:第九話 懐疑の種 2
「さっきの続きだけど……。
沢井先生の怪我な?当時の転び方が良くなかったとかで、足以外にも強く打ったところがあったらしいんだ。
それで念のため、全身の精密検査を受けることになって、脳の方は異常なかったそうなんだけど……。
大腸の方にな、腫瘍が見付かったんだ」
「腫瘍……?癌ってことですか?」
「いや、一応良性ってことで、命に関わるものじゃあないらしい。
ただ先生の場合、それなりに御年を召しているから……。ちょっとした腫瘍でも、切除するのが結構大変だったみたいでな。
手術自体は無事に成功したんだけど、体力回復のために、もう少し療養期間を延ばそうって話になったんだよ」
沢井先生の休職期間が、当初予定していたより長期に及んだ理由。
それは、念のため行われた精密検査で、予期せぬ病巣が見付かったせいだった。
判明した腫瘍が悪性でなかったこと、早期に発見できたことが良い方向に働き、身体への影響は軽度で済んだ。
術後の後遺症もなく、転移の可能性もほぼないとのことだった。
ただし一口に良性といえど、腫瘍を取り除くためには手術を要する。
そこでネックとなったのが、沢井先生の年齢だった。
彼は今年で55歳になる、中年の男性だ。
職業上はまだまだ現役といっても、肉体の衰えは相応に進んでいる。
若者と比べて基礎体力が少ない分、手術による負担は計り知れないものがあるだろう。
病気自体は無事に治療できたものの、失った体力を取り戻すために、やや時間が掛かったというわけだ。
「そうだったんですか……。
今まで皆に伏せていたのは、不安を煽らないようにするためだったんですね」
事実を知った葵くんは驚いた顔をしたが、動揺はしなかった。
「そういうことだ。理解が早くて助かるよ。
かくいう俺も、腫瘍について教えられたのは最近でさ」
「そうなんですか?どうして?」
「先生が復帰できる日取りが、今まで未定だったからだよ。
だから、手術が無事に成功して、体調が安定したのが確認されてから、改めて事実を明かそうってことになったんだって……。
このあいだ、教頭先生から言われた」
沢井先生の病気の話は、俺に対しても長らくオフレコ扱いだった。
正式に箝口令が敷かれていたわけではないが、沢井先生本人が秘匿にしてほしいと望んだそうだ。
1組の生徒に明かさなかったのは、受験を控えた彼らに余計な心配をかけないため。
代理の俺に明かさなかったのは、新米の不安を煽る真似をしたくなかったため。
どのみち、遅くても数ヶ月後には復帰できる。
腫瘍が見付かったといっても、手術を受ければ治せるもので、命に別状はない。
だったら要らぬ悲観を招くより、全てが丸く収まった後に、事後報告という形で真実を告げるべきと。
思い返してみれば、腑に落ちない点が一つ二つあった。
というのも、俺は沢井先生の入院されている病院に、何度か見舞いに伺っているのだ。
上から行けと催促されたのではなく、あくまで俺個人の意思で。
しかし、俺は一度も本人との対面を許されなかった。
担当者によると、面会謝絶は本人の意向ではないという。
となれば、病院側で措置が取られたことになるが、沢井先生の場合はただの骨折治療だ。
集中治療室なんかに入れられた重篤者ならともかく、怪我で入院中の患者が、そこまで厳しく制限されるケースはあまりない。
本人が誰にも会いたくないと言っているわけじゃないなら、面会を差し控える理由はないはずだった。
おかげで俺は見舞い品を届けるばかりを繰り返し、沢井先生とのコンタクトは専ら、メールで行う他なかったのである。
それもこれも、腫瘍の件が判明した今となっては得心がいく。
少々過保護な気もするが、一応は手術を控えた身だ。
万全を期した結果、このような形になったのだろう。
人を選べば角が立つし、かといって、全員を相手にすれば気疲れする。
面会謝絶にするのが、最善だったのかもしれない。
予定より遅れてしまったが、沢井先生はちゃんと帰ってくる。
だから、個人的な詮索は抜きにする。
病気の話を教えられた時に、今は何も聞かなかったことにしようと、俺も決めた。
「───よく分かりました。
色々あったけど、沢井先生は普通に戻ってくるってことで、いいんですよね?」
「ああ。
俺としては寂しいとこだけど、みんなは受験生だからな。
正念場にはやっぱり、慣れ親しんだベテランが付いてやるべきだ。
葵くんも、沢井先生が戻ってくれたら嬉しいだろ?」
ふと葵くんは口を閉ざした。
均整のとれた眉間には、うっすらと皺が寄っている。
俺がコーヒーを一口飲むと、葵くんも自分のコーヒーを一口飲んだ。
グラスに直接口を付ける俺と違い、葵くんは細いストローを使っている。
「嬉しくないですよ。
むしろ、叶崎先生がこのまま、ずっと担任でいてくれたら良いのにって思ってます」
ようやく返事をした葵くんは、意外な反応を見せた。
まさか彼から、そんな風に言ってもらえる日が来るなんて。
俺は一瞬呆気にとられたが、今のは恐らく褒め言葉ではない。
俯いた視線と強張った表情、急に低くなった声が、彼の心境を表している。
沢井先生と比べれば俺の方がマシ、といったニュアンスに近いだろうか。
「そう───、言ってもらえるのは嬉しいけど。褒め言葉じゃないよね、それ。
葵くんは……。沢井先生のことが、嫌いなのか?」
葵くんはまた口をつぐむと、グラスの内側をストローで回し始めた。
葵くんが手先を動かす度に、揺れた氷がカラカラと音を立てた。
「嫌いってほど関心はないです。
ただ、軽蔑してるだけです。一教師としても、一人の人間としても」
"軽蔑している"。
この台詞に覚えのあった俺は、音楽室での一件を真っ先に思い出した。
"そもそも自分は、教師という人種を好いていない"。
みたいなことを、当時の彼は言っていた。
俄に信じがたいが、みんなが知らない沢井先生の側面を、葵くんだけは知ってるってことなんだろうか。
でなければ、あれだけ印象の良い人を軽蔑する理由が、他に思い当たらない。
「それって、例の話したいことってのと、関係あるのか?」
その問いを待っていた。
とでも言うように頷いた葵くんは、両手を膝の上に置いた。
「オレ、前に先生に言いましたよね。
時期が来たら、今度はオレの方から、楓のこと話すって」
「ああ。覚えてるよ」
「オレは、その時期が今だと思ってます。
あんな風に、普通に喋ったり笑ったりしてる楓見るの、本当に久しぶりだから。
……たぶん楓は、先生には心を開いたんだと思います。
だから、オレも先生を信じます。先生だから、話すんです」
"オレの話、聞いてくれますか?"。
俺は頷き、背筋を伸ばした。
「まず、楓と沢井先生の接点についてですけど。
先生は、あの二人がどういう関係だったかご存知ですか?」
「うーん……。
人づてに聞いた分しか知らないから、なんとも言えないけど……。
傍から見た限りでは、良好な関係だったって聞いてるよ。
沢井先生本人も、相良とは結構親密だったって言ってたし」
葵くんは鼻で笑うと、皮肉たっぷりな顔と声で言った。
「でしょうね。
あの人はそういう人だ」
沢井先生に対して、葵くんは相当な嫌悪感を持っているようだ。
軽蔑を通り越して、憎しみすら覚えるほどに。
「叶崎先生はまだ、ウチに赴任してきたばかりだから、分からないでしょうけど。
あの人、すごく感じが良かったでしょう?
学園ドラマに出てきそうなくらい、完璧な教師ってオーラだしてて」
俺の脳内で、沢井先生との記憶が呼び起こされる。
あれは、まだ俺が冬見に戻って間もない頃。
西嶺中の入学式に出席する以前のことだ。
この時には既に沢井先生はご不在で、俺とのファーストコンタクトは電話口で行われた。
直接挨拶が出来ないこと、俺を学校で出迎えられないことを、先生はとても悔やんだ様子で謝っておられた。
「まあ……、そうだな。
人当たりが良くて、すぐに人格者って印象を覚えるくらい───」
「それ。それですよ。あの人の特徴は正にそれなんです」
俺の感想に、葵くんは食い気味に被せてきた。
「あの人は何より、自分の印象を大事にする人です。
自分の株が上がることは積極的にやるけど、そうじゃないことには絶対に手を貸さない。
あの人にとって一番重要なのは自分の面子であって、他人の境遇なんてどうでもいいんですよ」
葵くんの放つ片言隻語が、俺のこめかみを金槌のように叩く。
俺の中の沢井先生のイメージが、叩かれる度にぐにゃぐにゃと変形していく。
印象、株、面子。
人の好さそうな先生とは到底結び付かないキーワードが、葵くんの口から次々と出てきて。
あの朗らかな笑顔は偽物だったのかと、過ぎった瞬間に酷い胸焼けがした。
「だから、楓のことも利用した。
楓の境遇は、あの人にとって"可哀相な対象"じゃない。自分の評価を上げるための道具に過ぎなかったんです。
あの頃の楓は、あいつの面子に食われたようなもの。
あいつがヒーローになるために、生け贄にされたみたいなものだったんですよ」
"じゃあ、また明日ね。先生"。
夕焼けを背に、微笑む相良の姿が甦る。
同時に沢井先生の笑顔の写真も過ぎって、二人の顔が脳内で重なった。
「その話、詳しく聞かせてくれ」
俺は、沢井先生に会ったことがない。
どういう人物であるのかも、人づてに聞いた分にしか知らない。
なのに、何故だろう。
相良の笑顔と彼の笑顔を重ね合わせた途端、彼の笑顔が嘘っぽく感じてしまうのは。
俺を殺してお前も死ね 和達譲 @wdcyzr31primula
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