第16話 大連の街
通りも広いが、建物ひとつひとつが大きい。清朝時代は小さな漁村だったらしい。
大連の街を初めに開発したのは帝政ロシアで日露戦争後、日本に割譲された。今残っている建物は日本統治時代の物が多いと言われる。大通りの名前も現在は人民路と呼ぶが満州時代は明治期の日本の首相の名前を取って山縣通りと呼ばれ、終戦後から数年前まではスターリン通りと呼ばれていた。
大通りを進むと突き当たる円形の中山公園が大連の街の中心で、そこを起点にいくつもの通りが放射線状に伸びている。安宿を探すつもりだったが、仁川―天津、天津―大連、と立て続けの船での移動による疲れや、街のサイズが大きいことで歩くのが億劫になり、人民路に建つ『大飯店』と看板が掲げられたきらびやかな建物に吸い寄せられるように入ってしまった。
チェックインし、案内された七階の大きな部屋に荷物を置きシャワーを浴び、ふわふわのベッドに入って眠り、目覚めた後、表へ出て、街を夢中で歩いた。
船で教わった、日本時代の住所と現在の住所を照合するオフィスへも行ってみた。小さな薄暗い建物に係の男性が一人居て、地名を書いた古い冊子が机の上に置いてあって、照合してくれる。
分かっているのが戸籍抄本に書かれている父の出生地の住所だけで、そこは大連医院という病院なので、何のことはない。大連医院は、現存していた。だからそこへ行けば良いだけだ。生活していた場所の地名は、分からない。
伯父によると、満鉄の社宅を何度か転居したそうなので、住んでいた町の名前だけでも聞いて来れば良かった、とこの時初めて気付いて、思った。お粗末だった。
せっかくなので、大連医院へ行ってみることにした。これだけなのだから住所を照合するなどという大げさなことをする必要は全くないが、もし大連医院が現存していなければ別の建物が建っていたはずで、そう考えれば役に立ったのかも知れない。
行ってみると『大連医院』と看板が架かっていて、大きな古い黒っぽいコンクリートの建物が建っている。現代の日本の病院とは趣きがかなり異なるが、恐らくは旧満州国時代に日本の建築技術のもとに建てられたのだろう。戦争を経てなおそのまま、現在は中国の病院として残っている。
住んでいた満鉄の社宅は寒い大連の冬向けに暖炉などが備え付けられていたということだが、この街の全体像から推察するに、今もそのまま住居として使われていて誰かが住んでいる可能性が高いのではないだろうか。満州国時代のヤマトホテルが今『大連賓館』として使われているように。日本によって造られた街をそのまま拝借して完全に中国の街と化していることも不思議だ。今の大連はまぎれもなく中国の一都市だ。そんなことを考えながら、歩く。
翌日、満州時代には奉天と呼ばれていた瀋陽へとバスで出発する前に船で会った瑞華の会社へ電話すると、長距離バスステーションまで仕事を抜けて来てくれた。
「また来て下さい」と瑞華は笑顔で言った。
また来ることはあるのだろうか、と前方を見た。郊外の方にまでコンクリートの建物が立ち並ぶ大連の街並みがよく見渡せた。
出発時間が近付き、バスに乗り込む前、瑞華は満面の笑顔で僕の肩をぽん、ぽん、と叩いた。僕は瑞華に握手の手を差し出した。もう二度と会うことはない可能性の方が高いが、何か、これからの旅行に、あるいはこれからの人生に味方が増えたような気がして、心強くなった。
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