:第二話 秘密 2
午後。
生徒たちに混じって給食を食べた俺は、昼休みが終わらない内に体育館へと赴いた。
午前中の3・4組に引き続き、5時間目は1・2組の合同体育となっている。
新年度最初の体育は全クラス共に済んでおり、そこでは軽いレクリエーションを行った。
二度目となる今日からは通常の授業内容に戻るため、楽しいだけのレクリエーションは前回きり。
今週いっぱいは生徒のフィジカル面を審査する体力測定がメインで、来週は俺の得意とするバスケットボールを予定している。
前にいた学校でもバスケの授業は好評だったし、なんだかんだインターハイをかじった経験が、ここでも役に立つことを期待する。
**
備品室の点検を終え、ステージ上で待つこと数分。
制服からジャージに着替えた1・2組の生徒が、ぞろぞろと体育館に集まり始めた。
体育館中央には仕切りのためのネットが引かれ、ネットを隔てたステージ側が男子、出入口側が女子の領分となっている。
女子の保健体育を担当するのは
「(あれ……?)」
しかし。
集まった1組生徒の中に、相良の姿はなかった。
まだチャイムは鳴っていないので遅刻には当たらないが、他が全員揃っているのに、どうして相良だけ居ないのだろうか。
心配になった俺は、相良が不在の訳をクラスメイトに聴いてみることにした。
「───柴田!ちょっと!」
ステージ脇でぼんやりと欠伸をしていた少年を呼び、こっちへ来いと手招きする。
少年は首の骨を鳴らしながら、気怠そうに歩み寄ってきた。
「んあ?なんすかー?」
トサカのようにツンツンと逆立った髪と、眠たげな半目が特徴的な彼は、
レギュラーにしてスターティングメンバー筆頭でもある、男子バスケ部員だ。
普段はこうしてだらしなく、立ったまま寝ていることさえあるが、バスケの試合となると水を得た魚のように生き生きする。
来週からは部活動だけでなく、体育の授業でも柴田の勇姿が見られるだろう。
「1組の生徒って、大体もう揃ってるよな?なんで相良だけいないんだ?」
今朝から顔色が悪かったのもあるし、もしかしたら本格的に体調を崩して、欠席せざるを得なくなったのかもしれない。
俺の予想に反して、柴田は平然と答えた。
「あー、あいつなら別に大丈夫っすよ。いつものことなんで」
いつものこと。遅刻癖って意味だろうか。
でも相良には、無遅刻無欠席の記録がある。
前回のレクリエーション授業だって、俺が体育館に着いた頃には整列していたくらいだ。
「どういう意味だ?今日がたまたまって訳じゃないのか?」
俺は更に言及した。
柴田は腕を組み直して、不思議そうに首を傾げた。
「なんか知んねーっすけど、あいついっつも教室で着替えないんすよ。
俺らと一緒に着替えんのが嫌なのか、始まる前にはいなくなってて。
で、気付いたらジャージになってて、普通に体育館来るんす」
相良は
単に時間を守る守らないの話とは違うようだ。
「教室じゃないとなると……。あいつだけ更衣室で着替えてるってことか?
確か、男子の方の更衣室って暖房効かないんだったよな?そのせいで使用禁止になってるって、このまえ古賀先生から聞いたけど」
「んー。俺あんま相良と話さないんで、よく分かんないっすけど……。とにかく大丈夫ですよ。
どこいても、授業が始まる前には必ず来るんで。その内ひょっこり出てきますって」
西嶺中の生徒用更衣室は、一階に男女それぞれで設置されている。
ただし使えるのは女子だけで、男子の方は全面使用不可となっている。
というのも、老朽化が原因で、男子更衣室のみ暖房機材が故障してしまったらしい。
そのせいで春先と冬場は外と変わらないほど寒く、復旧の目処がつくまで、男子は教室で着替えをさせられるようになったそうだ。
ちなみに。
男子更衣室の暖房が壊れたのは、今から4年ほど前の話。
4年もの長きに渡って不備を放置するのも怠慢な話だが、そういう
生徒からは特に不満の声が上がらなかったので、ならいいか、くらいの扱いなのかもしれない。
問題なのは、何故そんな場所で、相良は一人で着替えているかだ。
気温の高い夏日ならともかく、まだ根雪の残る四月中旬。
俺が校内見学で訪れた際の男子更衣室は、冷凍庫並に寒かった。
それを着替えなんて、あんなクソ寒い中で服を脱ぐなんて、罰ゲームを通り越して拷問だ。
自分の下着や裸を人に見られるのが恥ずかしいから?
三階の教室より、一階の更衣室の方が体育館に近いから?
いずれにせよ、あんな場所を拠点とするのは体に悪い。
どうしても一人がいいというなら仕方ないが、せめて更衣室ではなく、暖房の届く別室に移るよう言ってやらなければ。
「葵くん!」
柴田を解放した俺は、続いて葵くんを呼び付けた。
相良を探しに行きたい旨を伝えると、葵くんは直ぐに了承してくれた。
「じゃあ、悪いけど……。
測定で使う道具とか、軽いやつだけ先に配置しといてもらえるか?」
「配置……。はい」
「あ、なんか分かんないことある?」
「いえ。前にも生徒だけで準備したことありますから、任せてください」
「悪いな。これ鍵だから、あと頼むわ」
「はい。いってらっしゃい」
「授業が始まるまでには戻るから!」
葵くんに備品室の鍵を預け、駆け足で体育館を出る。
廊下に面した曲がり角に入ると、向かって手前にトイレ、奥に更衣室が並んでいる。
念のため男子トイレも調べてみるが、そこに相良の姿はなかった。
となると、やはり更衣室か。
もし更衣室にも居なかったら、2階の視聴覚室にでも行ってみるか。
あそこは滅多に使われないから、こそこそしたいヤツには持ってこいの部屋だし。
駄目で元々、有人か無人かを確認するだけのつもりで、今度は更衣室のドアを開けた。
「(さむ……っ!)」
ドアを開けた瞬間、室内の冷気がふわっと頬を撫でていった。
俺は反射的に眉を顰め、浅く息を吐きながら視線をずらした。
すると自分の吐息の向こうに、何者かの人影が透けて見えた。
こちらに背を向けているので、顔は分からない。
だが、この線の細さと、明るい茶髪は
相良だ。
駄目で元々だったので、まさか本当に更衣室に居るとは思わなかった。
ちょうど着替え中のようで、下は学校指定の灰色ジャージ、上は黒のタンクトップのみを身に付けていた。
「さが────」
俺はとっさに相良の名前を呼ぼうとして、飲み込んだ。
タンクトップから伸びた白い腕。
強く掴めば折れてしまいそうに繊細な腕。
彼の両腕に、赤紫の痣が無数に散らばっていた。
それも、まだ新しい。
「なにしてんの、先生」
俺の気配に気付いた相良が、ゆっくりとこちらに振り返る。
死んだ魚のように虚ろな目と、俺の驚きに見開かれた目とが交わる。
相良のこんな顔を、初めて見た。
普段の朗らかな様子からは想像もつかないほど、今は冷めた表情をしている。
俺は一瞬で頭が真っ白になり、硬直した体は直ぐには動かせなかった。
「あ、……すまん。ノックもしないで。
お前だけ姿が、見えなかったから────」
我に返った俺は、真っ先に顔を背けた。
本人に見るなと言われたわけじゃなくとも、俺が彼を見ちゃいけない気がして。
「だから様子を、見に、来たんだ」
相良は僅かに立腹しているようだった。
いくら男同士とはいえ、断りなく着替えに割り込まれたら、怒るのは当然だ。
ただ、咎められはしなかった。
素早くTシャツを被り、上のジャージを羽織るまでの間、相良は一言も発しなかった。
ジャージのジッパーを閉める音が響いたところで、俺はようやく顔を上げた。
いつの間にかこちらを向いていた相良は、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「心配かけてすいません、先生。
これからは、みんなよりも早くに、体育館に着くようにします」
落ち着いた声でそう言うと、相良は俺の前を通り過ぎ、更衣室を出ていった。
相良の足音が聞こえなくなってから、俺は力なく壁に凭れ掛かった。
溜まっていた息を吐き出すと、情けなくも喉が震えてしまった。
「び、びった……」
俺の不作法を咎めないどころか、心配をかけたと詫びてきた。
優等生としては文句なし、百点満点の対応だった。
だが、あの目は。
言動こそ穏やかだったが、あの鋭い目付きからは、怒りを越えて殺意すら感じられた。
恐らくは無意識。彼の秘めたる本心が表れていたんだろう。
相良が頑なに人と着替えたがらない理由が分かった。
裸を見られるのが恥ずかしかったのではなく、痣を曝すのが嫌だったんだ。
両腕に散りばめられた赤紫。
明らかに、自然に負った怪我ではなかった。
なにか固いもので、ピンポイントに殴られた跡だった。
彼は、虐待を受けているのか。
その事実を隠すために、氷のように冷たい部屋で、一人で。
「あ、───いけね」
5時間目の授業開始を告げるチャイムが、無人の廊下に鳴り渡る。
俺は慌てて立ち上がり、男子更衣室を後にした。
「(とんでもないものを、見てしまったかもしれない)」
葛西先生の違和感は正しかった。
"誰しもが認める優等生"は、仮の姿。
相良の笑顔は、作り物だったんだ。
彼の内にはきっと、俺の想像する以上に、強烈な毒が潜んでいる。
その毒を炙り出すために、俺はまず、何をすべきだろうか。
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