第14話

「ねえ、その学生証、もしかしてさつき女子大?」


 芹菜さんが、なぜか私の学生証をじっと見ている。淡いピンクにさつきの花が描かれる学生証は学内でもカワイイと評判のデザイン。でも、学外の人が遠目に見てすぐにわかるほど有名なものだったなんて。

 私はちょっぴり自慢げに学生証を芹菜さんに見せた。


「わぁ、懐かしい!」

「え?」

「私もさつき女子大だったの。人間社会学部だったんだけど、あなた……絹ちゃんは? 学部はどこ?」

「先輩、ですか?」

「こんなところで後輩に会えるなんて!」


 それまで表情らしいものを一切見せなかった顔がくしゃっと崩れる。芹菜さんの両頬には可愛らしいえくぼが出て、唇の間からは八重歯が覗いた。


「私も、同じ人間社会学部です」

「学部も一緒なのね! 心理学の笹木先生はまだいる? 私、笹木ゼミだったの」

「いますよ。この間、白髪染めに失敗したとかで、髪が赤っぽくなっちゃって」

「笹木先生が赤毛? 全然想像できない! 私が学生の頃はね……」


 声がワントーン高くなり、さっきまでとはまるで別人の笑みを見せる。薄暗い照明に溶け込んで存在感がなかった芹菜さんが、急にくっきりと輪郭を持って浮かび上がるように感じた。

 テンション高めにしゃべり出す思い出話は今の私の日常そのまま。共通の話題がポンポン出て、芹菜さんは表情をくるくる変えた。遠い世界にいたはずのキャリアウーマンは、気づけばすっかり“同じ大学の先輩”になっていた。


「なぁーんか、すっごい楽しそうだね。芹菜さんってそういう顔もするんだ」


 海斗君が長い髪をポニーテールに結いながら言う。


「やだ、そんな言い方しないで。私が表情のない人間みたい」

「だって、芹菜さんっていつも難しい顔してんだもん」

「大人になるといろいろね。悩みが尽きないのよ」


 カウンターから身を乗り出して、海斗君は芹菜さんと私を交互に見た。


「今の芹菜さんは二十歳の絹ちゃんとあんま変わらないけどね」


 だいぶ歳下の私と同じに見られたのが悔しいのか、うれしいのか。芹菜さんは何か言おうとして口ごもり、そのまま口をへの字に曲げた。


「えくぼ、かわいいよ。もっと笑って」


 海斗君は自分の両頬を人差し指でちょんと突く。芹菜さんは、その仕草になぜか顔を赤らめて俯いた。


「……それ、まったく同じセリフを元彼に言われたことがある」


ボソッと言う芹菜さんは、ふふっと含み笑いを漏らした。


「まだ引きずってるの?」


 元彼の話なんてツッコまなくてもいいのに。秀莉さんは遠慮なく芹菜さんの失恋をほじくった。


「別れたのは半年以上も前だよね。しかも、交際期間はたった一ヵ月。そんなの付き合ったうちに入らなくない? 前も言ったけど、早く忘れないと前に進めないよ」


お客に対する発言としてはかなり不躾でシビアだけれど、そんな言い方をしても構わないだけのやり取りが今まであったかのかもしれない。そんな口ぶりだった。


「わかってるわよっ。そんなの秀莉君に言われなくてもわかってるけど……でもね! 今でもたまにメッセージ送ると返信してくれるの」


ムキになって言い返す芹菜さんは恋する女の顔をしていた。


「何それ。なんで連絡しちゃうの?」


 私のドリンクを作っていたはずの秀莉さんの手がピタリと止まる。


「返事が来るのは、私が嫌われてないってことでしょ。だからまだ……」

「もう終わってるんだよ」

「本当に興味がなかったらリアクションなんかしないし!」

「じゃあ、返事が来るってどんな内容なの? そこに愛はあるの?」

「返事って……その、猫のスタンプとか、なんか、絵文字とか……」

「スタンプと絵文字だけ?」

「いや、その……」

「言葉がない返事に愛なんてないでしょ」

「違っ……猫のスタンプは付き合っていた頃によくやり取りしてたやつだから……」

「だから、何?」

「私たちの間ではちゃんと意味があるスタンプなのっ!」

「意味はあっても愛はないんだね」

「そんな……! 愛はあるわよ! だって……」

「だってじゃない」

「違うの! 彼は……!」


 なんとか言い返そうとする芹菜さんをじっと見つめて、秀莉さんは人差し指を自分の口の前に立てた。


「なによ、黙れってこと?」

「落ち着いて」

「私はいつだって落ち着いてるわよ」

「どこが? ない愛にすがろうとするほど取り乱してるのに?」

「……っ!」


芹菜さんはぷいと顏をそらして、グラスに残っているお酒をひと口飲む。


「ボクは芹菜さんがとても賢い人だと思ってるんだけど」

「別に、賢くなんかないわ。恋愛偏差値30もない落ちこぼれよ」

「ううん、店長のボクが気づいていないことをさりげなく指摘してくれるし、店の経費を減らすアドバイスをもらったこともある。芹菜さんは頭が良くて物事の本質をちゃんと見抜ける人だと思うよ。だから……」

「だから?」

「そんなバカな話はしないでほしい」

「バカで悪かったわね!」


 思わず立ち上がりそうになる芹菜さんに秀莉さんは手を伸ばした。


「な、なによ?」

「あ」

「……」

「あ」


小首をかしげて『あ』の口を作る秀莉さんは、困惑する芹菜さんの前に何かを差し出している。


「あーん、して」

「は?」

「甘いものでも食べて、まずは落ち着いて」


そう言われてやっと、芹菜さんは自分の顔の前に視線を移した。


「今夜のチャームはくるみのキャラメリゼ。とりあえず食べてよ。おいしいから」

「なっ……!」


何か言いかけて、でも言葉は出てこないまま、芹菜さんは秀莉さんの指からくるみを奪い取った。乱暴に口に放り込む。


「ん……!」

「おいしいでしょ?」

「う……まあまあ、じゃない?」


 淡いピンクのグロスが乗った唇が一瞬笑みの形を作ったように見えた。秀莉さんは小皿にくるみのキャラメリゼを盛って芹菜さんの前に出す。


「絹ちゃんもどうぞ。うちのチャームはね、ぜんぶ秀莉が作ってるんだよ」


 そう言って、海斗君が私にも同じ小皿を出してくれる。けれど、心なしか盛りすぎているような。


「俺もひとつもらっていい?」


悪びれることなく客の皿からつまみ食いをするのは、なんだか海斗君らしい。私も香ばしく甘い香りのくるみをひとつ取って食べた。


「あ、おいしい!」


 口に入れた瞬間、シナモンとバターの香りが広がる。煮詰めた砂糖はコクがあり、カリカリした食感が楽しい。噛み砕くとくるみの自然な甘さが味に深みを出して、飲み込むのがもったいなく感じた。

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