:第九話 懐疑の種
6月25日。
この日、俺は葵くんから"ある相談"を持ち掛けられた。
校舎に人が集まっていない朝のことだ。
俺は早めに出勤する方なので、早朝の校舎に自分一人というシチュエーションが割とある。
だが、この日ばかりはいつもと状況が違った。
いつもより早くに登校してきたらしい葵くんと、思いがけず廊下で鉢合わせをしたのだ。
真面目な彼が遅刻をすることはまずないが、こんなに早くに登校してくるのは珍しい。
もしかして部活の朝練でもあるのかと俺が問うと、葵くんは厳かな態度でこう述べた。
"二人だけで話したいことがあるので、放課後お時間いただけませんか"。
その顔がいつにも増して真剣で、なんだか深刻な様子だったので、俺は来たるべき日が来たのだと心中で思った。
以前、音楽室で話をした際に、彼は一つの予言を残していたのだ。
いつか相良が、俺に振り向く日が来るだろう。
時が来たら、自分の方からも話すべきを話すと。
今回アプローチを仕掛けてきたのも、恐らくはそのためだ。
二人だけで話したいこと、の詳しい内容は定かでないが、相良の事情に関わるのは間違いない。
俺は葵くんからの要求を承諾し、放課後の予定を空けておくことを約束した。
**
放課後には葵くんとの話し合いが待っている。
そう思うと妙に落ち着かなかったが、俺は出来るだけ平常通りに過ごした。
いつもと変わらず授業を行い、バスケ部の練習に付き合い、相良からの報告メールを確認する。
相良の様子も特に異常は見られなかったので、今日は比較的穏やかな一日だったと思う。
そして迎えた、約束の時。
一足先に校舎を出た俺は、学校から少し離れたファミレスまで向かった。
ここは、葵くんの住まいから程近い距離にある店。
葵くんが指定した、今回の待ち合わせ場所だ。
夜遅くまで一緒に校舎に残っていると、クラスメイトに怪しまれる危険があった。
知り合いに鉢合わせる確率の少ない場所をと選んだ結果、この店になったのだそうだ。
「───いらっしゃいませ。一名様ですか?」
平日ということもあり、店内は混雑していなかった。
静かに話し合いがしたい身としては、ちょっと閑散としてるくらいが丁度いい。
「いえ、後でもう一人来ます」
「畏まりました。
では、ボックス席の方にご案内します」
出迎えてくれた若い女性従業員に案内され、四人用のボックス席に腰を下ろす。
時刻はこの時、午後6時38分。
約束の時間までは、まだ幾ぶん余裕があった。
葵くんは自転車で登下校をしているため、学校からここまでも自転車で来るはずだ。
野球部の練習も長引く時は長引くらしいし、到着にはもう暫く掛かると見るべきだな。
俺はアイスコーヒーを注文し、ついでに煙草を吹かしながら、葵くんの到着を待った。
「────すみません、先生。お待たせしました」
20分後。
7時を過ぎて間もなくに、ユニフォーム姿の葵くんが店に現れた。
部活が終わって、大急ぎで駆け付けてくれたのだろう。
制服に着替える時間も惜しむほど、俺との約束を優先してくれたようだ。
「おお、お疲れさん。
部活終わりに大変だったな。座って」
「はい。失礼します」
葵くんは丁寧な物腰で、俺の向かいの席に腰掛けた。
通学用のリュックサックと、部活用の大きなエナメルバッグは脇のスペースに。
西嶺中のロゴが入ったキャップ帽は、バッグの上に重ねて置かれた。
「フー……。っちー……」
相手は思春期の男子中学生で、おまけに今は部活帰り。
部活中も勿論だが、ここへ来る際にも、それなりに汗をかいたのだろう。
露になった頭髪は微かに湿っていて、年頃らしい体温を感じさせる。
にも拘らず、葵くんからは男子特有のキツい臭いが全く感じられなかった。
制汗剤で抑えている風でもないので、もともと体臭が少ないタイプなのかもしれない。
ふとした仕種や、無意識に出る生理現象まで、彼はどこか洗練されている。
本物のイケメンは、汗をかいても臭くないんだな。
「せっかくだし、なんか食うか?
腹減ったろ。好きなもん頼んでいいぞ」
テーブルの隅に立ててあるメニュー表を引っ張り出し、葵くんに差し出す。
しかし葵くんは受け取らなかった。
「遠慮しときます。
オレんち、寄り道禁止なんで」
「そうなのか?
学校帰りに友達とラーメン食ってくとかもダメ?」
「ダメってことはないですけど……。晩飯いるかいらないかとか、何時までに帰るとか、いちいち連絡しなきゃいけないんで。
そういうの面倒臭いから、あんま寄り道はしないようにしてるんです」
本人いわく、葵くんのご家庭は、なかなか厳しい規律で統治されているとのこと。
寄り道をする際の連絡は必須、断りなく門限を破ることは厳禁。
その手間が億劫で、友達付き合いも次第に悪くなっていったのだとか。
年頃の男の子なら、学校帰りに友達と外食をする楽しみなんかもあるだろうに。
この分だと、母親か父親のどちらかが、口煩く干渉してくるんだろう。
家庭の話をする葵くんの顔は少々げんなりとしていて、俺は追求するのをやめておいた。
「じゃあ、今日のことは?
遅くなるって、ご家族には連絡してあるのか?」
「そこは大丈夫です。ウチ、こっから近いんで。時間の方も問題ありません。
先生の方はいいんですか?遅くなっても平気ですか?」
「俺のことは気にしなくていいよ。
君がいいなら、俺も構わない」
先ほど対応してくれた女性とは別の従業員が、葵くんの分の水とおしぼりを持ってテーブルに近付いて来る。
俺は葵くんに再度、メニュー表を差し出した。
「とりあえず、飲み物くらいは頼んだ方がいいな。
何でもいいから、適当に選んで」
葵くんはメニュー表を受け取ると、軽く目を通してアイスコーヒーを注文した。
健全な男子中学生がファミレスでコーヒーを頼む光景なんて、滅多に見られるものではない。
一般的に有り得そうなシチュエーションといえば、カッコつけか面白半分が大概だが、葵くんは多分どちらでもない。
涼しげな言動から察するに、日頃からコーヒーを好んでいることが窺える。
改めて、葵くんは普通とは違うなとか、ちょっとこわいなとか思ってしまう。
ここでクリームソーダとか頼んでくれたら、好感度爆上がりだったのに。
あんまりカッコよすぎるというか、見た目通り過ぎて意外性に欠けるくらいだ。
「他にご注文はありますか?」
「いえ。コーヒーだけで結構です」
「畏まりました。
少々お待ちください」
何食わぬ顔で注文を済ませると、葵くんはメニュー表を定位置に戻した。
俺は彼の挙動に一々引っ掛かりながら、気持ちを切り替えるため自分のコーヒーに口を付けた。
「それじゃあ、早速だけど……。
遅くなるといけないし、単刀直入に聞かせてもらっていいか」
「どうぞ」
顔は俺と向き合ったまま、葵くんは用意されたおしぼりで爪先に残った土を丁寧に拭った。
俺は彼の頼んだコーヒーが来るまで待とうか悩んだが、拘束してしまうのも悪いので本題に入ることにした。
「今朝言ってた、"相談したいこと"ってのは、やっぱり相良のことだよな?
前にも意味深なやり取りあったけど、君はなにか、相良について重要な秘密を知ってるのか?」
両手を綺麗にした葵くんは、おしぼりをメニュー表の脇に置いた。
「その前に、先にオレからお話したいことがあります。
いいですか?」
「わかった。どうぞ」
俺からの問いを保留にした葵くんは、浅く溜め息を吐いて俺の目を見た。
「沢井先生のことなんですけど、もうじき復帰されるんですよね?
交代は夏休みが空けてから、と仰ってましたか」
もしかしてと予想したところ、葵くんは本当に沢井先生の名前を出してきた。
実は、今朝のホームルームで沢井先生の話をしたばかりなのだ。
今はお休み中の先生だが、体調は快方に向かっているそうなので、この調子でいけば2学期には復帰できる予定だと。
当時の生徒たちのリアクションは様々だったが、葵くんだけはやけに神妙な様子でいたのを覚えている。
「ああ、そうだよ。
俺が代役を勤めるのは、1学期の終わりまでだ。
そのことが、なにか引っ掛かるのか?」
「……本当は、ずっと気になってたんです。
沢井先生が、こんなにも長い間、休職される理由が」
訝しげに目を細める葵くん。
彼の確信めいた物言いに、俺はどきりとした。
「確か、足を悪くして歩けなくなったから、完治するまで働いちゃ駄目って、ドクターストップが掛かったんでしたよね?」
「ああ」
「今更ですけど、その話って本当なんですか?
ただの骨折にしては、ずいぶん治りが遅いですよね?」
「あー……」
「それに歩けなくても、絶対に働けないことはないと思います。
先生みたいに体を動かすのも仕事だっていうなら、仕方ないのも分かりますけど。
社会科の教師なら、教壇に立つだけですよね?松葉杖なり何なり使えば、どうとでもなったんじゃないんですか?」
「えーっと」
「本当に、沢井先生は足を悪くしただけなんですか?」
前回の煮え切らない態度とは打って変わり、ガンガン核心を突いてくる。
珍しく饒舌な葵くんに、俺は何も言い返せなかった。
「参ったな。
君には驚かされてばっかりだ」
「………。」
「まあ、今さら隠すことでもないから、別にいいんだけど……。
一応オフレコ扱いの話だから、正式に発表されるまでは、誰にも言わないでくれるか?」
葵くんを相手にはぐらかすのは難しそうなので、ここは事実を明かすことにした。
葵くんは無言で頷き、背筋を伸ばした。
「実は、沢井先生が休職されてる理由は、足を悪くしたから、だけじゃないんだ。
右足を怪我して、まともに歩けなくなったのは本当だけど……。
それ以外にも、教壇に立てなくなった訳がある」
先ほど注文を取りに来た従業員が、葵くんのアイスコーヒーを運んで来た。
従業員が葵くんの前にコーヒーを差し出すと、葵くんは"どうも"と呟いて会釈した。
用を済ませた従業員は頭を下げ、再び持ち場に戻っていった。
俺は彼女の姿が厨房に消えたのを確認してから、続きを話し始めた。
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