:第一話 窓際の少年 6



「それで、二学期の終わり、だったかな。

いよいよ我慢できなくなって、勇気を出して、話し掛けてみることにしたんです」


「葛西先生の方から、相良くんに?」


「そう。

いつも一人でいるけど、なにか辛いことがあるのかって。

私で良ければ相談に乗るよって、直球で伝えてみたんです」


「そうしたら?」


「……大丈夫。おれ、一人でいるのが好きなだけだから、って。

貼り付けたような笑顔で、相良くんはそう言いました」



自らSOSを出すことに抵抗を感じているのであれば、こちらが手を差し延べた方が応えてくれるかもしれない。

最終的に葛西先生は、独断で相良にアプローチをかけた。


しかし相良は、葛西先生にも心を開かなかった。

アプローチには感謝してくれたそうだが、本音を打ち明けるほどの信用は得られなかったという。



「私は食い下がりました。

もしかしたら、異性だから気が引けることもあるかなって。だったら鈴原先生に相談してみるといいよって。

……言ったんです、アドバイスのつもりで。

相良くんの担任で、みんなから慕われてるあの人なら、私より頼りになるはずだと、ほんの、アドバイスのつもりで……」



"私に言いにくいことなら、鈴原先生に相談してみるといいよ"。

せめてものアドバイスとして、より相応しい人への相談を葛西先生は勧めた。

異性の自分よりも、同性の鈴原先生が相手の方が、相良も話しやすいのではと。


俺が彼女の立場でも、同じようにしただろう。

本気で心配してくれる人の存在は、それだけで当事者には支えと成りうるもの。

葛西先生の真心は、きっと相良に伝わったはずだ。


ところが。

相良に鈴原先生への相談を勧めた時点まで話すと、葛西先生は押し黙った。



「葛西先生?」



俺の呼びかけも虚しく、葛西先生は俯いたまま。

悲しいとも悔しいとも取れる表情は、相良に対してか、自分自身に対してか、或いは。



「相良くん、言ってくれたんですよ。

ありがとう、先生。なにかあった時は、鈴原先生に相談してみるよって。

約束してくれたんですよ」



先程より淡々とした声で、葛西先生は仕切り直した。

葛西先生の気持ちを察した俺は、敢えてフォローを入れなかった。



「その日から暫くは、一応の平穏が続いて。

相変わらず相良くんは、一人でいることが多かったですけど。良くも悪くも、いつも通りって感じでした。

だから、変わりがないってことは、少なくとも今は、大丈夫ってことなのかなと。

その時は、そう思ったんです」



相良へのアプローチを試みて暫くは、穏やかに毎日が過ぎていった。


相良は変わらず暗い様子ではあったが、学校には休まず登校していた。

鈴原先生の方も、相良の名前を話題に上げたりはしなかった。


だから、今は。

本人が落ち着いていて、話題にもならない内は、手出し無用ということなのだろうと。

一定の距離を保ちつつ、葛西先生は相良の日常を見守り続けた。



「話戻って、さっきの。相良くんが泣いてたってやつ。

あれは、三学期の終わり頃で、放課後でした。

他のみんなが、部活や帰り支度で忙しくしてる中で、相良くんだけが、一人だけ。

誰もいない音楽室で、声を殺して、泣いていたんです」



終業式を控えた三学期。

たまたま通り掛かった音楽室にて、葛西先生は目撃してしまった。

窓から差す夕陽に照らされながら、悲嘆に暮れる少年の姿を。


大きなグランドピアノの陰に隠れ、三角座りで縮まっていた少年は、声を殺して泣いていた。

思いがけない遭遇だったが、華奢な背中と茶色の髪は間違いなく相良のものだったと、葛西先生は言う。



「ここで声をかけるべきか、本当に迷いました。

でも、やっぱり……。相手は思春期の男の子で、私は新米の女教師。

下手に干渉したら、却って傷付けてしまうんじゃないかと、怖くて……。

ここは一先ずそっとしておいて、後日改めて、本人に話を聴こうとした、ですけど……」


「"けど"?」


「今思えば、その判断は誤りでした。

たとえ拒絶されようとも、声をかけるべきだったんです。

気付いた私が、歩み寄ってあげるべきでした」



こんな場所に一人でいるなんて、自分の泣き顔を人前に晒したくなかったのか。

だったら本人の意思を尊重して、ほとぼりが冷めるまでは触れずにおいてやるべきか。


踏みとどまった葛西先生は、日を改めて訳を聴きに行こうと考えた。

そして、手遅れを招いた。

音楽室での一件以来、相良は葛西先生を避けるようになったのだ。


原因は分からない。

ただ、葛西先生が近付こうとするたび、相良は彼女を寄せ付けなかった。

以前までは普通だった挨拶も世間話も、一言さえ交わしてくれなくなった。

まるで、自分の領域を侵すなと、透明な線を引いたかのように。



音楽室での一件を知っているのは、葛西先生だけ。

彼女だけが知っていることを、相良もきっと知らない。


にも拘らず、相良は彼女を遠ざけた。

恐らくは、相良自身の気持ちに変化があったためだろう。

彼女が特別に嫌われたのではなく、相良の一匹狼に拍車が掛かった、といったところか。


取り付く島がないので、悩みを引き出せず。

双方とも落ち度はないので、謝って仲直りというわけにもいかず。


こうして葛西先生の努力は、現在に至るまで実を結ばなかったとのこと。




「翌年、二年生に進級した相良くんは、少しずつ雰囲気が変わっていって……。

今の相良くんになりました」


「性格が変わったってことですか?」


「そうです」


「悩みが解決したかは置いておくとして……。

中学生って、そんなに簡単に切り替えられるものですかね?」


「そこは私も、よく分かりません。

ただ、彼が変わったのは事実です。別人のように、以前と比べて明るくなりました。

笑顔が増えて、人当たりが良くなって、クラスメイトと友好的に話す姿も頻繁に見かけるようになった。

……一年生の時の相良くんは、いつの間にか、どこかへ消えてしまったんです」



春休み明け。

二年生に進級した相良は、日増しに朗らかな少年へと成長していった。


背筋は伸び、口角は上がり、自分からも積極的に発言するようになった。

嫌々参加していた学校行事も、誰に促されるまでもなく取り組むようになった。

もともと影が薄かったのもあるが、その変わり様は、誰も怪しまないほど自然であったという。


一体どういう風の吹き回しか。

本当に性格が明るくなった、学校が楽しくなったのか。

根幹は同じままなのに、意図して明るく振る舞い始めたのか。

後者だった場合、彼は何のために、道化を演じるのか。



「私はもう、1年4組の副担任じゃありません。

クラスが別れてしまった以上、相良くんと接する機会がないんです。

本当に、相良くんが楽しく学校生活を送れているのであれば、問題ないんですけど……。

もし、そうじゃなかったら……」



別クラスを受け持った葛西先生にはもう、相良に干渉する大義名分がない。

3年1組の担任が、沢井先生が良しとしたならば、彼女は横から口出しできない。


自分たちが心配し過ぎているだけならいい。

相良が何事もなく中学校を卒業できれば、一番いい。


最悪なのは、"何事もない相良"が偽物だったと、後で発覚すること。

本人が助けを求めていないからと放置した末に、取り返しのつかない事態を招くことだ。



「私にこんなことを頼む資格がないのは、重々わかってます。ですが、どうかお願いします。

相良くんがちゃんと、無事に卒業できるまで、見守ってあげてください。

私に出来ることは、なんでも協力するから。いつか皆が大人になった時、中学の頃は楽しかったって、笑って思い出してほしいから。

一人でも苦しんでいる子がいるなら、助けになってあげたいんです」



率直な感想。

葛西先生がここまで相良を気にかける理由に、俺はまだ納得がいっていない。

確かに相良は危なっかしいが、この入れ込みようは贔屓や執着にも感じる。

本人も言うように、分不相応な面もあるんじゃないかと。


俺はあくまで担任代理の身。

任期を終えれば、一介の体育教師に戻る立場だ。

そんな俺が、葛西先生でさえ二年がかりで頓挫したものを、半年足らずで解決できるとは思えない。



「わかりました、とは言えません。

……俺なりに、努力はしてみます」



反面、こうも思うのだ。

自分一人では抱えきれない悩みを、誰にも打ち明けられないのは辛いこと。

俺自身、嫌というほど経験してきたことを、他の人にも我慢しろとは言いたくない。



「ありがとう、叶くん」



心底嬉しそうに、葛西先生は笑った。


俺の時代にも、彼女のような先生がいてくれたなら。

もう少しくらいは、灰色じゃない青春を送れたのかもしれない。


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