:第一話 窓際の少年 2
玄関で外履きと上履きに履き替える。
不要になった外履きを靴箱に仕舞い、短い廊下を渡って職員室に出る。
隙間なく並べられたデスク、木製の古びたロッカー。
壁際には本棚、窓際には観葉植物が設置され、その他冷蔵庫や電子レンジなどの家電が点在している。
校舎の外観と同じく、懐かしい風景。
母校であってもなくても、職員室のイメージといえば、大体こんなものだろう。
「(今は───、誰もいないか)」
ぐるっと職員室を見渡すと、俺以外に誰もいなかった。
デスクにはちらほらと荷物が置かれていて、靴箱も何人分か埋まっていたので、先客は退室されているところのようだ。
「(ファックスは時代遅れで廃止、コーヒーメーカーは最近新調したもの。
他に変わったところといえば───)」
先日の打ち合わせ時にも、校舎内は一通り回らせてもらった。
とりわけ、職員室には何度も出入りしている。
久しぶりの感覚は、今日が初めてじゃない。
なのに、こうして足を踏み入れるたび、不毛な感傷に浸ってしまう。
ニスの塗られた床も、窓から望む街路樹も、西嶺中学校と刻まれた表の正門も。
目に入るすべて、鼻を掠めるチョークの匂いや、生ぬるい暖房の風ですら、どこか哀愁を覚えさせる。
確かに自分もここにいたんだと、中学生だった頃の記憶が甦ってくる。
「(俺自身が、一番か)」
校内放送で呼び出しがかかれば、心当たりがなくとも緊張したとか。
給食用の箸を忘れて、担任の先生に借りに行ったら、余りの牛乳をくれたことがあったとか。
当たり前だった日常が、酷く遠く、特別なものに感じられる。
何より。
当時と比べて、妙に部屋が狭い気がするのが。
俺はもう子どもじゃないんだと、あの頃とは違うんだと、身に染みて切ない。
「いいかげん、気持ち切り替えねえとな」
ふつふつと自己嫌悪が湧き、誤魔化すように溜め息を吐く。
すると背後から、とんとんと肩を叩かれた。
「お地蔵サマですよ、叶崎先生」
振り向いた先にいたのは、若い女性だった。
身長差から上目遣いになってしまう彼女は、首を傾げて俺に微笑みかけた。
「あ───、すいません。
おはようございます、葛西先生」
彼女とは対照的に、俺は苦笑いで返した。
彼女は尚も微笑みながら、今度は首を振った。
「謝る必要ないですよ。
固まってますよーって、お知らせしただけで」
彼女の名前は、
西嶺中に勤める教師の一人である。
年齢は俺より一歳上。担当科目は国語。
昨年までは2年2組を受け持ち、本年からは3年2組を任される予定だそうだ。
「改めて、おはようございます。今朝も寒いですね」
「ですね」
ハーフアップにした黒髪に、太過ぎず細過ぎずの平均的な体型。
服装は膝丈のスカートかパンツが主で、すっぴんに近い顔には眼鏡をかけている。
一見して控えめな印象だが、生徒の間では大層人気の先生だと噂に聞いた。
3年の生活指導を行っている古賀先生によれば、同僚の間でもマドンナ的存在なのだという。
「あ、ここいたら邪魔っすね」
「いえいえ、失礼します」
玄関からの動線を塞いでいることに気付き、俺は自分のデスクへ向かった。
葛西先生も自分のデスクへ向かいながら、おもむろに話し始めた。
「それにしても、よくああしてフリーズされてますよね。
前にお見かけした時は、一階の男子トイレの前。
初めて学校にいらした時は、確か……。三階の音楽室でしたか」
彼女の言う通り、先程のようなやり取りが今までにもあった。
そしてその現場を、俺は二度も彼女に目撃されていた。
一度目の遭遇は、三階音楽室にて。
ぼんやりと黒板に触れていたところを、たまたま近くを通り掛かった彼女に見られてしまった。
二度目の遭遇は、一階男子トイレ付近にて。
ぼんやりと突っ立っていただけのところを、やっぱり近くを通り掛かった彼女に見られてしまった。
別に、何をしていた訳でもないのだけれど。
西嶺中の校舎にいると、ふと体が強張ったり、茫然自失になることがあって。
単なる感傷とはまた違う、フラッシュバックに似た衝撃が、たびたび俺を襲うのだ。
「本当に石みたいに固まってるから、もしかしてこの人、幽霊でも視えるのか?って。
ちょっと怖かったんですよ?」
葛西先生いわく、その時の俺は、目には視えない存在と交信しているかのようだったらしい。
あらぬ誤解も招いてしまったが、唯一の目撃者が彼女だったのは、不幸中の幸いだった。
ちなみに俺は、この衝撃もとい悪癖について、"懐古トリップ"と名付けている。
「やー……、はは。
自分でも何やってんだって感じで。
見られたのが葛西先生じゃなかったら、今頃どうなってたことやら」
葛西先生はピーコート、俺はブルゾンを脱ぎ、鞄ともども自分のデスクに置いた。
「大丈夫ですよ、誰が相手でも。
別に悪いことをしてるんじゃないですし」
「悪くなくても、驚かせるのは駄目ですよ、やっぱり」
デスクの数は32席。
それぞれ向かい合った形で、窓側と廊下側に16席ずつ纏められている。
その中から俺が与えられたのは、廊下側の列の、北から4番目にあるデスク。
対して葛西先生は、窓側の列の、北から3番目に自分のデスクがある。
俺は廊下側に、葛西先生は窓側に背を向けているので、少し離れているが対面に領分を持ったわけだ。
「まあまあ、そんなに気に病まないで。
あと3日もすれば体が慣れて、普通に歩けるようになりますよ」
「そんな風に言われると、なんか俺、病気みたいですね」
「あら、ほんとですね。
そんなつもりじゃなかったんですけど」
俺は着席して、資料の確認を。
葛西先生は立ったまま、観葉植物に水やりを。
葛西先生の小さな背中を見ていると、夕飯の支度をする母親の姿が思い起こされる。
「でも、ちょっと羨ましいです。
母校で先生が出来るなんて、意外と無いことなんですよ?」
「そういえば、葛西先生の地元って帯広でしたっけ。
そっちの学校とは縁がなかったんですか?」
「そうですね……。
それもいいなって、最初は思ったんですけど。
大学時代にお世話になった教授から、ここを紹介されて。
そのまま居着いてしまったんです」
「そうだったんですか……」
葛西先生が水やりを切り上げ、着席する。
作業を終えたのにこちらを見ようとしないのは、何か含みがある証拠だ。
「(聞いちゃいけないことだったかな……)」
葛西先生の地元は帯広。
大学は札幌の教育大を選び、就職活動中に
確かに俺も、事情があったから冬見に戻ってきた。
逆を言えば、事情がなければ帰らないつもりでいた。
母校に勤める教師は、意外と少数派なのかもしれない。
「……あ。
と言っても、今の環境に不満があるわけじゃないですから、誤解しないでくださいね?」
「はい」
「いつかは地元で先生やれたらいいなー、とは考えてますけど、私は冬見のことも、西嶺のことも好きですから。
出てけって言われない限り、まだ暫くは置かせてもらいたいですからね?」
「ええ、わかってます」
先程の言い方では語弊があると思ったのか、葛西先生は慌てて弁明した。
俺は思わず笑みを零しながら、何度も頷いて返した。
「葛西先生は、俺にとって、冬見に戻って出来たお友達、第一号なんで。
まだ暫くは居てくれるんなら、良かったです」
「こちらこそ。同年代のお友達が出来て嬉しいです。
分からないことがあったら、この
わざとらしい台詞口調を携えて、葛西先生は自分の胸にドンと手を当てた。
彼女のお茶目な様子に、俺はとうとう笑ってしまった。
彼女も彼女で、自分の言動が恥ずかしくなったのか、一拍遅れて笑いだした。
見た目や物腰の印象から、もっと大人しいタイプかと思いきや。
想像していたよりずっと、葛西先生は楽しい女性のようだ。
「ありがとうございます、先輩。
改めて、今日からよろしくお願いします」
「はーい。よろしくお願いします」
デスク越しに頭を下げ合い、一足先に新年度の挨拶をする。
他の先生達とは追々、交流を深めていくとして。
当面は葛西先生が、一番の話し相手になりそうだ。
「───あと、最後にもうひとつ、いいかな。叶崎先生」
葛西先生の声が俄に低くなる。
何やら張り詰めた雰囲気で、俺も俄に緊張する。
「長いんで、"
「あ、そう?
じゃあ、嫌でないなら、二人でいる時は"叶くん"って呼ばせてもらいますね」
「どうぞ。
それで、どうしました?」
「……実は、叶くんのクラスに一人、ちょっと心配な子がいるんだけど───」
葛西先生が身を乗り出したので、俺も前のめりに耳を傾けた。
しかし、本題が始まることはなかった。
玄関の方から
「なんですか?」
続きを促すも、葛西先生は首を振るだけ。
俺以外の人間に知られてはマズい話、ということなのだろうか。
「("心配な子"……。どういう意味だ?)」
心配のニュアンスにも依るが、わざわざ取り沙汰するほどだ。
一教師の手には余る問題児が、俺のクラスには潜んでいるのかもしれない。
犯罪紛いのイジメの主犯?
飲酒喫煙なんでもござれのヤンキーとか?
いずれにしても、問題児がいるなんて話は、沢井先生からは聞かなかったはずなんだけどな。
「(また後で振ってみるか)」
内緒話を中断した俺と葛西先生は、何食わぬ顔で
「───おはよーございます叶崎先生!
……と、葛西先生もいらっしゃるじゃあないですか!
今はお二人だけですか?駐車場に車いっぱい停まってましたけど……」
やがて現れたのは、朝から元気いっぱいな古賀先生だった。
俺と葛西先生はまた、堪えきれずに笑ってしまった。
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