02 『本の屋敷』

「……実はな、サー。あのパブからずっと、尾行つけられている」


「何?」


 ブラングィンがアトリエの窓にさりげなく目を向ける。

 幸次郎は酒のお代わりを取りに行く振りをして、そっと窓外を見る。

 街灯の向こう、人影が見える。

 ソフト帽に、スリーピースのスーツ。

 いかにもな風貌な男だった。


「このアトリエでずっと視線を感じていたんだ……ついにドイツ皇帝の刺客がやって来たんじゃないかと思って、な」


 ブラングィンは肩をすくめた。

 これでは集中してを描けない、と。

 そのためには、あの刺客(?)をらしめて、降参させようと考えた。


「そこでわざとパブに行ったら、あのパブの定番、ステーキ・アンド・キドニー・パイを前にしている東洋人がいるじゃあないか」


 見た瞬間、ブラングィンはひらめいた。

 この東洋人を仲間にして、刺客を撃退する作戦を。


「あの『本の屋敷』は、本だけじゃない、や、刀やサーベルといった美術品もある程度はある。だから、目利きを頼まれていてね、サー」


 ブラングィンの作戦はこうだ。

 『本の屋敷』に行く。

 ブラングィンはわざとひとりになる。

 おそらく刺客は襲って来る。

 そこを、刀をかまえたの幸次郎がうしろから脅す。

 「帰れ」と。


「どうだい、名案グッドアイデアだろう」


「……何だ、気が合ったから誘ってくれたんじゃないのか」


「いやいや! それもあるそれもある! そんな顔すんな、うまくいったら、君の目指すもののあるところに案内しようじゃあないか」


「えっ」


 もう幸次郎の求めるものを思いついたのか。

 問いただそうとする幸次郎をよそに、「行くぞ」とブラングィンはアトリエのドアを開けた。



 その屋敷は本に埋もれている。

 近所の住人がそう言っていた。

 むかしは、爵位を持つ貴族が住んでいたらしいが、いつか死んでしまったらしい。

 本に埋もれて。


「……つまりは、せっかくの父祖伝来の財産も、みんな、本に?」


「あとは美術品も幾ばくか……だがまあ、そういうところだろうイグザクトリー


 深夜、松方幸次郎は画家のフランク・ブラングィンと共に、その古びた屋敷の門扉の前に立っていた。

 かそけき音がして、幸次郎とブラングィンが振り向くと、密かに尾行してくる人影を認めた。


「来たか」


「おい、勢いでついてきてしまったが……ブラングィン画伯、あの刺客を脅すって、具体的にはどうするんだ」


「それか」


 ブラングィンは懐中から鍵を取り出し、扉の鍵穴に入れた。

 ごとり、と重々しい音が響き、扉が開く。


「これだ」


 屋敷内にするりと入ると、ブラングィンは玄関ホールに飾られたサーベルや刀の中から、日本刀を無造作につかんで、ほうった。

 思わず手にする幸次郎。

 ずしりと重みが伝わる。

 何というか、その重みだけで名刀とわかる。

 銘は、何だろうか。

 そう思って幸次郎が抜こうとすると、「急げ」とブラングィンが引っ張って来た。


「わざと鍵は開けて来た。奴がすぐ入って来るだろう」


 この先に、待ち伏せにうってつけの場所があるという。

 少し歩くと、大広間、のような空間に着いた。

 「大広間、のような」というのは、テーブルというか机というか、というは本が積み上げられている。

 その本の――ブックタワーがそこかしこに佇立し、視界がさえぎられている。


「な、これなら、その辺のブックタワーの陰にひそんでいればいい」


 ブラングィンはいたずらっぽくウインクした。

 そして懐中から拳銃を取り出す。


「サー、合図をしたら、君はその陰から、すうっと刀を向けてくれれば良い。奴がそれで止まったら、あとは拳銃コイツの出番だ」


 仮にも刺客なら、それとたら終わりだ。

 殺す気はない。

 少なくとも、しばらく放っておいてくれればいい。


「……来るぞ」


 ぎぎ、という音が聞こえた。

 扉が開く音だ。

 幸次郎は仕方なく、そこらのブックタワーの陰に隠れようとする。

 刀が意外と取り回しが悪く、近くのブックタワーに引っかかって、倒れそうになる。


「気をつけろ、けっこう、稀覯本きこうぼんだらけなんだ。傷つけないでくれ」


 は安物だがな、とブラングィンは断りを入れた。

 どうやら、家財道具は売り払って、本や美術品にえたらしい。

 酔狂な貴族だったんだな、と言おうとして、幸次郎はやめた。

 空気が動く。

 刺客がこの「大広間」に入って来たのだ。

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