る、その時に逃げろ!」


 叩きつけるように叫ぶ! チビがびくりと俺を見上げたのを視界の端に捉えながら、俺自身はチビとは反対側に向けて走り出す!

「こっちだ、熊野郎!」


 化け物が進路を変える。俺は踏み止まると、突っ込んでくるダンプカーみたいなそいつに対して、木刀を正眼に構える。

 地響きがすごい! サイズ感はダンプカーそのものだ!


 ──怖いどころじゃない、だけどやらなきゃ、こっちがやられる!

 奴の咆哮と共に見えた、ずらりと並ぶ牙の一本一本。

 月明かりにそれらが輝くのを感じながら、俺は相手の打突に合わせて横薙ぎに一本を狙う「抜き胴」で、その鼻面をぶん殴る!


「グアオオオッ!」


 奴の悲鳴! だけど奴は止まらない!

 衝撃で手がビリビリ来て、思わず木刀を手放しそうになる。

 重さ2.5キログラムの木刀の一撃を受けて、それでもひるまないなんて!

 怪物はうめき声を上げてめちゃくちゃに首を振りながら、それでもすぐにUターンしてくる。そのデカさでその身のこなしは反則だろっ!


 再度突っ込んできた奴に対し、体勢を立て直して再度木刀を構えた俺だけど、交差する直前、ぞくりと予感が背筋を走って、俺は無我夢中で横っ飛びに避ける!

 その直後、奴の腕がもう少しで俺の身体を張り倒すところだった。さっきと同じように抜き胴を狙っていたら、間違いなくさっきの赤髪の男の二の舞になっていた!


 奴は、ダンプの体格と軽トラ並みの機動力を持つショベルカーだよ! あんなの、どうやったら勝てるんだ!


「グルォオオオッ!」


 ビリビリと腹に響くような雄叫びを上げて、またも突っ込んでくるそいつに、俺は爺ちゃんから学んだ、剣道ならぬ「剣術」の構え──体の右腰に、相手から間合いを悟られぬよう、自身の後ろに刃を伸ばすように構える「脇構え」で迎え撃つ!


「グワオウッ!」


 木刀を正面に構えていないからだろう、奴が大口を開いて食らいついてくる!

 こいつ、こちらの動きに合わせる程度の知恵はあるのか!

 ──だけど、それだけだ!


「くらえぇ──ッ!」


 体のバネをすべて使った逆袈裟斬り!

 会心の一撃が、奴の横っ面を思いきり張り倒す!


「ギャオゥオオオッ⁉」


 怪物の悲鳴を聞きながら吹っ飛ばされて、植わっている野菜を踏み潰すように地面に叩きつけられていた。当たり前だ、あの体重の突進だ。俺が全身全霊の力で横っ面をぶん殴ったからといったって、巨体は急に止まれない。

 だけど特注木刀にぶん殴られた熊野郎は、めちゃめちゃに吠えながら、殴られたところを押さえて飛び跳ねたりうずくまったりしてやがる。ざまあみろ!


 全身の痛みをこらえながら必死に起き上がろうとしていると、目の前に輝く月をさえぎってひょっこりと現れた、犬みたいな顔。


「だ、だいじょうぶ?」


 チビだった。


「……バカ、なんでお前、まだ、こんなところに……!」

「だって……だって!」

「だって、じゃねえって……。さっさと逃げろ!」

「どうして? どうしてさっきから、ボクのこと、助けようとするの? あなただってヒト・・でしょ?」

「……バカ、お前だって……」


 ああ、アバラが痛い。痛いけど、コイツの目からこぼれるしずくが、妙にあったかい。あったかくて、こっちが泣けてきそうだ。


「だ、だめだよ、動いたら……! あんなに突き飛ばされて、けがしてる……!」

「動かなきゃ、逃げられねえだろ……?」


 俺は木刀を支えに、気合を入れて立ち上がる。体のあちこちは痛いけど、骨が折れてるってわけじゃなさそうだ。いける、俺はまだイケる……!


「チビ、アイツだって無敵ってわけじゃなさそうだ。見ろよ、憎たらしそうにこっち見てやがる」


 俺は、自分を鼓舞するためにもあえて口汚く罵った。


「来いよ、雑魚モンスター! 図体ばっかりトラック並にデカくしやがって! こちとら、とっくに異世界に来てるんだ! 今さら異世界転生のトラックなんざ、いらねえんだよ!」


 まるで俺の挑発が分かったかのように、空気を震わすような咆哮を上げる熊野郎。


「……逃げろ、チビ。ただし、絶対に奴に背を向けて走るな。背を低くして、歩いて逃げろ。奴が反応しないように」

「あれ、ケイオスの魔物だよ! 勝てないよ、死んじゃうよ!」

「意地でも勝つんだよ。あの程度・・・・の奴にも勝てねえと、全国大会に行けねえからな」

「あ、あの程度って……あれはケイオスの……!」

「なにより、負けたら『鍛え直しだ』の一言で爺ちゃんにぶっ殺される」


 俺はチビの頭をくしゃくしゃっと撫でて、「生きてたら、また会おうぜ」と笑ってみせる。多少怒らせる程度がちょうどいい、そう思って。

 だけどチビは、一瞬だけびくっと体をすくめただけで、今度は、俺の手を払ったりしなかった。


「お、おかしいよ……なんで、なんでそんな……!」

助けがモットーだって言ったろ? それが俺の生き方だからさ」

「ボク、ヒト・・じゃないもん! そっちがケダモノって言ってるんじゃないか!」

「誰がなんと言おうとお前はだ! 俺にもにしか見えねえ! だから助ける、それが俺だ! いいからお前はさっさと行け!」


 ビクッと肩をすくめるチビに、俺は、怒鳴ってしまったことを恥じた。

 こいつは、根本的に人を信じられないんだろう。そして、こいつをそうしてしまったのは、この世界のなんだ。今さら俺が偉そうに口をはさんだところで、こいつが突然、人を信じられるようになるはずもないじゃないか。


 苦笑いが湧いてくる。人助けなんて、しょせんは俺の自己満足だ。本当にこいつが救われるわけでもない。明日から、また生きるか死ぬかの日々が続くだけなんだ。


 俺はもう一度、チビの頭をなでると、あえて笑ってみせた。


「じゃあ、ここでサヨナラだ。どっちが生き残っても恨みっこ無しだからな。……うまく逃げろよ」


 なにか言いかけたチビの頭をグイッと押しやって、俺は改めて怪物に向き直る。

 ここからは、俺の戦いだ。俺は俺の道を生きるだけだ。野球のバットを持つように垂直に刀を構える「八相の構え」で、俺は怪物と対峙した。

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