第17話

「嘘。私のことなんて全然知らないくせに」

「ボクはちゃんと、芹菜さんのこと……」


 でも、言いかけた言葉はにぎやかな声に遮られてしまう。


「秀莉さん!」

「来ちゃったぁ!」


 すでにお酒が入っているのか、騒々しく入店する女性客たちは楽しげな笑い声を上げながらカウンターの端に座った。


「いらっしゃいませ」


 一瞬だけ表情が揺らいで、秀莉さんは唇の両端を引き上げる。顔は笑みを作ったけれど、それはとてもビジネスライクな仕上がりだった。


「ねえ、こっち来て聞いてくれる? 彼氏がさ……」


 お客の手招きを無視するわけにもいかず、秀莉さんは小さく「ごめんなさい」と言って芹菜さんの前から離れていく。会話は中途半端に途切れてしまい、カウンターの上できつく握りしめられた手は乱暴にグラスをつかんだ。半分ほど残っていたドリンクを一気に喉へ流し込む。


「海斗君、ジントニックおかわり。濃いめでちょうだい!」


 ふぅ、と息をつきながら、芹菜さんは何もなかったかのように指先で涙を拭った。海斗君はちょっと肩をすくめてから、新しいグラスを出してオーダーどおりに作り始める。

 そこへ、ゆらりと細いシルエットが揺れてカウンターの中に入った。


「秀莉に八つ当たりしないでよ」


 不愛想な声がぼそりと漏れる。


「あなたが結婚できないのは危なっかしい婚活してるからでしょ。ダメなところは山ほどあるよ」


 いつの間にかピアノの音はなく、長い前髪の隙間から少しだけ覗く目が芹菜さんを見ていた。


「紫音。やめて」


 海斗君は、店の薄闇に同化していたはずのピアニストをたしなめる。でも、言われた本人はおとなしくする気がないようだった。


「秀莉は本当に親身に思う人には甘い慰めなんか言わない。あなたのことが心配だから言うんだよ」


 紫音君は私と同年代に見えるけれど、ひと回り以上も年が上の芹菜さんに一ミリも遠慮しない。淡々とタメ口をきいた。


「相変わらずね、紫音は。わかってるわよ。秀莉君が正論ばかり言うからムカついてるだけ」

「じゃ、とりあえず飲んどこ。ハイ、絹ちゃんも」


 あっけらかんとした口ぶりで、海斗君はカウンターの上にグラスを二つ置く。芹菜さんはそれを奪い取ると半分ほど一気飲みした。


「いい飲みっぷり! 絹ちゃんも飲んで飲んで!」


 いつの間に作ったのか、海斗君は自分のグラスを持って乾杯を求めてくる。私は促されるまま、炭酸の泡がのぼるオレンジジュースのグラスをかちんと合わせた。


「おいしい! オレンジジュースだけどオレンジジュースじゃない……?」


 ひと口飲むと、馴染みのあるオレンジと、それとは違う爽やかな風味が口の中に広がった。オレンジの濃厚な甘みを絶妙に軽くして品良く整えたような。


「ライチをちょっと入れたんだ」

「この香り、ライチなんですね。わあ、初めてです」


 ふわんとふくらみ鼻孔に抜ける独特の香りが楽しい。私は喉が渇いていたのもあって、ついごくごく飲んでしまった。


「あのね、来週、辞令が出るの」


 横では、芹菜さんがもう三分の一しか残っていないグラスを弄んでいる。


「一応は出世なのよ。後輩がマネージャーに昇格するはずだったんだけど、寿退社するって言い出して、その役職がなぜか私に回ってきちゃった。すでにチームを持ってるのにさ、人がいないから兼任しろって言われたの。

 私にとっては尻ぬぐいでしかないんだけど……男性だったらうれしいのかな」

「頑張っても出世できないオジサンからすれば、嫌味でしかないけど」


 紫音君のツッコミは間違っていないけれど棘がある。でも、もともとそういうキャラなのか、芹菜さんは慣れたようにスルーして話を続けた。


「その後輩と結婚する男がね、同じ会社の人なんだけど、もしかしたら私に気があるのかなって思ってたのよね。やたら親切で、私の仕事を気遣ってくれたから。でも、そいつは退職する彼女の代わりを探してただけだったの。私は社歴も長いし、代打にはうってつけよね。

 ふふふ。もう笑っちゃうよね。バカな勘違いしちゃって。

 私、どんどん結婚から遠くなっちゃう。チームを二つも抱えて、いつ婚活すればいいの?」

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