第19話

お酒がこんなに楽しいものだなんて知らない。実家では酔っぱらってお母さんに怒られるお父さんを見ていたせいか、お酒に吞まれるのは恥ずかしいことだと思っていた。いい歳をしてはしゃぐのはみっともないとか、大きな声を出すのは恥ずかしいとか、お母さんが子どもを叱るように言ったのを何度も見ている。でも、いつもは無口なお父さんが羽目を外してご機嫌になる意味が、今ようやくわかった気がした。自分を包む膜のようなものが取り払われて、緊張や遠慮や他人に気を遣うこと、自分を良く見せたい気持ちなんかが薄れていく。どうでも良く思えてきて、でもそれは乱暴で投げやりなものではなく、「どうしてそんな些細なことを気にしていたんだろう」という新鮮な発見。感じたままに振る舞えばいいじゃないと、お酒で覚醒した私が紛れもない本音を脳内で囁いていた。

 そもそも、私はこんなにも自分と他人の間に境界線を作っていたのかと驚いてしまう。壁を作っている自覚はないけれど、無意識のうちに区別して隔絶して、だからこそ遠慮や緊張があって。誰かと比較して落ち込んだり、心の中でマウンティングを取ったりすることは、なんて卑屈でくだらないんだろう。もっとシンプルに、自分が楽しいと思う気持ちを大切にすればいいのに。誰が何をどう感じるかは関係ない。私が楽しいかどうかが大事なのに。

 だから、聞こえるはずがない声が耳に届いた時、私は思わず振り返り立ち上がった。


「おつでーす」


 低いけれど重くはない涼やかな声は、私を満面の笑みにする。


「創也さん! わあぁぁぁ……!」


湧き上がった気持ちがそのまま声になるだけで、知性の欠片もないけれど。私はありのままの喜びをもう隠そうとしなかった。足は自然と席から離れ、駆け寄りながら両手を伸ばす。

 理性のブレーキが失われた身体が従うのは胸を突き上げる衝動。

 私は、創也さんの広い胸に勢いよく飛び込んでいた。


「お……?」


驚きながらもぶつかるように抱き着く私を受け止めてくれる。拒否しないのは創也さんが優しいからか、それとも女性の扱いに慣れているからか。

 飛び込んだ胸は思いのほか広く、背中に回した手は堅い筋肉に触れた。女の自分にない身体の感触が新鮮で、アルコールの酔いとはまた違う火照りを頬に感じる。顔を上げた先には淡い色の瞳。視線が絡んだまま、創也さんは私の頭に大きな手を乗せた。


「よしよし……」


そう言ってポンポンするのは、まるでお母さんみたいな。


「あたしは子どもじゃないれすよぉ」

「酔ってるね。顔が溶けてる」


私を数秒じっと見つめたあと、カウンターの中に声をかけた。


「海斗、お前だろ。飲めない子に飲ませちゃダメじゃん」

「えっと……ごめんごめん! 知らなくってさ」


困ったように笑って「なんで俺が飲ませたってバレたんだろ」と呟く海斗君に芹菜さんが思わず吹きだす。


「失恋をアルコールで慰めるなんて大人がすることだよ。絹ちゃんにはまだ早い」


もはや足が覚束なくなっている私の肩に手を回して、創也さんは椅子に座らせた。ライチのお酒が入っているというグラスを脇に寄せると、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。


「はい、お水」

「ありがとぅごじゃぃます」


両手で受け取り、促されるままひと口飲む。さらりとした冷たい無味無臭が心地良かった。

 創也さんは隣に座りながらも、私の肩から手を離さない。自分の脇に引き寄せるように支えるのは、私の身体がゆらゆら揺れているからだろうか。頭の周りがぼーっとして、聞こえる音も触れる感触もすべてが鈍く遠くに感じる。背もたれのないスツールに一人で座っているのはもう難しかった。


「すいま……せん……」


ようやくそう言って、重力に引かれるように私の頭は創也さんの肩にもたれかかる。


「大丈夫」


そう聞こえたように思うけれど、記憶はもはや曖昧でハッキリしなくなった。

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