:第三話 分厚い殻と柔らかい棘 4
「正直、どんな言い方をしても、俺はお前を傷付けると思う。
だから、悪いけど単刀直入に聞かせてもらう。
……このあいだ、更衣室で鉢合わせた時に見た、体の傷。
あれはどう見ても、自然に負った怪我じゃないよな。
誰にやられたんだ?」
相良は顔を上げないまま、ココアの容器を右手で握り締めた。
プラスチックのギシリと軋んだ音は、静寂の闇に微かな漣を立てた。
「別に、誰だっていいでしょ。あんたに関係ない」
心底不愉快そうな、ドスを利かせた低い声で相良は答えた。
威嚇されている。
俺は怯まずに食い下がった。
「大有りだ。見なかったふりを出来るわけないだろ。
……なあ、相良。辛いだろうが、話してくれないか?
もし誰かにいじめられてるんなら止めてやりたいし、そうでなくとも、俺はお前の力になりたいんだよ。
訳を話してくれないと、こっちも手の打ちようがない」
どんなに曖昧な言い方をしたところで、相良にとって最も触れられたくない部分に踏み込んで行かなくちゃならない。
どのみち傷付けてしまうなら、最初から本心に迫るまで。
言ってくれ、相良。
告白するのは勇気のいることだし、躊躇う気持ちはよく分かる。
けど、お前が話してくれないと、俺もお前のために動けないんだ。
自分は、虐待を受けているのだと。
誰かに助けてほしいのだと、言ってくれ。
思い切って手を伸ばしてくれ。
そうしたら俺は、お前の手を絶対に離さないから。
何日、何年かけてでも、いつか必ず、お前を闇の中から引っ張り上げてやるから。
「───結局、あんたも同じだよ」
突然立ち上がった相良は、独り言のような細い声で呟いた。
幾分高くなった相良の横顔を見上げながら、俺は驚きに目を丸めた。
「さがら?」
相良は返事をする前に、長い溜め息を吐いた。
「そうやって、助けてやりたいとか力になりたいとか言って、結局どうにもならないんだよ。
離れたとこから頑張れ頑張れって言うだけで、おれのいる場所までは絶対降りてこない。
おれのためとか何とか言いながら、本当はぜんぶ自分のためなんだろ。その方が教師として箔付くもんな」
「さが───」
「やめてよ。そういうの。中途半端に干渉して引っ掻き回すくらいなら、そっとしといてよ。
どうせ何も出来ないなら、おれの世界に入ってこないで」
箍が外れたように捲し立ててきた相良に、俺は言い返せなかった。
その弱々しい肩に、腕に触れたいのに。
こちらを向かせて、ちゃんと目を合わせたいのに。
立ち上がろうにも、足が重くて動けない。
まるで重力が二割増しになったかのような、ブランコに尻が貼り付いたみたいな感じがする。
"気圧される"とは、まさにこういうことを言うんだろう。
結局。どうせ。自分のため。
一見すると不明瞭な発言でも、一つ一つのピースを照らし合わせてみると、奥底にある相良の気持ちが見えてくる。
口ぶりから察するに、以前にも相良に手を差し延べようとした人物がいた?
そしてそれは失敗し、状況は却って火に油を注いだだけに終わった。
だから相良も、人に助けを求めるのをやめたのか。
「ちがう。
俺が言いたいのは、そんなことじゃなくて───」
はずみを付けて立ち上がった俺は、相良に慌てて声をかけた。
だが、弁明の言葉は出てこなかった。
何故なら、それを証明するための術を、俺は持っていないから。
かつて相良に接近し、そして救えずに去っただろう誰かと俺は違うということを、今の俺は証明できない。
助けてやりたい。力になりたい。
そう思うだけなら、同情するだけなら、誰にだって出来ることだ。
口で言うのは簡単だ。
重要なのは、それを実現させられるほどの力が、こちら側にあるかどうか。
この人なら自分を救ってくれるかもしれないと、相良に信用してもらえるだけの信憑性が、俺という人間にあるかなんだ。
俺より前に相良に近付いたとされる人物が、どうやって相良を救おうとしたのかは分からない。
解決に至らなかった訳も、こうして野放しにした経緯も。
相良の過去を、俺は知らない。
ただ信じてくれと言ったところで、相良は絶対に心を開かないだろう。
証明しなければ。なにか。なんでもいい。
少なくとも俺は、お前を途中で見放すような真似はしないと、伝えてやらないと。
ここで折れたら、きっとまた振り出しだ。
「もういいよ。あんたはただのイイ人なんでしょ。
わかったから、おれのことは放っておいて」
「相良、待ってくれ。俺の話を聞いてくれ」
「聞く必要ない」
いつもの頑なな姿勢に戻った相良は、聞く耳持たずで俺に背を向けた。
「相良!」
足早にこの場を立ち去ろうとする相良に、俺は先程よりも大きな声で呼び掛けた。
すると相良は、歩みを止めてこちらに振り返り、俺に向かってココアを投げつけてきた。
放られた容器を反射的にキャッチすると、こちらを向いた相良とようやく目が合った。
てっきり、しかめっ面をしているのかと思いきや。
その顔は存外に、穏やかな表情を浮かべていた。
「あんたが想像してること、だいたい合ってるよ。
あの傷は、確かに自然に負ったものじゃない。
殴られんのは、おれにとってもう、普通のことなんだ」
「相手は父親か。お前は、父親から虐待を受けてるのか」
「そうだよ。合ってるって言ったでしょ」
ここにきて白状し始めた相良。
半分やけくそというか、だったらなんなんだとでも言うように、開き直った態度で告げてくる。
「だから、もういいでしょ。本当のことは話した。あんたの望みは聞いてやった。
おれの話はこれで終わり。これ以上はもうナシ。おしまい」
「待てよ。頼むから落ち着いてくれ。俺の言い方が悪かったなら謝る」
「謝んなくていいよ。もうなにも言わなくていいから、もうおれに関わんないで」
投げやりに言い残した相良は、今度こそ俺を無視して歩きだした。
幼稚ともとれる不機嫌な振る舞いに、こちらも頭の血が上ってくる。
のらりくらりと避けられていた当初と比べれば、一応は進展したのかもしれないが。
相良にも相良の事情があるとはいえ、こうも侮られては、年上として黙っていられない。
「待てったら!」
突き返されたココアと開けたばかりのコーヒーを地面に置き、離れていこうとする相良の肩を掴む。
対して相良は、ぐっと力んで抵抗してきた。
意地でも顔を合わせまいとしているのか。
だったら強引にでも振り向かせるまでだ。
俺も右手に力を入れ、掴んだ肩を強く手前に引き寄せた。
「───ッ触んな!!!」
相良は勢いよく振り返ると同時に、俺の手を振り解いた。
俺は驚いて一歩後退してしまった。
細い喉から飛び出したのは、今際の咆哮のような叫び。
前髪の隙間から覗くのは、野性の狼のような眼光。
噛みつかれなかっただけマシと思えるほど、俄に相良は興奮した様子だった。
「マジで迷惑なんだよ、あんたみたいなやつ。
自分ならどうにか出来るとでも思ってるわけ?勘違いすんなよ。
あんたみたいな、順風満帆に生きてきたやつに、おれの気持ちが分かるわけない。分かってほしくもない。
干渉されんのはウザいし、あんただって、おれと関わって得することなんかない。
これ以上はお互い損するだけなんだって、分かれよ、はやく」
張り詰めた気配。苛立った息遣い。
強気だったのは最初のうちだけ。
全てを言い終える頃には、また消え入りそうな細い声に戻っていた。
そんな痛々しい姿を見て、俺の中で高ぶり始めていたものも鎮まっていった。
どんなに大人びていても、お前はやっぱり、まだ子供だ。
沸き上がった感情をコントロール出来ず、悟られたくない心の声が、意思とは裏腹に顔に出る。
俺には、お前の苦しみが分かるよ。
誰にも触れられたくなくて、誰にも知られたくなくて。
全身に分厚い殻を纏って、必死に脆い自分を守ってる。
だけど本当は、誰かに振り向いてほしくてたまらないんだ。
大丈夫かと、心配して声をかけてくれる人を、お前はずっと待っている。そうだろ。
あの頃の俺が、そうだったように。
「諦めないぞ、俺は」
払いのけられた手を握り締め、俺はその場に立ち尽くした。
俯いた相良は、下唇を噛んで押し黙っている。
「俺は、教師としてはまだまだ未熟で、一人の男としても半人前だ。自分の人生を守るので手一杯な、余裕のない人間だ。
でも、だからって、今にも死にそうに苦しんでるヤツを、黙って見ていることなんて出来ないんだよ」
「そういうの、余計なお世話だって言うんだよ」
「そうだ。お前にとっては余計なことだ。
俺がお前にしてやれることなんて、本当に小さなことだけかもしれない。
それでも、俺はお前を放っておけない。
大したことは出来なくても、お前が辛い目に遭っているのを、ただ見ていたくないんだ」
相良が恐る恐る顔を上げる。
目尻は下がっているが、涙は出ていなかった。
「頼む、相良。
俺がお前の力になれるように、お前も、俺にチャンスをくれないか」
俺は瞬きをせず言い切った。
相良はじっと俺の目を見詰め、戸惑うように逸らしてから、低い声で呟いた。
「やっぱり、変なやつだ、あんた」
上着のパーカーを翻して、逃げるように相良が去っていく。
遠ざかる相良の後ろ姿を見送ってから、俺は握り拳を解いて夜空を仰いだ。
果たして、俺のアプローチは正解だったのか。
後悔しても、なかったことにはもう出来ない。
本音は伝えた。
俺は相良を諦めない。
たとえ本人がいらないと言っても、あいつの立場を悪くさせない範囲でなら、こちらの納得いくまで善処させてもらうつもりだ。
改まると、自分はやけに彼に拘っているなと感じる。
理由については、なんとなく見当が付いている。
似ているんだ、あいつは。
昔の、頑なだった頃の俺に。
だから放っておけないし、他人の気がしない。
俺のSOSに気付いてくれる人は、誰もいなかったけれど。
相良のSOSには、俺が気付いた。だから俺がやるべきなんだ。
もう二度と、失ってから後悔するのは、ごめんだからな。
「………あ。」
閑散とした広場で一人。
放置したままだったココアとコーヒーを回収している時、ハッとあることを思い出した。
そういえば今日、買い出しに行くはずだったんだということを。
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