:第六話 鳴らない電話は親愛の始め 4
「でも、今まで順調に来てるってことは、あいつが本当は中学生だってのも、まだ周囲にはバレてないわけですよね?
悪運が強いって言ったら、嫌な言い方になっちゃいますけど……。過去に一度くらい、ピンチになったりしなかったんですか?」
コーヒーを飲み終えたタイミングで、俺は何気なく問うた。
孝太郎さんも自分の分を飲み干すと、空になった容器を片手で潰した。
容器の固く軋む音と、孝太郎さんの長い溜め息が漏れたのは、同時のことだった。
こちらとしては、当たり障りのない言葉を選んだつもりだったんだけど。
もしかして、聞いちゃまずい話題を振ってしまっただろうか。
なにやら雰囲気が一変した孝太郎さんに気付き、俺は密かに肝を冷やした。
「そのことなんですけど。
もうひとつ、先生に確認しておきたかった話があるんです」
ここにきて、孝太郎さんの顔付きは別人のように険しくなった。
もともと切れ長だった目は一層鋭さを増し、視線だけで人を失神させられそうなほど。
この様子だと、これまでの話はあくまで前座で、本題は別と思われる。
「さっき、あいつをウチで働かせることに、俺は反対したって言ったでしょう?
人手を増やすだけならまだしも、そこらの中学生に飯屋のバイトは勤まらないって」
「ええ。
それが普通の反応だと思います」
「ですよね。俺もそう思います。
ただ俺の場合、あいつをウチに引き入れたくなかったのには、もうひとつ理由があったんです」
駐車場の前を一台の軽自動車が横切り、ヘッドライトの光が一寸の闇を切り裂く。
みるみる遠ざかったエンジン音は、周囲に長く余韻を残していった。
「はじめて楓を見た時、えらく貧相なガキだなって正直思いました。
同時に、こうも思ったんです。こいつは所謂、訳ありの子供だなって。
俺があいつを側に置きたくなかったのは、あいつがただの中学生で、普通の中学生じゃなかったからなんです」
相良を雇うことに孝太郎さんが反対した一番の理由は、相良がまだ"中学生だから"だった。
一方で、個人的に相良を側に置きたくないと思った理由は、相良が"普通の中学生ではない"ことに関係していた。
相良の姿を一目見た瞬間から、孝太郎さんは相良の内に潜む毒に、相良の纏う闇の気配に気付いてしまった。
だからこそ、厄介な存在を軽はずみに引き入れるべきではないと懸念したのだ。
「冷たいことを言うようですが、俺は我が家にトラブルを招きたくなかった。
万一あいつが事故や事件なんかに巻き込まれた場合、こっちにも少なからず火の粉が来る。
人の口に戸は立てられないし、あいつの存在が店に悪影響を及ぼさないとも限らない。
……もちろん、可哀相だと同情する気持ちもありましたし、出来れば力になってやりたいとも思いました。
それでも、はっきり言って、あんまり難しい事情を抱えた子供は、近付けたくなかったんですよ。
我ながら薄情と呆れますがね」
自分で自分を蔑むような口ぶりで、孝太郎さんは語った。
彼の真摯な告白には飾り気がなく、ありのままを晒け出す姿に、俺は圧倒された。
本人は自らを薄情な人間と卑下するが、そんなことはない。
接客業とは、客との信頼関係あってこそ成り立つものだ。
一度でも悪いイメージが定着すると、完全に汚名を返上するのは難しい。
どんなに手厚く遇したって、目を光らせていたって、店から出てしまえば、相良は普通の中学生。
社会的にはまだ庇護される立場にある以上、あいつはあいつの意思のみでは生きられない。
自分たちの側にいる間は守ってやれても、離れたところで問題を起こされては、手の出しようがないのだ。
孝太郎さん達が相良のプライベートに干渉は出来ずとも、相良のプライベートで発生した事柄は確実に店に影響する。
中学生と承知の上で働かせていた内情が発覚すれば、それもそれで問題になるだろう。
一家の破滅を懸念して、厄介事を遠ざけたいと忌避する気持ちは、至極真っ当なものだ。
たとえ相手が子供であっても、爆弾を抱えている可能性があるなら、率先して引き入れたくはない。
あと一年すれば、あいつは中学生じゃなくなる。
高校生になればアルバイトなんて普通だし、年齢を聞かれたら堂々と本当のことを答えられるようになる。
だが、いつか中学生という肩書きを失っても、あいつの中の闇が時間と共に消えることはない。
高校生、大学生、社会人になっても、あいつの生い立ちが"普通じゃない"事実は変わらない。
相良が相良であるがために、あいつの足を引っ張る荷物は、今後とも永続的にあいつを苦しめるだろう。
孝太郎さんが相良を敬遠したのは、そのことに彼も気付いたからだ。
あいつの内に巣喰っている毒が、あいつの力だけでは制御しきれなくなる時が来るかもしれない。
いつどのタイミングで、相良自身が毒に化けるか分からない。
そうなる前に、距離を取っておきたかった。
今やすっかり一員として馴染んだようだが、当初は腫れ物に触れる気持ちで、孝太郎さんも相良に接していたという。
「薄情だなんて……。
ご家族とお店のことを考えれば、そのくらい───」
「いいんです。フォローして欲しくて、こんな言い方をしたんじゃないですから。
客観的な事実として、そうだと自覚しているだけです」
先程の発言を俺が否定しようとすると、孝太郎さんは更に否定を被せてきた。
俺はそれ以上なにも言えなかった。
「先生、俺はね。
詳しい事情は知らないけど、あいつが無理して笑ってるってことは分かるんです。親父もお袋も、態度には出さないだけで、たぶん気付いてる。
先生はどうですか?さっきのご様子だと、先生も大方、あいつの事情を把握してらっしゃるんですよね?
俺は虐待かネグレクトかのどちらかだと思ってるんですが、先生の見解はどうですか?」
まただ。この感じ。
別に自分のことを聞かれているわけじゃないのに、まるで自分が責められているような気分になる。
相良の人生を俺が成り代わって生きているような、俺が相良になったような錯覚を覚える。
相良本人が隠している秘密を、俺から他人に明かしてしまうのは、もちろん忍びなかった。
だが、それだけではない。
後ろめたさ以外にも、なにか。
自分の口から、あいつを語ることに、妙な抵抗がある。
「虐待です。
あいつは、父親から虐待を受けてる」
意を決して事実を告げると、今度は俺が相良の父親のような気分になった。
俺こそが、あいつに虐待をしている感覚。
自らの罪を告白している感覚だった。
「そうですか」
孝太郎さんは眉間にうっすらと皺を寄せ、鼻から溜め息を吐いた。
「なんとなく、そんな気はしてましたけど。
本当にいるんですね、我が子に暴力を振るう奴って」
目元を掌で覆い、独り言のように呟いた孝太郎さんの声は、微かに怒りに震えていた。
「最初は、関係を持つことに少し抵抗がありましたけど。
今となっては、知り合って良かったなって、心から思うんです。
楓は、本当にいい子だから。経営の一戦力としてだけじゃなく、一人の人間として、あいつはいいヤツなんです。
あれだけ警戒しておいて虫のいい話ですけど、気付けば俺も、楓を好きになってました」
「ええ」
「だから、あんなに優しくて綺麗な子を、当然のように傷つける輩がいるんだと思うと、
───殺してやりたいですよ。今すぐに」
葛西先生、葵くん、冴島さん。
そして孝太郎さん。
一人、また一人と、相良の世界に登場人物が増えていく。
あいつの味方をしてくれる人が増えるのは、俺としても喜ばしい。
そうだ、集中しろ。
余計なことを考えるな。
俺が見ているのは相良であって、鏡ではない。
自分の過去をいちいち蒸し返しているようでは、先にこちらが参ってしまう。
今は、相良の味方がもう一人見付かったことを、素直に喜べばいいんだ。
学校にいる間は俺が、店にいる間は孝太郎さんが、相良を守る。
あとは"家"という魔窟から、どうやって相良を解き放つかだ。
「殺せるものなら、俺も殺してやりたいです。
けど、父親と無理やり引き離して、それで全て丸く収まるかと言えば、そうもいかない気がする。
きっちり清算しない限り、あいつは一生、父親の影に怯えて生きることになる」
「ですね。
人間って、なんで、生きるだけでこんなに、手間がかかるんでしょう」
「……ええ、本当に」
生きるだけで手間がかかる。
確かにその通りかもしれない。
こうして俯瞰を気取っている俺たちだって、大なり小なり罪や恥を抱えて生きている。
本能の赴くまま生きられる人間なんて、この世に一人もいないのかもしれない。
「先生。
出来ることは限られますが、俺でも何か、力になれますか」
上体ごとこちらを向いて、孝太郎さんは言った。
俺は右手で自分のコーヒーの容器を握り潰し、少し考えてから頷いた。
「見守ってあげてください。何事もなかったみたいに。
普通の子供と接するみたいに、普通に怒ったり、褒めてあげてください。
事情があるからって気を遣われるより、そういうの全部抜きにして扱ってやった方が、あいつのためには良いと思います」
「……わかりました。
こちらは今後とも、平常通りやらせてもらいます。
それで、先生は?先生の方は、これからどうされるおつもりなんですか?」
「そこは、まだ何とも言えませんが……。
どうにかして、虐待を防ぐ方法を考えます。力づくでも消去法でもなく、あいつが自然に、自由になれる道を見付けます。
ですから、孝太郎さん。
少しの間でいいので、あいつに、普通でいられる時間を与えてやってください」
"お店にいる時は、どうか相良のことをよろしくお願いします"。
難しいお願いをしていると承知の上で、俺は頭を下げた。
孝太郎さんは迷わず頷いてくれた。
恐らく、相良が唯一自分らしくいられる場所が、常葉亭だ。
学校では優等生を演じなければならず、家では父との距離感に神経を擦り減らせる。
そんなあいつが、唯一穏やかに呼吸できる場所が、ここなんだ。
ようやく見付かったあいつの居場所を、奪う真似はしたくない。
可能な限り、あいつの最後の砦として、常葉亭には機能していてもらいたい。
あいつにとって必要なものを残し、害となるものだけを摘出する。
実現させるには繊細な計略と知恵が必要になるが、一番は何より、あいつが笑って生きられることにある。
相良が幸せになるために、孝太郎さん達は最も近い位置にいると思う。
俺にはどうやっても与えてやれないものを、彼らなら無償で、相良に分け与えてやれるから。
孝太郎さん達と相良が離れ離れになってしまわないためにも、今後はアルバイトの件も慎重に見守ってやらなきゃならないな。
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