:第一話 窓際の少年 2
校舎に入り、靴を脱いで靴箱に仕舞う。
短い渡り廊下の先に直通している職員室に出ると、やっぱり懐かしい光景がそこにあった。
隙間なく並べられたデスク。
窓際に飾られた観葉植物。
壁沿いに固定された背の低い本棚。
どうやら今は無人のようだが、デスクの上には何箇所か個人の荷物が置かれてある。
姿こそないが、既に出勤された先生たちは席を外されているところなんだろう。
先日の打ち合わせ時にも、校舎内は一通り見て回った。
とりわけ、職員室には何度も足を運んでいる。
こうして足を踏み入れるたび、不毛な感傷に浸ってしまう。
生活感漂う内装も。
窓から覗く雪景色も。
西嶺中学校と刻まれた、表の正門も。
目に入るすべて、鼻を掠めるチョークの匂いや、生温い暖房の風ですら、どこか哀愁を覚えさせる。
確かに自分もここにいたんだと、中学生だった頃の記憶が蘇ってくる。
自他共に認める真面目な生徒だった俺は、職員室とは殆ど縁がなかった。
だが、
校内放送で呼び出しがかかれば、たとえ心当たりがなくとも、職員室のドアをノックする直前は緊張したものだとか。
当時よりも部屋が狭く感じるのは、俺の体がデカくなったせいなんだろうとか。
昔は気に留めていなかったものが、大人になって接してみると、妙に特別な風景に見えたりする。
「いいかげん、気持ち切り替えねえとな」
何度目とも分からない懐古に浸り、思わず溜め息を吐く。
すると背後から、とんとんと肩を叩かれた。
「お地蔵様ですよ、
またいつもの"懐古トリップ"、ってやつですか?」
振り向いた先にいたのは、若い女性だった。
身長差から自然と上目遣いになってしまう彼女は、首を傾げて俺に微笑みかけた。
「ああ、すいません。まだ感覚が抜けなくて。
おはようございます、"
俺は苦笑いで謝った。
「別に謝る必要はないですよ。
なにも悪いことをしてるんじゃないですから」
彼女の名前は
西嶺中に勤める教師の一人である。
年齢は俺より一歳上。担当科目は国語。
昨年までは2年2組のクラスを受け持ち、新学期からは引き続き3年2組を任される予定だそうだ。
「改めて、おはようございます」
ハーフアップにした黒髪に、太過ぎず細過ぎずの平均的な体型。
服装は膝丈のスカートかパンツの二択で、常用する眼鏡は深緑色と控えめで、化粧は最低限しか施していない。
正直を言わせてもらうと、表立ってちやほやされるタイプではなさそう、というのが第一印象だった。
ただ、生徒たちの間では圧倒的に人気のある先生だと聞いた。
三年の生活指導を行っている古賀先生によれば、同僚たちの間でもマドンナ的存在なのだという。
「あ、ここいたら邪魔っすね」
玄関からの動線を塞いでいたことに気付き、俺は横にずれた。
「どうも、失礼します」
葛西先生は俺の脇を通り抜けると、自分のデスクに向かって歩き出した。
「それにしても、よくああしてフリーズされてますよね。
前にお見かけした時は、一年生用の男子トイレの前。初めて学校にいらした時には……、確か、三階の音楽室でしたか。
本当に石のように固まってらっしゃったから、もしかしてこのひと幽霊でも視えるのかなって、ちょっと怖かったんですよ?」
デスクの前で上着のピーコートを脱ぎながら、葛西先生は話し始めた。
彼女の言う通り、先程のようなやり取りが、今までにも何度かあった。
そしてその現場を、俺は二度も彼女に目撃されていた。
一度目は、校舎三階にある音楽室。
二度目の鉢合わせはつい最近で、一階男子トイレ前でぼんやりしていたところを、たまたま近くを通り掛かった彼女に見られてしまった。
別に何をしたいわけでもないのだが、西嶺中の校舎にいると、ふと昔の記憶に引っぱられる瞬間があって。
意図せず体が強張ったり、意識が逸れてしまうことがあるのだ。
葛西先生いわく、当時の俺は何か特別な気配を感じているかのようで、微動だにせず突っ立っている姿が不気味だったらしい。
後日きちんと訳を話し、無事に誤解は解けた。
以来、こんな悪癖を知っているのが彼女だけということもあり、俺は自然と葛西先生と話すようになっていた。
ちなみに彼女と話をする際、俺は例の悪癖のことを"懐古トリップ"と呼んでいる。
「ほんと、自分でも何やってんだって感じで……。
ご心配かけたみたいで、すいません」
俺も上着を脱ぎながら返事をし、自分のデスクへ向かう。
デスクの列は、窓側、中央、校舎の廊下側と三列連なっており、ひとつの列に十席分が隣り合わせで並べられている。
俺が与えられたのは、廊下側の列の、北から三番目にあるデスクだ。
葛西先生のデスクは窓列の北から五番目にあるため、互いに向かい合う位置にテリトリーを持った。
「そんなに固くならなくて大丈夫ですよ。
ここの先生方はみんな良い人ばかりですし、あと数日もすれば体も慣れて、普通に歩けるようになります」
俺は自分のデスクに荷物を置いて着席した。
葛西先生は窓際に飾られた観葉植物にひとつひとつ水をやり始めた。
「そんな風に言われると、なんか病気みたいですね、俺」
「あら、ほんとですね。
そんなつもりじゃなかったんですけど」
葛西先生は植物の世話をしながら、俺は始業式についての資料に目を通しながら、声だけで会話をする。
彼女の小さな背中を見ていると、遠い昔に、母親が夕食の支度をしていた光景が重なる。
「でも、ちょっと羨ましいです。
母校で先生が出来るなんて、意外とないことなんですよ」
「そういえば、葛西先生の地元って帯広でしたっけ。
そっちの学校とは縁がなかったんですか?」
「そうですね……。
最初はそれもいいなって思ったんですけど、大学時代にお世話になった教授から、ここを紹介されて。
そのまま居着いてしまったんです」
「へえ……。そうだったんですか」
残念そうに頷いた葛西先生は、水やりを済ませて自分のデスクに着席した。
葛西先生の地元は帯広。
大学は札幌にある教育大を選び、就職活動中に冬見の西嶺中を紹介されたという。
今年で勤続四年目。
家族や友人と離れ離れの生活も、周りの支えがあって慣れたそうだ。
言われてみれば、俺も事情がなければ当分、冬見には戻っていなかっただろう。
母校に勤める教師は、意外と少ないのかもしれない。
「───あ。と言っても、別に今の環境に不満があるわけじゃないですから、誤解しないでくださいね?
いつかは地元の学校で先生やれたらいいなー、とは考えてますけど……。
私は冬見のことも、西嶺中のことも好きですから。
置いてもらえるのであれば、まだ当分は、ここにいるつもりです」
先程の言い方では語弊があると思ったのか、葛西先生は弁明した。
俺は地元で働きたいなどの拘りはなかったが、機会を与えられた今になってみるとラッキーだったと分かる。
先生として再び母校に通えるなんて、なかなか巡ってくるチャンスではない。
「それを聞いて安心しました。
葛西先生は、俺が冬見に戻ってから出来たお友達、第一号なので。
来年にはさよならです、なんて言われたら、ショックで寝込むとこでしたよ」
俺は冗談混じりに返した。
葛西先生ははにかんで、眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「こちらこそ、同年代のお友達が出来て嬉しいです。
なにか分からないことがあったら、
大根役者のような台詞口調と共に、葛西先生は自分の胸にどんと手を当てた。
彼女のお茶目な様子に、俺は笑ってしまった。
彼女も彼女で、自分の言動が可笑しくなったのか、短い
見た目や物腰の印象から、もっと大人しい女性なのかと思いきや。
これは
想像していたよりずっと、彼女は楽しい人のようだ。
「ありがとうございます。頼りにしてますよ先輩。
改めて、これからよろしくお願いします」
「はーい。よろしくお願いします」
デスク越しに頭を下げ合い、他の先生たちより一足先に挨拶する。
親身になってくれる彼女のような同僚がいてくれると、とても頼もしい。
男性陣とも少しずつ仲良くなっていきたいが、しばらくの間は葛西先生が一番の話し相手になりそうだ。
「───あと、最後にもう一ついいかな。叶崎先生」
先程よりも声のトーンを下げた葛西先生が、最後にと切り出した。
「長いんで、
なんなら
「あ、そう?
じゃあ、嫌でないなら、二人でいる時は、叶くんって呼ばせてもらいますね」
「どうぞ。
それで、どうしました?」
葛西先生は、思い詰めた表情を浮かべた。
「実は、叶くんのクラスに一人、ちょっと心配な子がいるんだけど───」
声を潜めた葛西先生につられて、俺も前のめりに耳を傾ける。
意味深な前置きは、残念ながら本題まで続かなかった。
玄関の方から誰かの足音が響いてきて、葛西先生は慌てて口をつぐんでしまったのだ。
俺以外の人間に聞かれるとまずい話、ということなのか。
前任の沢井先生からの言伝によると、俺の受け持つ3年1組には、特にやんちゃな生徒は在籍していないはず。
となると、学級内で陰湿ないじめが発生しているのだろうか。
あるいは、授業内容に付いて行けず悩んでいる、成績不良な生徒がいるとか。
「なんですか?」
気になって続きを促すも、葛西先生は"また後で"と首を振るだけだった。
足音が近付いてくる。
仕方なく内緒話を中断した俺と葛西先生は、何食わぬ顔でそれぞれの作業に戻った。
「───おはよーございます叶崎先生!
……と、葛西先生もいらっしゃるじゃないですか!今はお二人だけですか?
駐車場に車いっぱい停まってましたけど、他の先生がたは……」
元気よく現れたのは、朝から声の大きい古賀先生だった。
俺と葛西先生は堪えきれず、また変な笑いを上げてしまった。
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