:第八話 破けた殼 7



「なあ、相良。

俺は、お前のために、何も出来ないんだろうか」



並んで歩く中年の夫婦。

ドライブ中の若い三人家族。

見るからに幸せそうで、心から愛し合っている者たちを見ると、無性に全身を掻きむしりたくなる時がある。


この身に流れる血を全部抜いて、空にしてしまえば、俺も彼らのような存在になれるだろうかと。

頭の中が沸騰するように熱を持って、どうしようもなく叫びたい衝動に駆られる時がある。




「お前が一言、助けてくれって言ってくれたら、俺はお前が助かる・・・まで、お前を助ける・・・よ」


「………。」


「警察沙汰になろうが、教師としての立場に傷が付こうが、構わない。俺がそうしたいんだ。

普通に、なんでもないことで笑ったり、つまんないことで落ち込んだりできる人生を、お前に送らせてやりたいんだよ」



相良が言い返さないのを良いことに、俺は一方的に続けた。



「どうしたら、うまくいくと思う。

どうすれば、これ以上苦しまずに済む。

お前は、どうして生きていきたい、相良」



再び訪れた沈黙の中に、微かに相良の息遣いが聞こえる。

動揺、または困惑。

とっさのことで返事が出ず、代わりに詰まった吐息だけが漏れているような、そんな息遣い。


俺は隣を見なかったが、相良がどんな顔をしているのかは、なんとなく分かった。


助けたいだなんて、驕りだということはよく分かっている。

てめえの始末すら碌になっていないくせに、木偶の坊が人様の支えになろうだなんて。

傲慢だと自分でも思う。


でも、気付いたら惹かれていた。

この感情は恐らく、友情でも恋慕でも、父性でもない。

昔の自分を彼に重ねて見ている、というのも一理あるが、厳密には違う。


今はただ、相良に幸せになってほしいのだ。

どんな形であれ、相良が嘘を付かなくて済むように。

作り笑顔をしなくていいように。



「なにも」



人並みの、ありふれた幸せというものを。

この子にも、経験させてやりたいと思うのだ。



「なにも、しなくていいよ。

特別なことは、何もしなくていい」


「俺じゃあ頼りにならないから?」


「そうじゃない」



四度目の赤信号に捕まり、慎重にブレーキを踏む。

今度は大学生風の青年が一人、ロードバイクで横断歩道を横切っていく。


相良の自宅まで、あと少し。

見慣れた景色が窓の向こうに映る。


停止している今なら、相良の顔色を窺うチャンスだ。

それでも、俺は隣を見なかった。見られなかった。



「さっき、先生が来てくれた時さ。

実は、すごいホッとしたんだ、おれ」


「え?」


「別に、痛いのなんて慣れてるし、治まるまで、一人でじっとしてても良かったんだけど。

でも、先生はおれを見付けてくれた。

誰にも見付かんないようにって、隠れてたのに。

先生は、おれを探しに来てくれた」



相良の落ち着いた低い声が、染み込むように俺の中に入ってくる。



「それが、おれは嬉しかった」



"嬉しかった"。

最後の一言を聞いて、俺はようやく隣に目を向けた。

相良はぼんやりと、フロントガラスの向こうを眺めていた。



「ずっと、誰にも知られたくないって思ってた。

けど、あんたに知られてから、ちょっとだけ、気持ちが楽になった気がする」



どこからともなく、カラスの鳴き声がする。

帰宅途中の男子高生の集団が、わいのわいのと騒ぎながら歩道を通り過ぎていく。

相良の声はとても近く、相良の声以外の音は遠く感じられる。



「一人でも、おれのことを知っててくれる人がいるんだと思うと、安心した。

今日みたいに、急に具合悪くなったりしても、どうしてそうなったのか、分かってくれる人がいることが、嬉しかった」



二度目の"嬉しかった"の直後、信号が青に変わった。

俺は慌ててアクセルペダルに足を乗せ、ゆっくり踏んだ。

いつの間にか相良の言動に全神経を向けていたようで、自分が運転中であることを失念しかけていた。



横断歩道から三つ目の信号を右に曲がり、しばらく進むと相良の自宅がある。


あと少しで終わる。

あと少しで今日が終わる。

相良と過ごした一日が終わる。


今日が終われば、また明日あすが来る。

明日が終わっても、また明日が来る。

そうやって、何日も何年も、俺たちの時間は続いていく。

死ぬまで、俺も相良も生きている。


でも。明日になっても、明後日になっても。

相良の父は父のままで、父の息子は相良のまま。


心底、帰したくなかった。

狭いアパートの一室で、いつも相良は地獄を見ているのかと想像すると。

想像しただけで、そんなところまで送り届けたくないと思った。

どんなに怖くても、帰りたくなくても、相良にとってはあそこが家なんだと思うと、怒りで頭が変になりそうだった。




「だから、特別なことは何もしなくていい。

どうしたって、これはおれと、父さんの問題だから。

最後にはおれが、自分で何とかしなくちゃいけないことだから」




このまま、相良を連れて、どこかへ逃げてしまいたかった。

辛いことも煩わしいことも、名残惜しいことも全部捨てて。

誰も知らない、誰にも知られない遠い国へ、二人で。


本当は、泣きたいほど苦しいはずだろう。

喚き散らしたいほど、窮屈でたまらないはずだろう。


それでも相良は、涙を流さない。声を荒げない。

父を責めず、俺を責めず、自らの力で乗り越えるべきだと台詞のように言う。


今まで誰も、相良を泣かせてやらなかったから。弱音を零させてやらなかったから。

いつしか相良は、泣くことも叫ぶことも忘れてしまったんだ。




「本当に、いいのか。このままで。

お前と父親を引き離すことだって、絶対に不可能じゃないんだぞ」


「分かってるよ。いつかはおれも、あの人から離れたいと思ってる。

けど、今はいいんだ。先生っていう味方ができたから。

今はまだ、耐えられる」




いつぞやに二人で話をした公園が見えてきた。

相良は"ここでいい"と一言告げると、助手席の窓を人指し指の間接で叩いた。


相良が示した方向を確認すると、公園向かいの遊歩道に公衆電話が設置されていた。

その近辺で降ろしてくれ、ということらしい。


言われた通りに車を寄せ、公衆電話の近くに停車させる。

相良はシートベルトを外すと、改めてこちらに向き直った。

目が合った顔は、先程より晴れていた。




「一応言っとくけど、おれ、あんたには感謝してるんだよ」


「カ───ッ。ンシャ、して、もらえることなんて、なにもしてないと思うけど……」


「してるよ。

多分おれは、───自分で思う以上に、あんたに救われてるんだと思うから」



困ったようにはにかむ姿は、一瞬だけ、普通の14歳の輪郭をしていた。



「おれ、いいヒトは嫌いだけど、いいヤツは好きだからさ。

だから、あんたのことも、前よりちょっとだけ好きだよ」



どれほどの傷を負っていても、闇を抱えていても。

相良はまだ、こんなに綺麗に笑えるのだ。


それは、彼の全てが壊されていないことの証明であり、救いを齎す余地がある希望でもあり。

同時に、二度と無邪気な少年には戻れないのだという、呪いにも似た現実だった。



脚の間に挟んでいた荷物を抱え、相良が静かに車を降りる。

我に返った俺は、一拍遅れて相良に呼び掛けた。



「───ッさがら!」



"一人で大丈夫だから"と言ってドアを閉めた相良は、足早に車の後ろへ回ってしまった。


トランクが開けられ、積んでいた自転車が降ろされ、トランクが閉められる。

自転車のハンドルを手で押した相良が、歩道側から戻ってくる。


俺は運転席に備わっているスイッチを押し、助手席の窓を開けた。

近付いてきた相良は、開いた窓から顔だけを車中に覗かせて、俺を見た。



「また明日、先生」



別れ際にひときわ端正な笑顔を残して、相良は去っていった。

使い古したリュックを背負い、やや車輪の小さい自転車を携えた後ろ姿は、一歩一歩と俺から遠ざかっていった。


薄っぺらな背中も、筋張った踝も、余った袖が風に踊らされる様も。

全てが夢のようで、日の光に溶けて消えていきそうで。

助手席の窓枠が、まるで映画のスクリーンのように感じられる。


俺は相良の気配が完全になくなるまで見送ってから、"また明日"と返すのを忘れたことに気付いた。




「あっつ、」



急に蒸し暑く感じる空気、指先の鈍い痺れ。

フロントガラスから差し込む強い西日に、思わず顔を顰める。

たまらず腕で光を遮ると、冷たい肌に瞼の熱がじわりと染みた。



「(また明日、か)」



今日もあいつは、自分の家に帰っていったんだ。

そこに、何が待ち構えているかを知りながら。


感謝していると言ってもらえたこと、味方だと思ってくれていたことは、もちろん嬉しかった。

俺の努力は決して無駄ではなかったと分かって、良かった。


それでも、手放しに喜ぶことは、どうしても出来なかった。

第一段階を突破しても、問題解決には程遠い。

父親との関係を清算しない限り、相良の苦悩は終わらない。


"今はまだ耐えられる"。

先程はそう言っていたが、逆を言うと、いつまでなら耐えられるということなのだろうか。


高校に進学すると同時に一人暮らしでも始める気でいるなら、あの発言にも納得がいくけれど。

父親が援助をしてくれるとは思えないし、学費だって払い続けられるか怪しい。


これまで虐待の件ばかり注視してきたせいで、あいつの受験のことまで配慮できていなかった。

今後は家庭云々だけでなく、進路や身の振り方についても考えてやる必要がある。


沢井先生が戻られるまで、もう本当に、残り少ない。

スムーズにクラスを引き渡せるよう、今のうちに地盤を固めておかなくては。



「(帰ったらまず、ここ一週間にあったこと、沢井先生にメールで報告しないとな)」



気合いを入れて上体を起こす。

車を再発進させると、相良のいた助手席から穏やかな風が吹いてきた。

火照った頬が、少しだけ冷めた。


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