金比羅さんの少年、拝冶

@kurikuriboz

第1話

 拝冶はいじは車窓からの景色を眺めていた。

 琴電の高松築港駅から終点の琴平駅までの一時間、古ぼけた車両がコトコトと進み、線路の両側は、田んぼと家並みとため池が続く。ちょうど刈り入れ時で、黄金色の田んぼと刈り取られた後の土の色が入り交じっていた。単線の線路の向こうにきれいなおむすび型の山が姿を現したとき、拝冶は山のてっぺんに海苔が付いているのを思い浮かべて、ゴクリと唾を飲み込んだ。


 隣に座る叔母の照子が、道中に何度言ったかしれない言葉を繰り返した。


「いい? 琴じいは気難しい人だから、くれぐれも機嫌を損ねないように。家の手伝いをして邪魔にならないように過ごすんだよ」


 照子の父親に当たるのが、琴平に住んでいる拝冶の祖父、有武ありたけだ。拝冶は小学三年生の時に両親を事故で亡くした。当時独身だった照子が渋々拝冶を引き取って二年間は育てたが、四十になって十五才年上の子連れ男と結婚が決まり、拝冶と暮らせなくなった。照子は父親に半ば押しつけるように姉の遺児を託そうとしているのだった。


 クリーニング店に勤める照子の生活に余裕はなく、神戸から琴平までいちばん交通費がかからない船旅を選んだ。四時間もかかる船と鈍行の琴電、駅からは電車もバスも通らない山道を歩く。照子は拝冶を聞き役にして、不便なところに住む父を罵っていたが、次第に口数が減り、やがてむっつりと黙り込んだ。


 一方の拝冶は、初めて見る景色がどれもこれも珍しい。駅から金比羅さんへの参道に向かう道には、観光客がちらほらいる。古くさい土産物屋にどんな物が売られているのか覗いてみたかったが、照子が参道とは反対側の道に歩き始めたので、時々後ろを振り返りながら後ろをついて行った。


 田んぼに囲まれた人家もまばらになり、山道に入った。拝冶は汗を拭いながら歩いた。小柄だけれど体力があるから長距離の移動ぐらいでは疲れないし、山道を楽しむ余裕もある。獣道のような細い道には、落ち葉の上にどんぐりが散らばっていて、たっぷりと栄養のありそうなふかふかの土を踏むのが気持ちいい。拝冶は、極上の絨毯の上を歩く気分で一歩ずつ足を進めた。


 突然「あれっ、照子じゃろ?」と男の声がした。突然ぬぅっと現れた男に、照子は「キャッ」と一歩飛びすさったが、すぐに「なんだ、平汰か」と胸をなで下ろした。


「照子、こんなとこでなにしよん?」

「何って、実家に行くのよ」

「あぁ、有武さんちか。ちょうどおれも有武さんちに小麦を届けるところじゃったけん、いっしょに行くか。ほいでその子は?」


 平汰は照子の後ろで突っ立ている拝冶に目をやった。照子は、あぁ、と息をついて拝冶と平汰を引き合わせた。


「姉の忘れ形見の拝冶。平汰は私の同級生。拝冶、平汰にはこれからお世話になるかもしれんから挨拶しとき」


 拝冶はペコッと頭を下げて背の高い平汰を見上げた。背中に大きな荷物を担ぎ、細身の体にピッタリ合ったウェアを着た平汰は、小太りの照子と同じ年には見えないなぁと思う。


 照子と平汰がしゃべりながら歩く後ろを、拝冶は黙ってついて行った。二人の会話を聞くうちに、祖父の暮らしぶりが少しわかった。山の中の一軒家に住み、人付き合いはほとんどない。家の周りの畑で作った野菜で自給自足の生活をして、小麦と塩を平汰の勤める問屋から買っている。祖父は、うどんを毎日手作りしているらしい。


 山の中の小さく開けた台地に、ひょこっと家が現れた。家の裏には大きな杉の木がそびえ、前の畑にはごちゃごちゃといろいろなものが植えられている。数羽の鶏が地面をつつく横に、太った犬が寝そべっていた。照子が立て付けの悪い引き戸をギシギシいわせて中に入ろうとすると、隙間からしわがれ声が聞こえた。


「洋輔! 扉をかじるな!」


 しわがれ声と共に戸を開けたのは、ひげを生やした老人だった。



「父さん、久しぶり」

 照子が挨拶をすると、有武は驚いた顔で家の前に立つ三人を眺め回した。


「突然、何だ。来るなら連絡ぐらいしろ」

 照子はむっとした声で言い返した。


「手紙書いたわよ。見てないの」

 照子が玄関横のさび付いたポストを開けると、中には白い封筒が入っていた。照子はため息をつきながらその封筒を有武に突きつけた。


「せめて電話ぐらい引いてよ」

「お前は会うなり文句ばっかり言いよる」


 有武が仏頂面で言い返すと、照子は家の中に入りかけた足を引っ込めて、拝冶を前に突き出した。


「この子、姉さんの子どもの拝冶。今まで面倒見てきたけど、私、結婚するからこれからは父さんに任せる。学校の手続きとかは私がするから。あとはよろしく」

「そんな話、何も聞いとらんぞ」

「姉さんが亡くなったって知らせようとしても、あの頃、父さんはどこにいかわからなかったじゃないの。拝冶を預かってからは私も毎日必死で、ここにも来れなかったのよ」


 照子は、今日中にフェリーに乗って帰る、とそのまま背を向けて歩き出した。


「おい照子、泊まっていかんのか。今から下ったら暗(くろ)うなるで」


 平汰が止めるのも聞かず、照子はどんどん山を下りていく。照子には目も向けない有武に、平汰は急いで背中のリュックから荷物を取り出して玄関の上がりかまちに置いた。


「有武さん、これ、頼まれとった小麦粉。おれ、照子がちゃんと山を降りられるか見届けるけん」


 平汰が走り去った後、有武は家の前にぽつんと残された拝冶を見た。拝冶は丸い目で有武を見つめてつぶやいた。


「ヨースケ」

「なんだ? 洋輔がどうした」

「ヨースケって名前の犬、飼ってるの?」

「そうだ」


 やった、と拝冶は飛び上がった。ずっと、犬を飼ってみたいと思っていたけれど、照子には言い出せなかった。刺すような視線で拝冶を見下ろしていた祖父の瞳が、ちら、と動いた。


「中に入れ」


 家の中は広い一間で、奥が台所、左の壁にベッド、右の壁には大きな扉がつき、部屋の中央には古いけれどがっしりとしたテーブルが置かれている。


「腹減っとるか」

「うん、ぺこぺこだよ」

「ほんじゃ手伝え」


 有武は右側の大きな扉を開けた。中を見た拝冶は、「うわぁ」と声を上げた。

 様々な大きさの鉢や鍋が並べられ、めん棒やごつい包丁や生地を広げるのに使う台もある。木製の道具は茶色くなってはいても、大切に手入れされているようだ。


「それ取ってくれ」


拝冶は背伸びして、高い棚から年季の入った鉢を取り出した。


「今からうどんを作るの?」


 有武は拝冶の顔を見つめた。


「なんでわかった?」

「だってここに来るまでの間、照子おばさんと平汰さんが話してたもん」


 有武は黙って鉢を受け取ると、平汰が持ってきた小麦粉を袋から取り出して分量を量り、塩水を作った。鉢の中に小麦粉をふるい入れ、少しずつ塩水を混ぜながらこねていく。拝冶は小麦粉が段々まとまっていくのをじっと見つめた。有武の節くれ立った手が粉の中でなめらかに動き、つるっとした塊を魔法のように作り上げていく。次に有武は塊を袋の中に入れ、厚手のシートをのせて拝冶に声をかけた。


「これを足で踏んでな。こう、体重をしっかりかける」

 有武がやるように拝冶もうどん玉を両足で交互に踏みつけてみる。


「お前はこんまいきん、ちいと重さが足りんのう」


 拝冶は顔を真っ赤にさせ、力を込めて踏み続けた。汗が流れ空きっ腹にふらつきそうになる足を踏ん張って、全部の体重をかける。


「これぐらいでよかろ」

 有武は生地をテーブルの上に置いた。


「これを寝かせる間に、具を作る」

 二人で家の前の畑でネギを摘み、鶏小屋から卵を取り出した。拝冶は有武に言われて棚から大きな鍋を取り出し、水を入れて火にかけた。


「たっぷりの水で茹でるきん、沸くのに時間がかかるんじゃ」


 寝かせた生地をテーブルの台の上に置き、有武がめん棒で伸ばしていく。縦に横に生地の向きを変えながらめん棒を転がすうちに、丸い塊は少しずつ伸ばされていった。最後は麺棒に生地を巻き付けてクルクルと回し、生地はいつの間にか四角い板状になった。それを折りたたんで打ち粉をまぶし、まな板に持ち手が付いたような板をずらしながら麺を切っていく。


「お前もやってみるか」

 有武がやると簡単そうに見えるのに、拝冶がやると途中で生地が切れてしまったり、細かったり太かったりと不揃いな麺になる。


「まぁ、それも味があるわな」


 有武は切り終わった麺を沸騰した湯の中に入れた。一度沈んだ麺がしばらくすると湯の中から浮かび上がった。有武が長い箸で麺をほぐすと、しばらくして鍋の中で麺がくるくると回り始めた。上から下へ、下から上へ、白い麺がまるで生きているかのように踊る。


「面白いか」

「うん」


 拝冶が鍋の中を飽きずに眺めているのを見て、有武は少し頬を緩めた。

 茹で上がった麺を大きなたらいにゆで汁ごと移し、テーブルに運んだ。


「腹が減っとるのに、よう我慢したな。食え」


 拝冶は白濁して湯気を立てる汁の中からうどんをすくい取り、器に入れて有武に勧められた生醤油をかけた。ふぅふぅと息を吹きかけ、ちゅるっと麺を吸い込む。ツルツルの麺が勢いよく滑り込んできて、うどんで口がいっぱいになった。なんとか噛もうとすると、弾力のある麺が歯を押し返してくる。拝冶は目を白黒させながら口を動かした。口の中はまるで、すべすべで光沢のある布地を触っているときのようだ。拝冶はたらいと器との間を何度も箸を往復させた。気がつくと、有武が用意してくれたネギも卵も使わないうちに、たらいの中のうどんは全部拝冶の胃袋に収まっていた。


「釜揚げが好きなんは讃岐の子じゃ」

「ぼく、讃岐の子になるの?」

「そうらしいな」



 その晩は布団の用意がないからと、拝冶は有武の横で眠った。小さな背中に有武は手を伸ばしかけてやめた。


「母さんを亡くして寂しかろ」


 拝冶は身を縮めた。


「ぼく、悲しいことは見ないで目の前の好きなことだけ見るの。今日は好きなことがいろいろあったよ。電車からの眺めも、ヨースケも、うどんも好き」


 すぐに寝息をたて始めた拝冶の頬を、皺だらけの手がやさしくなでた。



 翌朝早く、平汰が有武の家に顔を覗かせた。


「拝冶、昨日は眠れたか」

「うん」

「いいところに連れて行ったる」


 平汰は拝冶を連れ出して、昨日歩いた道とは別の方向に歩き出した。


「うどんは食べたか?」

「食べた!」

「うまかったじゃろ? 有武さんはうどん作りの名人やきん」

 へぇぇ、と拝冶は昨日の味を思い出した。


「ところでこの山にはな、金比羅さんがあるんで。金比羅さん、知っとる?」


 拝冶はううん、と首を振った。


「海の神様の金比羅さんには登らにゃな。表の参道からはえらい(注:しんどい)思いしてぎょうさん階段登らなならんけど、ここからやったら、 ほほいのほいで着くでな」


 舗装されていない道を歩く二人の頭上は、木がまばらで山の中でもかなり明るい。きれいな空気をまとった葉が、朝日を元気に跳ね返していた。


「有武さんのところから学校に通うのは大変じゃのう」

「学校ってどれぐらい遠いの」

「拝冶のこんまい足やと、一時間はかかるな」

「友達出来るかな」

「人数の少ない学校やきん、すぐ誰とでも仲良うなれるやろ」


 話しているうちに、大きな建物の裏側に着いた。


「な、裏道を通ってきたきん、すぐじゃろ」


 平汰に連れられて、拝冶は建物の表側に回った。どっしりした木組みと鈍色の瓦屋根、正面の左右には「金」に似た赤字の漢字が書かれた提灯がぶら下がっている。

 拝冶は、平汰にもらった十円玉を賽銭箱に投げ入れて、ちんまりと両手を合わせた。



「こっちこっち」

 平汰に手招きされて、拝冶は本宮の展望台に走った。


「階段やと七八五段登るんで。どうや、こっからの眺めは」


 平らな土地は田んぼと人家が半分ずつ分け合い、その向こうにはこんもりした山がぽこぽこといくつも頭を出している。正面に見える緑に覆われた山はきれいな左右対称の形で、朝早くから登ってきた他の観光客たちも「ほうっ」と声を上げている。


拝冶は展望台の柵に手をかけて身を乗り出した。


「おにぎり山だー」


 朝の日差しがどんどん力強さを増して、大地を温めていく。拝冶は真っ直ぐに前を見つめたまま、平汰に言った。

「ここ、好きになれそうだよ」


                                (了)

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