:第七話 忘れてはならぬと電話が鳴る



5月23日。

最近、相良が俺に優しくなった。

年上に対するものとは思えない口の利き方は変わらずだが、当たりは少しだけ柔らかくなったように感じる。


学校で話し掛けても嫌な顔をされなくなったし、メールのやり取りも以前より増えた。

ここ数日に至っては、あいつの方から気まぐれに連絡してくることさえある。


"今なにしてんの?"。

と何気ないメッセージが送られて来た時には、ようやく俺にも興味を持ってくれたかと、ついニヤニヤしてしまった。


あれだ、野良猫を手なずけた感覚。

構いすぎると爪を立てられるが、放っておくと向こうから寄ってくる。

元から猫みたいなヤツだとは思っていたが、この場合、野良猫が飼い猫になりつつあるという表現が近いかもしれない。



そして何より。

家での様子を言及しても、怒らずに返事をしてくれるようになった。


相良にとって最も触れられたくない話題が父親についてで、家に帰った後を尋ねるのはタブー中のタブーだった。

だから俺も、核心に迫ることはせずに様子見を続けてきた。

あいつの機嫌を損ね、せっかく縮めた距離を振り出しに戻さないために。


ところがだ。

どういう心境の変化か、あいつ自ら父について話をするようになった。


今日は殴られたか、殴られなかったか。

その日虐待が行われたか否かを報告するだけの内容だが、あいつにとっては大きな変化だった。



思えば、相良の携帯が壊れた日から、徐々に態度が軟化している気がする。


あの日を境にじわじわと口数が増え、俺と目を合わせる回数が増え、全身に纏う針の本数が減った。

ひょっとしてこれは、あの時の俺の行いが相良の琴線に触れた、ということなのだろうか。

俺が死ぬほど心配したのが本人にも伝わったから、あいつなりに自らの言動を省みたとか。


真意は定かでないが、相良が俺に優しくなってきたのは確かだ。

少なくとも、当初のような一方通行はもうない。



"だから、もう少し待ってください"。

"先生が、奴らとは違うって分かったら、あいつも返事するようになると思うし"。



先日の葵くんの言葉も、ただの当て推量ではなかったわけか。


頃合いを見て、彼も行動を起こすと言っていた。

次のターニングポイントは、葵くんが再び接触を図ってきた時になるかもしれない。




**


今朝も無事に出勤し、まだ人の集まっていない職員室でデスクに向かう。

そこへ、一足遅れてやって来た古賀先生が、陽気に声をかけてきた。



「豊センセ!おはよーございます!」



お馴染みの白ジャージに、丸みのある体つき。

人の好さそうな円らな瞳に、整えられた太い眉。

ワックスで固めているわけでもないのに、重力に逆らった黒髪。


元々の顔立ちは彫りが深くてハンサムなのだが、いかんせん膨よかな体型が目についてしまうため、格好いいよりは優しそうという印象の男性である。


そして、毎度ながらテンションが高い。

今日も今日とてエネルギーが有り余っている調子で、古賀先生の周囲だけ気温が上がっている気さえする。



「おはようございます。

今朝もエネルギッシュですね」



俺も直ぐに挨拶を返すと、古賀先生は俺の右隣のデスクに着席した。

ここが彼の定位置であり、こうして親しくなれたのも、席が隣同士というきっかけがあったからだ。



「にしても、今朝は蒸し暑いですよね。

じわじわ夏が迫って来てるって感じで」


「あら、豊センセは夏がお嫌いですか?」


「んー、嫌いってよりは、単純に苦手ですかね。

海水浴とかバーベキューとか、季節のレジャーとかにも、あんまり興味ないんで。

夏が来ても、ただ暑いなって思うだけです」


「そんな勿体ない!

センセはまだお若いんですから、ジジ臭いこと言ってちゃダメですよ!

だからボクより年上に見えるとか言われるんです!」



前のめりに語りかけてくる古賀先生。

この暑苦しさが彼の個性なのだと理解しているが、朝からこの調子で来られると、たまに疲れる。



「アハハ。

こないだ、クラスの子にも似たようなこと言われました」



俺が渇いた笑いで誤魔化すと、古賀先生は含みのある心得顔をした。



「……仕方ないですね~。

じゃあ、可哀相な豊センセイに、元気の出るものをプレゼントしてあげましょう」


「元気の出るもの……?

なんですか、藪から棒に」


「さてなんでしょう!」



そう言って古賀先生は椅子ごと後ろに振り返り、俺に背を向けた。

前屈みに上体を丸めた彼の足元からは、ごそごそと紙の擦れる音が聞こえてくる。

床に置きっぱなしだった荷物を確かめているようだ。


そういえば今朝は、通勤鞄の他に、見慣れない紙袋も下げていたな。

それの中身を取り出そうと、袋を漁っているんだろうか。



「ンッフッフ~……」



再びこちらに向き直った古賀先生は、満面の笑顔であるもの・・・・を差し出してきた。



「誕生日おめでとーう、豊センセ!

今後の門出を祝って───、って言うとちょっと遅いけど。

とにかく、プレゼント買ってきたから!受け取れ!」



古賀先生の右手に掲げられた、細長いシルエット。

わざわざ持参したらしい紙袋の中に入っていたのは、なんと日本酒の一升瓶だった。

左手には外国産の珍味やらスナックやらを抱え、とどのつまり、宅飲みに必要な一式を俺にやると言ってきたのだ。



「ちょ、うわ。

先生、ここが学校って分かってます?

お酒持ち込む人なんて初めて見ましたよ!」


「固いことを言わないで!ここで飲めってんじゃないんだから!

あくまでお持ち帰り用!ガールフレンドとでもしっぽりやってちょうだいな!」


「が、ガールフレンドっすか……」



まさか学び舎で酒を贈られるとは思わなかったので、古賀先生のサプライズには驚かされたが、祝ってやろうという厚意は素直に嬉しかった。


実のところ、彼に指摘されるまで、今日が自分の誕生日であることをすっかり忘れていたのだ。

忙しさにかまける内に、自分の生まれた日すら記憶になくなる、なんて。

他人事とばかり思っていたのに、自分もそれを体感する日が来ようとは。

俺も歳をとったわけだ。



「でも、覚えていてくださったのは嬉しいです。ありがとうございます。

機会があれば、イイ人と飲ませてもらいますよ。機会があればね」



古賀先生の菩薩のような笑顔に思わず吹き出しながら、俺は宅飲みセットを受け取った。

すると他の先生がたも、続々と周囲に集まり始めた。



「なになに、叶崎くん今日が誕生日なの?」


「わー、おめでとうございます!」


「そうならそうと言ってくれれば、みんなでケーキでも買ってきたのにねえ」



こぞってお祝いの言葉を掛けられる。

ちょっと照れ臭いけれど、たまには特別扱いされるのも悪くない。



「ケーキをご所望ですか~、みなさ~ん」



ふと、どこからか女性の声が聞こえてきた。

俺を中心に取り囲んでいた先生がたが道を空けると、現れたのは葛西先生だった。


いつの間に出勤していたのか、両手に大きな白い箱を抱えた彼女は、厳かに俺の元まで歩み寄ってきた。

その芝居がかった言動が可笑しくて、俺はまた吹き出しそうになったが、彼女が何やら企んでいるようだったので、ここは成り行きに任せることにした。



「叶崎先生!

27歳の誕生日、おめでとーございます!」



俺の目の前で立ち止まった葛西先生は、ひときわ大きな声でそう言うと、抱えていた箱の蓋を開けてくれた。


中に入っていたのは、やっぱりというかなんというか、バースデーケーキだった。

真っ白な生クリームの上には、"HAPPY BIRTHDAY"の文字と、俺の名前とがチョコペンで綴られている。

本人以外の反応を見るに、葛西先生が個人的に発注してくれたものと思われる。


俺は席を立ち、祝ってくれた全員に感謝の気持ちを伝えた。



「ありがとう、ございます。古賀先生と、皆さんも。

なんか、改まっちゃうと気恥ずかしいですけど。嬉しいです。

皆さんからのご厚意、しっかり受け取らせて頂きます」



俺の簡潔なスピーチが終わったタイミングで、葛西先生がケーキの箱を差し出してきた。

俺が戴冠式よろしくな姿勢で受け取ると、たちまち温かい拍手が湧いた。


アラサー男子もとい、オジサン予備軍の誕生日を、ここまで熱烈に祝ってくれるなんて。

前の学校でも誕生日を祝ってくれる同僚はいたが、職場にケーキまで用意されたのは初めてだ。




**


葛西先生が買ってきてくれたケーキは、共有の冷蔵庫に置かせてもらうことに。

一旦のお開きとして、皆それぞれの持ち場へと戻っていった。


葛西先生からは他にプレゼントも贈呈され、高級なフェイスタオルを二枚頂いた。

授業やバスケ部のコーチをしている時にでも使ってくださいと、包みには手製のバースデーカードまで添えられてあった。


自分のデスクに着いた葛西先生にもう一度目をやると、こちらの視線に気付いた彼女は小さく会釈してくれた。

誕生祝いの心遣いも勿論嬉しかったが、俺は彼女がいつも通りに戻ったことに安堵した。



先日、折り入って話をしたのだ。

相良の虐待の件で、俺は彼女に本当のことを打ち明けた。


事実を知った彼女は、酷く傷付いた顔をしていた。

その可能性も考えたと口では言っていたが、それでもショックには違いなかったはずだ。

実際に直面した俺ですら、受け入れるのに時間がかかったのだから。


それに、葛西先生には鈴原先生との面識もある。

鈴原先生を信用していた彼女にとって、彼の軽薄な行いは、意外を通り越して軽蔑に値するものだったに違いない。

自分が余計なアドバイスをしたせいで、尚さら相良を苦しめてしまったと、最後には物も言えなくなるほど思い詰めていた。



しかし同時に、こうも言ってくれた。


"本当のこと、話してくれてありがとう"。

"彼を救ってあげたいって気持ちは私も同じだから、私に出来ることがあれば、なんでも言ってください"。

"私は、叶くんの指示に従います。あなたの判断を信じます"と。


どうやら、俺が想像していた以上に、葛西先生は強い女性だったらしい。

以前と変わらず気丈に振る舞う姿が、ここにきて初めて本物の年上に見える。


やはり、打ち明けて正解だった。

俺が勝手に打ち明けたと知れば相良は怒るだろうが、相手が彼女なら許してくれるのではないか。



「隙アリッ!」


「あ」



ぼんやり思案していると、葛西先生からのバースデーカードを古賀先生に取られてしまった。

先程から羨ましそうにこちらを見詰めていたので、俺が油断するのを狙っていたのだろう。

葛西先生絡みとなると、古賀先生は普段に輪をかけて子供っぽくなる。



「どれどれ……。

───あ、そういや豊センセ。今度バスケ部で強化合宿やることになったんですけど、センセもご一緒にどうですか?二泊三日!」



鑑定士のようにカードの文面を確認するやいなや、古賀先生は何かを閃いた声を上げた。


カードに書かれた"コーチ"の文字で思い出したのだろう。

この時期の合宿となると、中体連に向けての最終調整が目的と思われる。



「あー……。

すいません。せっかくですけど、今回は遠慮させてください」


「えー!こないだもそう言って、中体連の同行断ったじゃないですか!」


「や、参加したくないわけじゃないんですよ?

ただ、今はクラスの面倒みるだけでいっぱいいっぱいというか……。

それに、俺まだ正式なコーチじゃありませんし」


「正式じゃなくても、しっかり働いてくれてるんだから、そんなちーちゃいこと気にしなくていいのに……」



俺は古賀先生からのお誘いを断った。

子供のように駄々をこねる先生には申し訳ないが、いくら食い下がられても俺の意思は変わらない。


先生を軽んじているわけではない。

バスケ部を蔑ろにしているわけでもない。

ただ、そちらにばかり構っていると、いざという時に動けなくなりそうで、不安なのだ。


相良の身にもしものことがあった時、俺は直ぐにあいつの元へ駆け付けてやりたい。

他の用事に時間を取られて、苦しむあいつを放置するような事態を招きたくない。

だからこそ、出来るだけこの校舎から、相良の生活圏内から離れる行動は控えておきたいのだ。


中体連の同行を断ったのも、それが理由だった。

少なくとも、相良が中学を卒業するまでは、俺は積極的に外へ出るつもりはない。


バスケ部には古賀先生がいるからいいが、相良には守ってくれる大人がいないから。

常葉亭にいる間は孝太郎さん達に任せておけるが、他では基本、あいつは一人だから。


たとえ本人は望んでいなくとも、過保護と言われようとも。

取り返しのつかないことになってから、あの時ああしていればと後悔はしたくないんだ。



「今はまだ、色々と不慣れな点が多いので、難しいですけど……。

あと一年もすれば落ち着くと思うんで、古賀先生が愛想尽かさないでくれるなら、来年また声かけてください」


「……じゃあ、来年からは、合宿付き合ってくれます?」


「はい」


「中体連の同行も?今度こそ正式なコーチとして、ボクのサポートしてくれます?」


「ええ。俺で良ければ」



機会があれば、また来年に。

俺が改めると、古賀先生は訝る目つきで聞き返してきた。

その仕種が一々可愛らしいというか、甥っ子に玩具でもねだられているみたいで、可笑しくなってくる。

現実に甥っ子はいないんだけど。



「そっか!そういうことなら許してあげる!来年こそはちゃんと付き合ってもらうからね!

豊センセのモチベーション上げるためにも、今年の中体連は結果出さないとな~」



ものの数秒で機嫌を直し、俺の付き合いの悪さを水に流してくれる古賀先生。

彼のこういうところを俺はとても尊敬していて、ある意味では憧れていたりもする。



「その意気ですよ古賀先生。

うちのバスケ部は強いんだってこと、叶崎先生に証明してあげましょう」


「ありがとう葛西先生!すごくやる気が湧いてきました!」



途中で葛西先生もヨイショを入れてくれ、古賀先生のテンションは早くも平常運転に戻った。

俺と目が合った葛西先生は楽しそうに笑い、俺も彼女と古賀先生の様子に笑ってしまった。


いい同僚に囲まれて、親身な言葉をかけてもらえて。

今年の誕生日は特に、忘れられない一日になりそうだ。


この時、穏やかな空気に寛いでいた俺は、自分の誕生日がどういうものであるかを、全く失念していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る