:第六話 鳴らない電話は親愛の始め 2
『───そんなに、心配した?』
ふと、相良の声が静かになった。
たとえ悪気がなくとも、職場や俺に手間をかけたことに対し、責任感を覚えたようだ。
気が咎めている様子が、呼吸の浅さから伝わってくる。
「そ───、りゃあ、まあ……。
心配したよ。当たり前だろ?俺、お前の先生だし。
───どうして?」
なんでそんな今更なことを聞くのか。
逆に問うと、言い辛そうに一拍置いてから返答があった。
『なんか、声、震えてるから』
指摘されて初めて、俺はスマホを持つ自分の手が、微かに震えていることに気付いた。
別に、悴むほど外が寒いわけではない。
走り回って疲れもしたが、疲労困憊というほど体力を消耗したわけでもない。
なのに、気付けば指が、肩が、呼吸が震え出して、止まらなかった。
この震えは、紛れもない安堵から来たものだ。
相良が無事で心底ほっとしたから、ついそうなっているのだと自分でも分かる。
しかし人からの指摘を受けて、もう一つ原因があるらしいことも、たった今自覚した。
『ほんとはさ、もっと早くに連絡するつもりだったんだよ。
でもさ、……言い訳臭くなっちゃうけど、今日ショップ、すげー混んでて。
あんたの番号も全然覚えてなかったから、電話しようにも、出来なくて』
「うん。わかってるよ」
『……携帯、壊れた瞬間、真っ先にあんたの顔が頭に浮かんだ。
ここですっぽかしたら、また色々うるさく言われんだろうなとか、思って。だから早いとこ用事終わらして、連絡入れないとって、思った。
あんたが心配してるって分かってたから、ずっと、そわそわしてた』
俺が言及する前に、相良の方から徐に語り始めた。
色々あって疲れたのは、あちらも同じのようだ。
よく聞くと、中学生にあるまじき嗄れ声をしている。
『だから、ごめん、先生。心配かけて。
あと、心配してくれて、───怒んないでくれて、ありがと』
今、あいつがどんな顔をしているのか、見なくても分かった。
きっと、目を細め、眉を下げ、切ない笑みを浮かべている。
相良のこんな声を聞くのは初めてで、その声を知っただけでも俺は、無性に胸が詰まった。
「いいよ。お前が無事なら、それで。お前は何も悪くないんだから、謝らなくていい。
明日も、元気な姿を見せてくれれば、それでいいんだ」
『……うん』
「明日も学校、来るだろ?」
『うん。行く』
なんだろう、この感じ。
相良の声を耳にしていると、胸に空いた穴が埋まっていくような、満たされる感じがする。
こんなにも通話を切るのが名残惜しいのは、どういう感情の表れなんだろうか。
「じゃあ、また明日。おやすみ」
『……おやすみ、先生』
惜しい気持ちをぐっと押し殺して、俺は通話を切った。
ツー、ツー、と一定の電子音が流れ始めると、最後に相良が返してくれた"おやすみ"が、頭の中で反響した。
俺は壁伝いにずるずると腰を抜かし、目頭を掌で覆って、その場にしゃがみ込んだ。
「は、ハハ、ハ……」
また明日、と。
当たり前の明日を約束できることが、こんなにも幸せで尊いものであることを、久々に思い出した気がする。
あの時、相良からの連絡が来ていないと気付いた時、過ぎったのだ。
辛い毎日から逃れるために、あいつは死に走ったのではないかと。
もし、本当にあいつが自殺を選んでいたら。
あるいは、父親の手に掛かって息絶えていたら。
死んでたらどうしようって、ここに向かっている間も、何度も思った。
帰り支度をしている時も、運転の最中も、不安でたまらなかった。
担任としての責任とか、大人としての義務とか、尤もな理屈じゃない。
俺が、俺というただの一人の人間が、あいつの死を直感で恐怖した。
どうか死なないでほしいと、俺の心があいつの生を望んだんだ。
自分と縁のある誰かが死んだ時、残された側がどれほど傷付くか。
それを知っている人間は、臆病なほど、生き物の殺生に敏感になるものだから。
だから本当に、相良が無事で、良かった。
同時に、あの時も、"また明日"と約束していれば。
強引にでも繋いでおいたなら、消えていく影を引き留められたのだろうかと。
どうしようもない"もしも"を考えてしまう自分がいる。
「───大丈夫ですか?先生」
様子を見に来てくれたらしい孝太郎さんが、店内から現れた。
俺は伏せていた顔を上げ、孝太郎さんと目を合わせて、また笑った。
「アハ、ハ……。情けないっすね、俺。
これしきのことで、こんなに動揺するなんて」
「そんなことないですよ。誰かを心配するってのは、そういうもんです。
それで、どうでした?楓から連絡、来たんでしょう?」
「ええ。携帯の方もなんとかなったみたいで、今は家に帰って一人でいるって言ってました。
珍しく神妙な様子でしたよ。借りてきた猫みたいに、シュンとなっちゃって」
「でしょうね。
きっとあの人心配してるからって、ウチに電話した時にも、あなたのこと気にしてましたから」
「そうですか……」
お店に連絡を入れた際にも、相良は俺のことを気にかけていたという。
こちらの方はなんとかなったが、電話番号が分からない以上、俺への連絡は後回しになってしまう。
そのあいだ放置し続ければ、音信の途絶えた自分を心配するだろうからと。
そんな風に思われているということは、俺がどれだけ相良の身を案じているかが、本人にも伝わっていたということだ。
まだ距離が縮まったとは言えないけれど、あいつが俺との約束を重要視してくれていたことは、素直に嬉しい。
「ところで、先生。
晩ごはんって、もう済ませちゃいました?」
「え?いえ、まだですけど……」
「でしたら、ウチで召し上がってください。
色々とご迷惑をおかけしたようなので、なんでも好きなものご馳走しますよ。
ウチの料理で良ければ、ですが」
俺の元気がないのを察してか、孝太郎さんが夕食をご馳走すると言ってくれた。
だが、これはあくまで俺と相良の問題だ。
迷惑を掛けたからと、お店側が気遣う謂れではない。
それに、友人でもない孝太郎さんにご馳走してもらう理由も、俺にはない。
「あー……。
せっかくですけど、今日のところは、お気持ちだけで───」
「そう言わずに。
これも何かの縁でしょうから、少しくらい寄り道してってくださいよ。
悪いようにはしないんで」
やんわり断ろうとした俺を遮ってまで、孝太郎さんは食い下がってきた。
であれば、頑なに断るのは無粋か。
「じゃあ、ご厚意に甘えさせてもらいましょうかね」
「ふふ。なんにします?」
「……唐揚げ定食が、タベタイデス」
「唐揚げね。ウチの唐揚げは、そこらの飯屋とは一味違いますよ。
ま、作ってんのは俺じゃないですけどね」
不敵に微笑んだ孝太郎さんが、俺に向かって右手を差し出す。
こちらも右手を出すと、孝太郎さんは俺の手を掴んで、力強く引っ張り上げてくれた。
孝太郎さんの助けを借りて立ち上がった俺は、尻に付いた土埃を叩いて掃った。
この余裕ある仕種といい、貫禄といい、彼は俺より年上だったりするんだろうか。
見た目は俺の方が老けている気がするが、対等というより軽くあしらわれている感じさえする。
「ちなみに、食後のご予定とかって、何かあったりします?」
「いいえ?特にはないですけど」
「なら、少し時間を貰えませんか」
「それって、飯の後でってことですか?
だと孝太郎さんが───」
「今日はそんなに客足向いてませんし、バイトさんもいてくれるんで、ちょっとくらいなら抜けても問題ありません。
先生もお忙しいとは思いますが、本当に、少しの間でいいんです。
俺の話に、付き合ってもらえませんか」
二人で話がしたいと申し出てきた孝太郎さん。
わざわざ仕事を中断してまでってのは、どうしても今じゃなきゃいけない内容なんだろうか。
「俺は別にいいですけど……。
なんなら、日改めましょうか?言ってくれれば予定空けときますよ?」
「いえ。今がいいんです。今じゃなきゃ駄目な気がする。
どうしても無理なら諦めますが……。時間があるうちに、話しておきたいんです。場所はどこでも構いません」
やけに真剣な表情。
タイミングからしても、相良の話題で間違いなさそうだ。
接点のない俺と孝太郎さんに共通するものといえば、相良の存在くらいしかないわけだし。
「わかりました。
お店の方が大丈夫でしたら、俺は何時でも、何時間でも」
職場での相良の様子も聞きたいと思っていたし、関係者とゆっくり話せるなら、良い機会かもしれない。
食後の段取りが決まったところで、孝太郎さんと俺は常葉亭の暖簾を潜った。
「───おや!
だーれかと思ったら、こないだの先生じゃないですか!
今日も楓のご用事で?」
「あ、いえ今日は……」
「最初はそのはずだったんだけど、色々あって、晩ごはん食べてってもらうことになった。
今日は普通にお客さん」
「あら、そうだったの。
わざわざご足労頂いたのに、申し訳ないことしちゃったみたいね。
お詫びと言っちゃなんだけど、先生。うちのご飯で良ければ、たくさん食べてってくださいね」
孝太郎さんに続いて店内に入ると、一度来店しただけの俺を覚えていてくれた主人が声を掛けてきた。
奥様も笑顔で迎えてくれて、久々に実家に帰って来たような気持ちになる。
「ありがとうございます。お邪魔します」
相良がアルバイト先にこの店を選んだことは、不幸中の幸いだったなと。
この人たちと接していると、心の底からそう思う。
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