:第八話 破けた殼 6
ごった煮競争、終了後。
体調不良を理由に、相良は選抜リレーの出場を辞退。
相良の後釜には別の男子生徒が選ばれ、1組の選手たちは相良の抜けた穴を埋めるべく、懸命にバトンを繋いだ。
その間、当の相良はというと、医務室のベッドで横になっていた。
担当の保健医によると、症状は重くないものの、しばらく安静にした方が良いとのことだった。
俺は相良の体調が落ち着くまで、競技場と医務室とを行ったり来たりした。
来なくていいと断られても、リレーの方に集中しろと叱られても、何度でも相良の顔を見に行った。
よほど心配なんですね、と保健医に笑われることが、この時の俺には一番の薬だった。
『────参加選手一同の健闘を称え、ここに総合成績を発表します』
選抜リレーが終了すると、いよいよ結果発表。
我が3年1組は、準優勝という成績に終わった。
一部までは危なげなくトップの座を維持していたのだが、ごった煮競争での順位が思わしくなかったことと、選抜リレーで相良が抜けたことが痛手となったようだった。
しかし、誰一人として相良を責める者は出なかった。
忙しい合間を縫って、医務室まで見舞いに来てくれた葵くんや谷口を筆頭に、多くの者が相良の不調を心配してくれた。
改めて、相良はクラスメイト達から尊敬されている人物なのだということを、俺は実感した。
特別に親しくはないだけで、みな相良を嫌っていたわけではないようだ。
それが分かっただけでも、俺は我が事のように嬉しかった。
『これにて、第42回、西嶺中学校、体育祭を終了します。
参加選手の皆さん、お手伝いをしてくれたスタッフの皆さん、先生がた。
最後まで、お疲れ様でした』
締めくくりに、優勝旗の贈呈、実行委員副員長によるスピーチ。
本来は委員長である谷口が登壇すべきなのだが、単独でのスピーチは自信がないと、谷口自ら辞退したらしい。
それから全員で会場の後片付けをし、体育祭は幕を閉じた。
優勝旗は古賀先生の車で学校まで運ばれることとなり、生徒たちは各々現地解散で帰路についた。
一般生徒の多くは自転車移動、もしくは父兄による送迎で、相良も自転車で会場入りしたという。
だが、行きと違って、今は病み上がりの身。
養生のおかげで腹痛はマシになったようだが、足元はまだ時折ふらついている。
そこで俺は、自宅まで俺の車で送らせてくれと、相良に申し出た。
本人には必要ないと遠慮されたが、そもそも相良が体調を崩したのは、俺のせいでもあるからだ。
体調不良の生徒を担任が送り届けるという体であれば、俺が相良を贔屓していると周りに疑われることもないはずだ。
**
「───自転車、後ろに積んどくから。
お前は先、助手席座ってて」
「わかった」
後部席の一角を畳んでスペースを空け、相良の自転車をトランクに積み上げる。
作業を終えて運転席に乗り込むと、助手席に座った相良はシートベルトを締めていた。
「出すぞ。いいか?」
相良は無言で頷いた。
俺は相良の体に負担を掛けないよう、慎重に車を発進させて、会場を後にした。
公道に出ると、自転車で帰宅途中の生徒と何人か擦れ違った。
今日の楽しい思い出なんかを、あれやこれやと振り返っているんだろう。
友人と語らいながらペダルを漕ぐ姿は、とても晴れやかで瑞々しい。
片や、俺の隣に座る相良はというと。
そんなクラスメイト達の様子を、助手席の窓から寂しげに眺めていた。
「車酔い、してないか?気持ち悪くない?」
「……大丈夫。
俺が軽く話し掛けると、相良は気怠げに座席に寄り掛かった。
先程までと比べると顔色は良くなったが、雰囲気は腹に一物抱えた風だ。
選抜リレーに参加できなかったことが悔しいのか、みんなに心配をかけたことが恥ずかしいのか。
なにか言いたそうな顔をしているものの、自分からは口を開こうとしない。
思うところがあるなら、そろそろ俺にぶちまけてくれてもいいのに。
じれったさから、ハンドルを握る手に力が入る。
「(自転車でこの距離は、けっこう大変だっただろうな)」
今日のバイトは休みだそうなので、常葉亭に寄る必要はない。
現在地から相良の自宅までの最短ルートは、次の道を左折か。
ウインカーを出して減速し、左にゆっくりハンドルを切る。
直前で信号が黄色に変わる。
無理に進もうとせず、停止線の前で一時停止する。
エンジン音が止まる。
車内に静けさが訪れる。
目の前の横断歩道に、複数の人影が現れる。
若い母娘と、小学生らしき少年少女の三人組。
仲良く歩いて渡っていく。
相良を乗せて車を走らせるのは、これで二度目。
あの時も痛いほどの沈黙が流れていたことを思い出す。
だが当時と比べると、同じように沈黙が流れても、あまり息苦しく感じない。
不思議なものだ。
シチュエーションは前と一緒のはずなのに、距離感が変わっただけで、沈黙の意味さえ違ってしまうのだから。
「なあ、相良。聞いてもいいか」
しばらくの間を置いて、俺は再び相良に話し掛けた。
相良は音もなく、こちらに振り向いた。
日差しを帯びた茶色の髪は、キラキラと金色に輝いていた。
「なに?」
車道の信号が青に変わる。
俺は十字路を左に曲がり、ひとつ深く息を吸い、吐いた。
「いつも、どのくらいの頻度で殴られるんだ。
今朝みたいに、明け方叩き起こされるなんてことは、しょっちゅうあるのか」
ずっと気になっていて、ずっと聞けなかったこと。
相良の方からそれを明かしてくれるタイミングを、俺は長らく窺っていた。
際どい話はこちらが言及するより、本人が切り出すのを待つべきだと思ったからだ。
けれど、今なら。
尋ねれば、答えてくれる気がした。
いつかは踏み込まなければならないことだし、早く次の段階に進まないと、という焦りもあったかもしれない。
「頻度、か」
俯いた相良は、膝上で自分の両手を合わせた。
ぎこちなく絡めた指先は、微かに震えているように見える。
やはりまだ、"その時"ではなかっただろうか。
「特に、周期が決まってるわけじゃないよ。あの人が気まぐれを起こしたら。
三日連続の時もあれば、一週間なにもされない時もある」
「なにもされない時、の期間は、最長でどれくらいなんだ?」
「11日。
そういう時は、決まって家を空けてるから。
単に顔を合わせる時間が減った分、殴られる回数も減ったってだけ」
思いの外スムーズに語り始めた相良。
俺は内心で安堵の溜め息をついた。
虐待の件について言及しても拒絶されなくなったってことは、俺と相良の関係も少しは進展したってことで、いいんだよな。
「でも、明け方に起こされるようになったのは、最近かも」
「前まではなかったのか?」
「うん。
夜中とか、寝る前にやられることはあったけど。
寝てたとこを無理やり起こして、ってのは、今まではなかったと思う。
最近は一日中帰らない日とかあるから、そのせいかもしんない」
相良いわく、明け方に殴られるようになったのは、つい最近からだという。
夜遊びの多い父が朝帰りをするのは茶飯事で、時には終日家に寄り付かない日もあるとのこと。
今年に入ってからは、二日連続で家を空けることも増えたらしい。
外で女でも引っ掛けているのか、酒でも呷っているのか。
いずれにせよ、訳も告げずに消えるものだから、その間父がどこで何をしているのか、相良は一切知らないそうだ。
ただ、数日ぶりに帰る父はいつも不機嫌で、帰宅するなり相良に手酷い八つ当たりをするのだという。
明け方に叩き起こされるようになったのはそのせいで、家を空ける理由にも、込み入った事情があると思われる。
今年に入ってから始まった現象、というのが気になるところだが。
いかんせん、父の目的が分からない以上、推測は難しい。
「いっそ、そのまま事故にでも遭って、二度と帰って来なけりゃいいのにね」
独り言のように呟いた相良の横顔には、冷笑が浮かんでいた。
一応は保護者として、中学生の息子を何日も放っておくのはどうかと思うが、その方が相良にとっては都合が良いのだろう。
父の存在がなければ、いつまた殴られるかと怯えなくていい。
家にいる間もゆっくりできるし、飯を食う時間も床に就く時間も、自分の好きにできる。
誰にも指図されない。
誰にも咎められない。
父が側にいない間は、相良も自由でいられるのだ。
父親の影が、いかに相良の青春を、人生を束縛しているか。
たとえ肉親であっても、憎んでしまえば血の繋がりなど関係ない。
むしろ血が繋がっているからこそ割り切れないこともあるし、許せないこともある。
それでも相良には、父しかいない。
どんなに卑劣で悪辣な人物であっても、子供は親しか頼れる相手がいない。
故に大人は、責任を持って新しい命を生むものだ。
守り抜く覚悟を決めて、新しい家族を作るものだ。
それが当たり前で、誰しもが必ず持ち合わせていなければならない信念のはず、なのに。
相良みたいな子供が、今の時代、どれほどいるんだろうかと。
考えれば考えるほど、嫌になるくらい、現代には深い闇が潜んでいることを思い出す。
家族とは一体なんなのか。
親とは、なんのために在るのか。
人は、なんのために生まれてくるのか。
客観的に見れば、相良の境遇もまた、数ある不幸の一つに過ぎないのかもしれないけれど。
今、俺の隣にいるこの少年は、多くの例の一つじゃない。
彼も一人の人間で、一つの人生を持っている。
誰に省みられずとも、彼だけのドラマがそこにある。
可哀相だけど、よくある話。
そんな言葉で纏められないくらいには、俺は相良を。
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