『目を逸らす』

:第五話 少女Sの告白



4月30日。

俺が西嶺中に赴任してから、一月ひとつきが過ぎようとしている。

当初は戸惑うことも多かったが、すっかり昔の話のようだ。


人間、一月もあれば新しい環境に順応できるものらしい。

ベテランの先輩方からも、板に付いてきたと言ってもらえるようになった。

その分、疲労も蓄積されているが、まだ遣り甲斐の方が勝っている。


今はただ純粋に、3年1組のみんなに会えるのが楽しい。

毎朝出勤するたびに、自分は幸せな日々を過ごしていると実感する。



反面、彼らと仲良くなるほどに、いつか来たる別れの日を思って、切なさを覚えることもあった。


"らしくなってきた"と自分でも実感できるようになった頃には、俺はもう彼らの担任の先生じゃない。

これっきり二度と会えなくなるわけじゃなくとも、接点が減るのは間違いないだろう。


本命の沢井先生が戻られるまでの間、俺は俺のやるべきことをやるだけ。

その決意は変わっていないし、任期を終える瞬間まで全力を尽くすつもりだ。


けれど。

彼らとの距離が縮まる毎に、出来ればこのままでいたいなどという欲が、次第に顔を出してきて。

叶うなら、沢井先生が戻られた後も交代したくないだなんて、嫉妬にも似た感情が芽生え始めていることに気付いてしまった。


これは、俺の短い教師人生の中で、経験したことのない感情だった。

それほどにクラス担任を受け持つ責任は大きいということなのかもしれないが、どうもそれだけではない気がする。



『豊。

お前は、俺のような大人になってはいけないよ』



彼らの人生は、これから始まるけれど。

おっさんに片足を突っ込んでいる俺は、時と共に老いるだけ。


日に日に覇気を失い、皺と贅肉を増やしていくばかりの俺と。

ひとつ歳をとる度に活路を見出だし、よりたくさんの声を聞けるようになっていく彼ら。

いつか再会する日があったなら、互いにその差を肌で感じることだろう。


嬉しさと楽しさと切なさと、ほんの少しの憎らしさ。

未来ある彼らが時に妬ましく、愛おしく。

無性に悲しくなる自分が、惨めで気色悪い。


人間くさい情緒が芽生えていくほど、自分の理想とする人物像から遠ざかっていくようで。

子供たちと接するのが楽しいはずなのに、楽しいと感じてしまう自分が後ろめたくなる時があって。


本当は、なんとなく分かっているんだ。この感情の正体を。

俺が嫉妬しているのはきっと、沢井先生だけじゃないんだってことも。




**


放課後。

本日の授業も滞りなく終了し、全校生徒が部活動や帰宅のためにと動きだす中。

俺は3年1組のみんなに別れの挨拶をしてから、職員室へと向かった。


いつも話し相手になってくれる葛西先生は女子バドミントン部、古賀先生は男子バスケットボール部の顧問であるため、既にそれぞれの持ち場についている。

一応は俺も男子バスケ部のコーチのようなことをやらせてもらっているが、昨日一昨日と練習に参加したので、今日の放課後はお休みだ。


職員室で仕事中の面々は、俺を含めて六人。

時おり談笑を交えつつ、全員が自分のデスクに向かって作業している。

俺も運動部の部員たちが校内ランニングする様子を耳にしながら、プリント作成などの業務を行う。



するとそこへ、ズボンのポケットに入れっぱなしだったスマホから、微かな振動が伝わってきた。

確認してみると、"新着メッセージあり"との通知が画面に表示されていた。

差出人の名前は、"相良楓"だった。


"これからバイト。いつも通り異常なし。"


本文のみを記したメールが一件。

相変わらず無駄話の一つもしてくれないが、どうやら今日も、あいつは無事に過ごせているようだ。



「(無事で、なにより……)」



俺が強引にアドレス交換を願い出て以来、相良は律儀に俺との約束を守ってくれている。

学校終わりに職場へ向かう際と、仕事終わりに自宅へ帰った際。

一日二回の定時連絡を、今のところあいつは一度も怠っていない。



"今日も無事で何よりだ。無理しない程度に頑張れ。

ところで、またそっちに飯食いに行きたいと思ってるんだけど、顔出してもいいかご主人に聞いてくれない?"


作業の片手間にさっと返信すると、10分程の間を置いて返信がきた。


"是非いらしてくださいってさ。

俺としてはウザいから是非来ないでほしいけど。つか仕事しろ。"


辛辣な文面から察するに、相良がどんな顔でこれを送ってきたかが容易に想像できて、思わず笑ってしまった。


最初は本当に現状報告をするのみで、俺からの何気ないトークは一切無視だったのに。

最近はこうして、感情を交えた返事もたまにしてくれるようになった。


年上の大人としては、その口の利き方はなんだと注意するべきところなのかもしれないが。

これまでの空回りっぷりを考えると、リアクションがあるだけで妙な嬉しさが込み上げて、注意する気が失せてしまう。



この変化は、俺と相良の関係が僅かに進展した証と言っていいだろう。

少しずつではあるが、相良自身の気持ちにも動きが出始めている。

以前までと比べて改善した点が、いくつか見受けられる。


一つは、俺が直接構いに行っても、露骨に逃げなくなったことだ。

少し前までなら、人の好い笑顔で全面シャットアウトされていたところを、三度に一度くらいの頻度で隙を見せてくれるようになった。


学校にいる間は頑として優等生キャラを貫いているが、俺と接する時の態度は前より自然だ。

全く取り合ってもらえないよりは、ぞんざいにでも構ってくれる方がずっといいと、俺は思う。


そしてもう一つが、先程にもあったメールの内容だ。

一日二回の定時連絡の他にも、俺からのアプローチに気まぐれに応えてくれる日が増えた。


賄いに出された料理はどんなだったかとか、店に変な客が来ただとか。

いわゆる世間話的なことをしてくれる時が、たまにあったりなかったり。

もっとも、俺からの問いに答えただけで、相良の方から積極的に話してくれるわけではないんだけど。


とはいえ、進歩は進歩だ。

プライベートな一面を垣間見せてくれるようになっただけ、選択肢も広がるというもの。



「あれー?なんですか、先生。ニヤニヤしちゃって。彼女からですか?」


「そんなんじゃないですよ。ちょっと思い出し笑い」



だが、手応えを感じるにはまだ早い。

一難去ってまた一難というか、ようやく第一関門を突破しても、また新たな関門が目の前に立ちはだかってくる。


相良との仲は、確かに改善されつつある。

そこは俺の思い上がりではないと思う。

問題なのは、やっとの思いで築き上げたこの関係を、いかに維持したままあいつの懐に入っていくかだ。


現段階で判明している相良の許容範囲は、俺が推測できる限りでもかなり狭い。

学校の授業のこと、同じクラスの生徒のこと、バイト先の常葉亭のこと。

今のところ、言及して大丈夫な話題は、この三つだけ。

内容によっては相良の機嫌が良くなることもあるし、表面的な部分になら触れても拒絶されない。


逆に相良にとって触れられたくない話題といえば、やはり家庭のことだろう。

俺が言及していないうちは、相良の気持ちも落ち着いているけれど。

いざ踏み込んでいくとなると、今度こそ修復不可能に拗れる気がして、迂闊に動けない。



「(その人のパーソナルな部分を暴くためには、傷付けることを前提にしないといけないんだろうか)」



そもそもは、あいつの家庭問題をどうにかしてやりたくて、接近するようになったってのに。

正直言って、次の一手に進むのが怖いと二の足を踏んでしまっている。


もうしばらく様子を見て、相良が完全に心を開いてくれるのを待つべきか。

そちらに賭けた場合、事態が収拾する前に俺の任期が終わる可能性がある。

かといって強引に詰め寄れば、振り出しに戻ってしまうかもしれない。


どうする。

俺の本来の目的は、あいつを苦しめている闇を取り払ってやることにある。

いい先生を気取っているだけでは、いつまでも根本的な解決にはならないぞ。





「───叶先生。

カーナーエせーんせ!」



作業そっちのけで思案に耽っていた最中。

久しく姿のなかった葛西先生が、突如として俺の傍らに現れた。

こんなに近付かれても気付かないなんて、俺はどれだけ自分の世界に入り込んでいたのか。



「おぁあ、あ、葛西先生。

すみません、ちょっと考え事してて……」



二度の呼び掛けにして気付いた俺は、肩を揺らして驚いた。



「あらごめんなさい。じゃあ、今はお忙しいですか?」


「いえいえ。大したことじゃないんで、大丈夫ですよ。

先生こそ、女バドの世話はいいんですか?」


「ええ。みんなには今、ネットの組み立てをやってもらってます。

……それよりも。叶先生とお話したいという子がいるので、お連れしました」


「俺とですか?」



聞けば、俺と話をしたがっている人物がいるとのこと。

その人物との仲介をするために、葛西先生自らこちらまで出向いてくれたのだという。



「入っていいよー」



葛西先生が入口の方に向かって声を掛けると、一人の生徒が怖ず怖ずと職員室に顔を出した。



「こちら、冴島さえじま佳花よしかさん。

うちのクラスの子で、先生と二人で話がしたいそうです」



葛西先生に優しく背中を押され、緊張した面持ちで俺の前に出てきたのは、葛西先生のクラスに在籍する女生徒だった。


白い肌に太い眉、重たい印象のセミロングヘアー。

鼻の頭と涙袋の辺りにはうっすらとそばかすが散り、化粧はおろか制服を我流にアレンジしている様子も見受けられない。

その姿はまさに、うちのクラスの東野と対極と言っていい雰囲気だが、よく見ると顔立ちは整っている。

地味というよりは控えめな印象を受ける子だった。


しかし、彼女と俺の間には接点がない。

廊下で擦れ違った際に挨拶を交わした記憶はあるが、コミュニケーションらしいことは殆どしていなかったはずだ。

そんな彼女が、わざわざ俺の元まで訪ねてくるなんて、一体どういう用向きだろうか。



「あの、お忙しいところ、失礼します。

突然、なんですけど、叶崎先生に聞きたいこと、というか、話したいこと、が、あって。

少し、お時間もらってもいいですか?」



申し訳なさそうに頭を下げ、とつとつと訳を話し始めた冴島さんは、見た目だけでなく中身も大人しい感じだった。

目線が宙を彷徨っているし、人と真正面から向き合うのが苦手なタイプなのだろう。



「もちろん。大丈夫だよ。

ここじゃなんだし、ゆっくり話せる場所に移動しようか」



俺が了承すると、途端に冴島さんの表情が和らいだ。


ただでさえ人見知りっぽいのに、親しくない俺にアプローチを掛けるのは、さぞ緊張したに違いない。

例の話したいことってのは、彼女にとって重要な意味があるようだ。



「じゃ、おたくの生徒さん、暫くお預かりしますね」



俺はデスクに並べていたプリントやら資料やらを引き出しに仕舞い、席を立った。



「はい。よろしくお願いします。

───冴島さん、またね」


「はい。ありがとうございました」



葛西先生に礼をして別れた俺と冴島さんは、職員室を出て三階音楽室へと向かった。


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