第16話

結婚って何だろう?

 ふと、詐欺師の彼が告げた言葉を思い出す。

「俺はお前と一緒に人生を変えたい」

それはプロポーズのようで、私は最高にときめいたのだけど、今落ち着いて考えると、彼とのリアルな家庭生活はまったく想像できなかった。

 結婚といって思い浮かぶのは、子どもの頃に読んだお姫さまと王子さまの物語。絵本で描かれていたのは盛大な結婚式までで、二人はその後どうなったのか。『いつまでもしあわせにくらしました』と綴られる幸せは具体的に何をあらわすんだろう。レースとリボンのドレスを着て笑うお姫さまは夢見がちすぎて。家事や育児、仕事、お金といった現実とはあまりにかけ離れている。自分の人生に重なるはずがなかった。


「芹菜さんは、どんな結婚をしたいんですか?」


私の疑問はそのまま質問になって、カウンターに突っ伏したつむじに投げかけられる。


「どんなって……そりゃ……幸せな結婚、よね」


途切れながら返ってきたのは漠然とした幸せという単語。とてもわかりやすいけれど、具体的な夫婦の姿を想像するのはちょっと難しい。


「幸せって、どんな?」


すかさずツッコミを入れる秀莉さんは、そんな芹菜さんの思考をすべて読んでいるような。


「そうね……やさしい旦那さんと一緒にご飯食べたり、休みの日にお茶飲みながらおしゃべりしたり……とか?」

「芹菜さんって料理しないよね? 土日も取材で出かけたり、家で原稿書いたりするって聞いた記憶があるけど?」

「……旦那さんにご飯作ってもらって、仕事がない日におしゃべりすればいいじゃない……」

「主夫になれる男性と結婚したいってこと?」

「いや、そうじゃなくて……」

「旦那さんが仕事で忙しい時はどうするの? 料理だけじゃなく、掃除や洗濯は?」

「共働きは全然大丈夫……掃除は……きれい好きな男性がいい……かな」

「子どもは?」

「子ども…………はあぁ」


 途切れつつも返ってきた返事は急に途絶える。芹菜さんは深いため息を漏らして沈黙してしまった。

 ううん、芹菜さんだけじゃない。私も秀莉さんの言葉を聞いて、改めて気づかされる。結婚には子どもを産んで親になるという選択肢があることを。


「なんか、結婚って大変ですね」


 それは今の私の正直な感想だった。学生の私にとって赤ちゃんはまるで異世界の存在で、気楽な一人暮らしに慣れているだけに誰かと一緒に住むことすら想像しづらい。


「結婚は生活そのものだから。恋愛と違ってそこまで楽しいものではないんだよね」


 秀莉さんが呟くように言う。


「でも、一人で生きていけるほど人生はラクじゃないし、大変でも誰かがそばにいた方が安心するんだよ」

「……なによ、世界のすべてを悟ったみたいな言い方して」


カウンターに突っ伏したまま、芹菜さんが言い返す。


「私はどうせポンコツよ。いちいち言われなくてもわかってる。料理も掃除も苦手で、洗濯すれば濡れた服を半日放置するような女よ。毎日残業するし、土日も仕事ばっかり。恋と結婚からもっとも遠い場所にいるってわかってる」


ボソボソと独り言のように言ったあと、力なく伏せていた身体をむくりと起こした。芹菜さんは秀莉さんを睨むように見る。


「でもね、私にだって結婚しなきゃいけない事情があるの。今年の冬で35歳。同級生はみんな『ママ』って呼ばれて、久しぶりに会っても子どもと旦那の話しかしないわ。私だけ取り残されて、マダムが言うとおり崖っぷちよ」


パッと見には20代後半にしか見えないし、芹菜さんはとても魅力的なのに。結婚バイアスがかかると崖っぷちになるなんて、年齢は無情な数字だと思う。歳を重ねるほど人間性に深みが増し、味わいが出てくると考えれば、その人が生きてきた年数には敬意を払うべきで憎らしいものではないはず。

 芹菜さんは明らかに苛立った口調で続けた。


「私なんて、マッチングアプリでは冷やかしのヤリモクとしかマッチングしないし、婚活パーティーに行けば年齢を見て鼻で笑われるのよ。ババアが何しに来たって顔でね。毎度のように失望して、恥をかいて、それでも頑張ってるのに。別にブラブラ遊んでるわけじゃない。でも、親はわかってくれないの。『どうして結婚できないんだ。早く孫の顔見せろ』って」


そっと隣を見ると、芹菜さんの手はカウンターの上できつく握りしめられていた。


「努力してるのよ、私なりに。美容院にもエステにも行って、男性受けが良いワンピースを着て、デートの時はできるだけ笑顔でいようとも思ってる」


声が震えているのは気のせいじゃない。芹菜さんは胸を上下させて大きく息をついた。


「それでも、結婚できないのは私のせいなの? 子どもがいないのも、私が悪いの?」


見ちゃいけないと思いつつも目線を上げると、青白い頬には涙が一筋。大きく見開かれた目からあふれ出ていた。


「何がダメなの?」


 やるせない問いかけに、秀莉さんはゆっくりと首を振った。


「ダメじゃない。そんなこと言ってない」


柔らかい声で伝えながら、刺すような芹菜さんの目をまっすぐ受け止める。


「芹菜さんはダメじゃないよ」

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