:第七話 忘れてはならぬと電話が鳴る 2



放課後。

バスケ部の練習に合流しようというところで、相良からの定時連絡が入った。



"これからバイト。

今日は団体の予約入ってるから、ちょっと忙しくなりそう。"


"でも賄いにオムライス作ってくれるらしいから楽しみ。"



文面を見る限り、今日も無事に常葉亭まで辿り着けたようだ。

オムライスが好物という話は初めて聞いたが、あいつの楽しみが増えたなら俺も嬉しい。


以前までは、"これからバイト"の一文が素っ気なく送られてくるだけだったのに。

今ではこうして、個人的なことも教えてくれるようになった。

俺にとっては最早ただの安否確認ではなく、相良からのメールが日々の癒しとなっている。



"そりゃ大変そうだな。

張り切り過ぎて倒れないように気を付けろよ。"


"今日もバイト頑張れ。"



こちらも返信用の文章を作成し、あいつの宛先に送信しようと指先を動かした。

すると直前に着信が入り、スマホの画面が切り替わってしまった。


あとちょっとで送れたのに。

眉を寄せつつ着信の相手を確認すると、思ってもみなかった人物の名前が表示された。


"叶崎美和子"。母だった。


俺は驚きでスマホを落としそうになったが、メール作成のため両手を使っていたおかげで、何とか落とさずに済んだ。


動揺を周囲に悟られないよう、速やかに職員室を出る。

隣接する応接室まで移動すると、滅多に使われることのないそこには、誰もいなかった。


部屋の中央にはテーブルが一つ、テーブルの周りにはパイプ椅子が四つ置かれている。

窓からはグラウンドが一望でき、手狭な室内をオレンジの日差しが照らしている。


ここなら、電話の声を誰かに聞かれる心配もないはずだ。

念のためドアの鍵を閉めてから、覚悟を決めて電話に出る。




「───もしもし」


『あ、豊ぁ?

久しぶりねぇ、元気してたぁ?』



スピーカー越しに、聞き慣れた母の声。

実年齢はまだ50代前半なのに、まるで老婆のように張りのない声だ。


喋り方もぶっきらぼうで、コギャルのように語尾を上げるものだから、相手によっては馬鹿にしていると解釈され兼ねない。

現に俺は、母の声と物言いを耳にする度に、そう感じている。



「まあ。おかげさまで」



俺は淡々と返した。

母はケタケタと笑いながら、"相変わらず堅物ね"と言った。


誰のせいでこうなったと思っている。

今にも通話を切ってやりたい気分だったが、とりあえず用件を尋ねてやることにした。



「で、急に何の用ですか?

わざわざ電話してきたってことは、なにか言いたいことがあるんでしょう」


『え?あー、うん。まあ、一応ね。

あんた今日、誕生日でしょ?母親として、おめでとうの一つでも言ってやろうと思って』



思いがけない母からの言葉に、俺は息を詰まらせた。

この人が、俺の誕生日を覚えていたなんて。

しかも、お祝いの電話まで掛けてくるなんて。


意外を通り越して、不吉な珍事だ。

明日は雪でも降るんじゃないか。



『で、何歳になったわけ?』


「………27です」


『へー。あんたももう一人前の大人だねえ』


「あなたはいつまで経っても若者のようですね」


『アハハありがとー』


「褒めてません」



先日顔を合わせた時にも思ったが、日に日に精神年齢が退行しているんじゃないだろうか。

昔はもう少しまともだった気がするし、喋り方だってこんなじゃなかった。

いい親だったかと聞かれれば答えにくいが、少なくとも俺が子供だった頃までは、母として努めてくれていた。


それが今じゃ、この有様だ。

あの日・・・を境に、年々悪化している。


酒ってのは、適量を誤ると、薬物にも等しい毒性を持つものだ。

どんなに真っ当な暮らしをしても、志を持っていたとしても、酒の力はその全てをあっという間に覆してしまう。

酒は飲んでも呑まれるな、とはまさにこれだ。



「用件はそれだけですか?他にないなら切りますよ」


『ええー?

せっかく電話してやったのに、あんまりつれなくない?』



せっかく誕生日だからと電話してきてくれたのに、さすがに愛想がなさ過ぎる。

自分でもそう思うが、この人の場合、構った分だけ余計なことを仕出かすのだ。

手短に切り上げないと、互いに傷付け合う結末になる。



「悪いけど、こっちもそんな暇じゃないから。

急用じゃないならまた今度に───」


『ちょっと待って。

最後に一個だけ頼まれてくんない?』



一方的に話を纏め、有無を言わさず通話を終了させようとした時。

母の切羽詰まった声が聞こえて、ついシャットアウトを留まってしまった。


悩みどころだが、もしかしたら本当に重要な相談かもしれない。

少し考えて、俺は再びスピーカーに耳を寄せた。

のが、間違いだった。



「なに?頼みって」


『……言い辛いんだけどさ。

お酒、買ってきてくんない?出来ればビールかウイスキー』



案の定返ってきた"余計なこと"に、俺はきつく顔を顰めた。


そんなことだろうと思った。

誕生日を祝うなんてのは、結局ただの口実。

最初からこれを目的に電話してきたってのも、全く予想しなかったわけじゃない。


だけど。

本当に予想通りのことをされてしまうと、呆れを通り越して虚しさを覚える。

久々に連絡をくれた理由が、酒買ってきてほしかったからとか。


この人にとって、俺はその程度の価値しかないのだと。

分かりきったことでも、やる瀬なさが込み上げてくる。



「今後は控えるって、約束したよね。祖父じいさん祖母ばあさんからは何も言われないわけ?」


『母さん達に言うと怒られるから、あんたに頼んでるんじゃない……!

ね、お願い。ちょっとでいいからさ。これっきり本当にやめるから』



俺が咎めると、母さんは急に後ろめたそうに声を潜めた。

悪いことをしている自覚は一応あるようで、口ぶりも先程と比べて殊勝だ。


それもそのはずか。

祖父母と同居している彼女は断酒中の身で、医者からもドクターストップを掛けられている。

少しでも金を持たせると酒に消費してしまうので、祖父母も心を鬼にして、私的な小遣いは与えてやらないことに決めたという。


俺に縋ってきたのも、そのせいだろう。

金がないため、自分では調達できず。

かといって祖父母にお願いしても、聞いてもらえるはずがない。


その点、俺とはあまり接点がないから、たまに要求する分には、うっかり応えてくれるかもしれないと期待したわけだ。

侮られたものだ。


"これっきり"。"少しだけ"。

中身のない台詞も、いいかげん聞き飽きた。

抑えることなく溜め息を吐き出し、ぼんやりと窓の外を眺める。



「いくら頼まれても、できないものはできない。

いい加減やめないと、そのうち本当に死ぬよって、医者にも言われたんだろ?

今後はゆっくり更生していくって、自分で約束したの忘れたか?

これ以上、祖父さん祖母さんを困らせるなよ」



俺は断固として応じない姿勢を見せた。

すると、スピーカーの向こうが静かになった。


言い訳を考えているのか、痛いところを突かれて絶句しているのか。

珍しく、何も言い返してこない。


暫くの間を置いて返ってきた一言に、俺の方が絶句させられた。



『あんたってホント偽善者よね。

そういうとこ、間抜けな父さんそっくり』



吐き捨てた後、ぶつりと通話は切られた。


なにか、言い返してやりたかったのに。

こちらが反応する前にシャットダウンされたせいで、罵倒の一つも出来なかった。

いや、そうじゃなくとも、俺は言葉が出なかっただろう。


スマホを持つ手が力を失い、がくんと肩が落ちる。

壁伝いにしゃがみ込み、思考を一時停止する。


きっと窓の向こうでは、美しい夕焼けに染まった景色が広がっている。

練習中のサッカー部たちは、元気にグラウンドを駆け回っている。



落ち着け、俺。

こんなの、いつものことだ。

あの人はそういう女だって、嫌というほど理解したはずだろ。


平気だ。大丈夫。

これくらい、どうってことない。

真に受けたら駄目だ。俺は俺なんだから。

アル中の戯言に、いちいち心を乱されるな。



「父さん」



平気なはずなのに。

乗り越えたはずなのに。

気付けば父を求める声が口から出ていて、一層の虚無感が胸を締め付けた。


偽善者。そっくりか。

母さんにそれを言われたら、さすがに無視は出来ないな。


今の俺たちを見たら、父さんはなんて言うだろう。

悲しむだろうか。自分を責めるだろうか。

自分の選択は間違いだったと、過ちを認めてくれるだろうか。


どうして、こうなってしまったんだろうな、俺たちは。


いつの間にか照明が消えていたスマホの画面を見ると、能面のような自分の顔が映った。



「はは」



ついさっきまで最高の誕生日だったのが、一瞬にして、最悪の誕生日になった。


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