第十陸話 天正十年 六月二日 本能寺 其の弐

 六月一日夜、惟任日向守は坂本城から、兵一万三千を以って出陣した。


 兵に対しては、上様から直々に出陣の命を受けてから、中国攻めに向かうと伝えていた。


「それにしても、斎藤内蔵佐は軍議で、最後まで謀反に固執して奏上しておったな……」

 出陣が夜半に延びたのも、軍議の打ち合わせが、中々収まらなかったからである。


「此度の四国攻めの件は長宗我部土佐守が上様に与力することで、高知國・伊予國の二か国の本領安堵の内諾を取っておる。斎藤内蔵佐も縁者の件ゆえ、心配も分かっておるが、今の情勢で長宗我部土佐守に四国全土を安堵するのは、却って後の禍根を残す事と成ろうぞ」

 そう言い含めて、軍議を締めたのであった。


(あとは徳川蔵人佐が委細を承知すれば、穴山玄蕃を討つのみで、今回の大坂攻めは完了だ。後は穴山の首級を以って、上様に征夷大将軍の推認を御受け頂かねばなるまい)


 惟任日向守の軍は老の山から左へ下り、桂川まで辿り着くと一路京を抜けて大坂堺に軍を進める旨を、全軍に下知した。

 全軍が桂川を渡り、洛外を鳥羽まで進んだところで、後方の部隊が遅れてるようであった。

 鳥羽は洛中から、南に二里も先へ進んだところである。

 残軍の指揮を息子の明智十五郎光慶に任せると、惟任日向守は馬周り衆数百を率いて、後続の様子を確認に向かった。


(斎藤内蔵佐が二心を持っておらねば良いが)



◆    ◇    ◆    ◇    ◆



 惟任日向守の杞憂は現実の物となっていた。


 斎藤内蔵佐と息子与兵衛が独断で後続二千の兵に対して、上様の御前で馬揃えの儀を執り行う事になったと申し付けて、本能寺に向かったとの事であった。


(しまった!軍議の場であれだけ言い含めておいたものを…抜かったわ)


 急ぎ兵を後続の兵数百と合流して、併せて兵千名をを引き連れて、急ぎ京の都に取って返した。


 京の町に入洛すると、夥しい数の『角折敷すみおしき三文字みもじの紋』の白地の旗印が翻っていた。

(何故京の都に、稲葉伊予守の軍勢が居るのか!一見するに兵二千と見受ける)


 惟任日向守の頭の中では、稲葉伊予守と斎藤内蔵佐が未だに内通していた事に思いが至った。


(そうか!全て稲葉伊予守の企みで在ったか。しかも10年余りもの間の謀とは…頑固一徹じゃな)


 直ぐさま手勢千騎に大声で下知した。

「敵(斎藤内蔵佐)は本能寺に在り、努々遅れるでないぞ!」


 そして一路本能寺に向けて馬首を巡らし、全速力で駆け出した。


(間に合えば良いが…)


 本能寺で桔梗紋の旗印と、同じ桔梗紋の旗印が対峙していた。

 ただし傍目には、単なる増援が合流した様にしか映らない。

「チィッ、桔梗紋の旗印を勝手に使うとは…」


 惟任日向守は単騎で本能寺の寺門に辿り着くと、双方に聞こえるように大声量にて下知した。

「惟任日向守!此れより上様に拝謁致す。皆の者、手出しは一切無用と心得よ」


 そして本能寺の寺門を開かせて、上様の在所に向かうのであった。


**********************


 あとがき


 ※1 斎藤内蔵佐利三について


    元亀元年(1570年)に稲葉良通の元から、

    明智光秀の元に転仕している。

    理由は碌の不足に不満を抱いて、

    出奔した事となっているが、

    元々が稲葉良通による布石であった可能性は否定出来ない。

    また事あるごとに、明智光秀に対して謀反を進言している。


    斎藤家一族は美濃の名家であり、斎藤道三の一族は傍流に当たる。

    また正室は斎藤道三の娘であるが、正式な資料は無い。

    継室は稲葉良通の娘であり、側室も稲葉通則の娘であり、

    稲葉一族と敵対する要素は本来皆無である。

    

    また長宗我部土佐守元親の正室は、義父妹である。

    

    【本能寺の変】

    天正10年には、稲葉良通の家臣『那波直治』を、

    明智家に無断で引き抜き、稲葉良通からの訴えで、

    5月28日には織田信長から、切腹の沙汰が降りている。

    本能寺の変の僅か四日前の出来事である。

    

    この一連の流れは不可解で在り、そもそも主君に内密で、

    『那波直治』を仕官させる必要性が不明である。

    寧ろ明智光秀を追い込むための、

    稲葉良通の策略であった可能性は非常に高い。


    ただし斎藤内蔵佐利三が名家の出故に、

    独断専行する性格であった可能性も否定できない。

    

    しかし、本能寺前夜の謀反の謀議に於いては、

    ただ一人反対したとの資料も存在する。

 

    前後のより確かな記録を見比べた時に、

    何者かの記録の改竄が行われた可能性が高い。

    それが出来た人物も、また限られるのである。



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