2.ウォーター・エレメント
第12話
くすんだ古い木のドアが開くと、中からピアノの音がこぼれ出て身体にまとわりついた。穏やかな音の並びが紡ぎ出すのは子守歌のように優しいメロディー。でも、どこか切なく、ねっとり重く聴こえるのはなぜだろう。
情緒的な音楽は、ときに乱暴に感情を引きずり出す。どうしようもない失恋に絶望して落ち込んで、そして一応は吹っ切れたはずなのに。私はまたじわりと込み上げそうな悲愴を無理やり抑え込んだ。
「いらっしゃいませ」
薄暗い店内で唯一明るいカウンターから男性が声をかける。
“水槽”と名づけられたショットバーは、その名前どおりに壁一面が水槽で覆われて青かった。カウンターの奥に置かれたアップライトピアノの周りだけが暗く、黒い服の弾き手は四角いシルエットにすっかり同化してしまっている。
「アクアリウムへようこそ」
茶色いくせ毛のバーテンダーが丸い目を糸のように細めて笑った。壁を感じさせないその表情は、実家で飼っている柴犬になんとなく似ている。サブロウ元気かな。そんなことを思いながら、私は勝手に親近感を覚えた。
「はろー。いらっしゃーい」
サブロウに似た彼の横で、大柄な男性が長いプラチナブロンドを揺らしながら手を振った。緊張感のない間延びした喋り方はまるで友だち感覚。初対面のはずなのに、どこかで会ったっけ? と思わず記憶を探ってしまった。
「
この店のオーナーである占い師のマダム・アイリーンは、プラチナブロンドの彼にチクリと言う。カウンターの中でスツールにまたがる彼は、淡いパープルのワイシャツを第二ボタンまで外して鎖骨が丸見え。裾も出しっぱなしで、その姿はもはや着替え途中と言っていいのかもしれない。サブロウ似の彼がキチンと着込んだ上に襟にはボウタイまで結んでいるものだから、ロン毛の彼がだいぶルーズに見える。
「なんなの、もう」
「着崩しコーデって言ってよ」
「何言ってんの。だらしないだけでしょ」
「あはは。せいかーい」
そう言って笑う様子は無邪気だけれど、なんだかつかみどころがない。
「海斗、ウチだったら赤いエプロンつけときゃ何でもOKだよ」
「いいなあ。ファイヤーゲートはラフで」
マダムの後ろから顔を出すのは、ハンバーガーショップ・ファイヤーゲートでスタッフを勤める瞬君。お酒好きらしく、マダムの誘いに乗って私と一緒にアクアリウムに流れたのだった。
ファイヤーゲートは私の元彼が引き起こした詐欺事件に巻き込まれて、いつもよりだいぶ早くお店を閉めることになった。申し訳ないと思ったけれど、店長の怜司さんは警察の人に呼ばれて、創也さんはモデル仕事の打ち合わせが入ったからとサックリ閉店。マダムも占い鑑定のスケジュール変更を余儀なくされて、今夜は飲む気満々らしい。
私はというと、失恋したばかりで一人になるのは心細く、“イケメンぞろい”というショットバーには下心も含めて興味があった。
「俺もファイヤーゲートで働きたいなあ。こっちの制服、着るのめんどくって……」
そう言いながらあくびをするプラチナブロンドの彼は、確かに彫りの深い整った顔立ちをしていた。もしかしたら、海外の血が混じっているのかもしれない。彼の顔が青白く見えるのは水槽の薄暗い青色が反射するからだけではなさそう。
「怜司は根っからの体育会系よ。瞬だって、かわいい顔してるけどゴリゴリの武闘派だしね。マイペースな海斗にはアクアリウムがちょうどいいんじゃない?」
マダムが顎をしゃくるのに頷いて、柴犬のような彼が気怠いロン毛のだらしないシャツを引っ張る。母親が小さな子どもにするようにボタンをかけてやった。
「しっかりしてよ。お客さん、来てるんだから」
言いながら、マダムは後ろに立つ私を振り返った。
「このデカいお子ちゃまは
海斗君は長い指でピースサインを作り、サブロウ似の店長さんは目を細めて微笑む。カウンターの奥で静かにピアノを弾く背中は振り返ることなく、音に合わせて微かに揺れていた。
「……あら、アナタ、
カウンターの端には女性が一人座っている。マダムはその顔を見て声をかけたが、ダークグレーの服を着たその人は暗い店の照明に紛れて存在感がなかった。
「覚えてるんですか?」
肩を叩かれてやっと顔を上げる女性は、明らかに動揺している。
「やあね。私を誰だと思ってるの? “恋の駆け込み寺”と呼ばれるマダム・アイリーンよ。私を頼ってくれたお客さんのことは全員よーく覚えてるわ。先月の頭に婚活がうまくいかないって来たわよね。その後どう?」
「……ボチボチ、ですかね」
「ふぅん。婚活疲れでマッチングアプリを開く気にもならないって感じ? あるいは、どんだけ検索してもピンと来る人が見つからないとか」
「はあ、どっちも当たりです。マッチングしなさすぎてやる気がなくなりました」
「芹菜ちゃん、34歳よね。同世代の男狙うなら、そろそろきつくなってくる年齢よ。女の価値は若さだけじゃない! ……と言いたいところだけど、崖っぷちなのは間違いないから。ガチで結婚したいなら一秒でも早い方がいいわ」
「……」
私も鑑定では遠慮なくズバズバ言われたけど、マダムは芹菜さんという人に一段と容赦ない。
「今年の誕生日がリミットよ。35歳になったら婚活の難易度が一気に上がっちゃうわ。がんばって!」
プレッシャーをかけて追い込むような励ましを言うと、マダムは瞬君を手招きして奥のテーブルに向かった。
「アタシら呑兵衛は適当に飲んでるから。絹ちゃんはお酒そんなに飲めないでしょ」
「え、はい。お酒はまったく……」
私が下戸だとマダムに伝えた記憶はないのだけど、アルコールが苦手そうに見えたんだろうか。
「絹ちゃん、真面目な乙女座だもんね。秀莉に頼めばおいしいノンアルカクテル作ってくれるわよ」
マダムが指さす先には店長の秀莉さん。笑うと目がなくなる笑顔でこくんと頷いた。
そんな私たちのやり取りにかき消されるほど小さく、ぼそりと呟きが漏れる。
「……相変わらずの毒舌ね」
芹菜さんは誰に言ったわけでもないのだと思う。でも、私は何か返さなきゃと思った。
「ですよね。私もコテンパンに言われちゃいました」
仲良くしたいとか、そういうのではなく。放っておいたらいけないような気がして、私は彼女の隣のスツールに腰掛けた。
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