:第一話 窓際の少年 5
「───カナエせーんせ」
「わっ、葛西先生。お疲れ様です」
「お疲れ様です。びっくりしました?」
「ええ、少し」
午後2時12分。
職員室でプリントのコピーをしていたところ、葛西先生が現れた。
背後から忍び寄ったらしい彼女は、俺の肩をぽんと叩くと、してやったりな笑顔を見せた。
こういう仕種が幼くて、まるで妹か姪を相手にしているように錯覚してしまう。
現実には妹も姪もいないし、葛西先生の方が年上なんだけど。
「ワオ、すごい量ね。手伝いましょうか?」
稼働しっぱなしのコピー機と、コピーが済んだプリントの山を前に、葛西先生は驚きの声を上げた。
「いえ、もう終わるんで」
俺は僅かとなったノルマの束を持ち上げてみせた。
「それはそれは。
お一人でご苦労様でした」
葛西先生は頷くと、おもむろに後ろを振り返った。
「いつから一人でやってたの?」
「えっ?」
「あら、気付いてなかったです?」
葛西先生に倣って、俺も後ろを振り返る。
そこには彼女の言う通り、無人の空間が広がっていた。
コピー機の発する機械音だけが、閑散とした職員室に響いている。
「ぜんぜん気付きませんでした。いつの間に……」
やけに静かだなと思ったら、そういうことか。
さっきまでデスクワーク中だった古賀先生も佐藤先生も、いつの間にか退室されていたようだ。
忙しそうだと遠慮して、俺には声をかけなかったのだろう。
昔からの悪い癖だ。
目下の作業を片付けない限り、それ以外への注意力が散漫になる。
いいかげん、マルチタスクも熟せるようにならなければ。
「それで、どうでした?」
「なんですか?」
「3年1組の様子ですよ。
さっきは擦れ違うだけで、お話できなかったので。
───これ、こっちの段ボールに纏めちゃっていいんですよね?」
俺とコピー機の間に葛西先生が割って入る。
話をする片手間に、彼女はコピー済みのプリントを段ボール箱に詰めていった。
「ああ、すいません。ありがとうございます」
俺は結局助けてもらいながら、ホームルーム前の出来事を思い起こした。
あの時は、一言かけあうくらいしか話せなかったけれど。
葛西先生の方はずっと、俺の様子を気にかけてくれていたらしい。
俺が赴任する以前は彼女が最年少だったそうなので、後輩ができたからには先輩らしく、という腹積もりなのかもしれない。
「そう、ですね……。
多少、面食らう場面もありましたけど……。
おかげ様で、ファーストコンタクトは悪くなかったと思いますよ。
クラスの皆もイイ子そうだし、一安心ってところです」
「よかった」
東野たちに絡まれたことは伏せて、俺は前向きな感想だけを述べた。
葛西先生は安堵の溜め息を吐くと、段ボール箱の四隅を整えた。
「せっかくお隣さんなわけですし、今後とも、協力し合っていきましょうね」
「はい」
「困ったことがあればなんでも───、って、さっきも言ったっけ?」
「言ってましたかね。
フフッ、ありがとうございます」
そういえば、葵くんとも似たやり取りをしたな。
葛西先生との会話の途中で、俺は忘れかけていた大事なことを思い出した。
「そうだ、葵くん」
「葵くん?
1組の葵俊介くんですか?」
「ええ。
さっき、彼に呼び止められて、なにやら意味深なことを言われて……」
"3年1組の生徒に、心配な子がいる"。
今になってみれば、葛西先生の台詞と葵くんの態度は、どこか通ずる気がする。
もしかして、葛西先生の心配する子と、葵くんの気にする誰かとやらは、同一人物なのでは。
「それで思い出したんですが、今朝、先生が言いかけてた
俺の改まった問い掛けと、プリントのコピーが完了したのは、ほぼ同時だった。
再び訪れた静寂の向こうには、葛西先生の悲しげな横顔があった。
「そのままの意味ですよ。
といっても、公に問題視されてるわけじゃなくて、私が勝手に心配してるだけなんですが」
「……その生徒の名前を伺っても?」
最後の一枚を手に取った葛西先生は、全てのプリントを段ボール箱に詰め込み、ゆっくりと立ち上がった。
「もしかしたら、叶くんも気付いたかな。
相良楓くん。線が細くて、茶色の髪をした男の子がいたでしょう?あの子です」
俺は心中で、やっぱりなと納得した。
確証があったわけではないが、そういった意味で目立つ生徒は、他にいなかったから。
「やっぱりそうですか……」
「やっぱり、ってことは、叶くんも相良くんが気になったってこと?」
「これといった理由はないんですがね。
なんとなく、憂いを感じさせる子だな、とは」
へなへなと脱力した葛西先生は、傍らの長机に手をついた。
彼女の心配しているという生徒と、俺の予想が一致しただけなのに。
なぜ彼女は、こうも激しく反応するのだろうか。
「それを聞いただけでも、叶崎先生が代理で良かったって今、思いました。本当に」
「そう言ってもらえるのは恐縮で、も……。
俺はまだ、何も……?」
困惑する俺に、葛西先生は"そんなことないです"と首を振った。
「今まで、私以外に誰も、彼を気にかけてくれる人……。先生がたも含めて誰も、いなかったんですよ。
相良くん、表向きにはとても明るくて、真面目な優等生だから、みんな、そういう目でしか彼を見てくれなくて……」
「……つまり彼は、優等生を演じていて、彼の達者な演技に、みんな欺かれてるだけってことですか?」
「うん。
端的に言うと、そういうことになります」
葛西先生いわく、優等生としての相良楓は、あくまで表向きの姿に過ぎないという。
一見すると、どこにでもいる明るい男子中学生。
俗にリア充と呼ばれたり、スクールカースト上位に当て嵌まる人物だが、実際のところはそうではない。
相良本人は、身内に闇を飼っているはずだと。
無論、これらのイメージには根拠がない。
葛西先生の解釈による、推測の域を出ない話だ。
ただ、彼女は真摯だった。
少なくとも、相良を心配していることだけは、紛うなき事実だろう。
「俺は、ついさっき会ったばかりなので、一目見た限りでは、雰囲気のある少年くらいにしか思わなかったですけど……。
葛西先生がそこまで相良くんを気にかける理由はなんですか?」
眼鏡のブリッジを上げ直してから、葛西先生は長机に浅く腰掛けた。
「こんなこと、叶くんだから話すんだけど。
彼の名誉のためにも、ここだけの話にしてくれますか?」
「もちろんです。誰にも言いません」
「……そうね。正直、はっきりとこれ、っていうエピソードは、私もなくて。勘違いだって言われたら、反論は、できない。
ただ、相良くんが、一年生の時にね?一度だけ、見たことがあるの。
相良くんが、一人で、泣いているところ」
自分でも根拠に欠けると理解しているようで、葛西先生は後ろめたそうに語り始めた。
俺は彼女が語り終えるまで、腕を組んで静観することにした。
「前に私が、相良くんのクラスで副担任をしてたって話、覚えてる?」
「はい」
「当時は、私も新人でさ。あんまり積極的には、子ども達と意思疎通できなかったの。
そんな中で、一年生の相良くんは、今と違って控えめな、───暗い生徒、だった」
今から二年前。
相良の在籍する1年4組で、葛西先生は副担任を務めていた。
担任は、
他校に転勤されるまで、子ども達から大人気の先生だったそうだ。
当時の葛西先生は、初めての副担任ということもあり、何度も困難に直面した。
クラスの生徒と打ち解けるのには、特に苦労したらしい。
そのおかげで葛西先生は、人一倍の洞察力を手に入れた。
打ち解けるのに苦労したからこそ、生徒の僅かな変化すら気付けるようになったのだ。
皮肉にも、慕われていた鈴原先生を凌駕するまでに。
「悪口を言われるとか、無視をされるとか。そういう、露骨に避けられることはなかったはずだし。みんな、相良くんを嫌いではなかったと、思います。
でも、彼はよく、一人でいました。
彼自身が、人と接することを避けている
二年前までの相良は、今の彼からは想像もつかないほど、孤独を好む少年だったという。
笑わないし、怒らない。
いつも顔色が悪くて、いつも何かに怯えているようで。
自分からは滅多に発言せず、受け答えも最低限で済ます。
同じ小学校出身の子自体が少なかったせいもあるかもしれない。
中には一度も相良と口を利かず、進級してしまったクラスメイトもいたそうだ。
そんな相良に逸早く気付いた葛西先生だが、行動にはなかなか移せなかった。
相良自身の取っ付きにくさに加えて、当時の彼女は副担任という立場にあったからだ。
"担任の鈴原先生が動かない限り、副担任の自分が出しゃばった真似をするのは、分不相応ではないか"。
仕事を始めて間もない新人、ましてや若い女性ともなれば、上役を前に臆してしまうのも無理はない。
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