第十漆話 天正十年 六月二日 本能寺 其の参
私、惟任日向守は本能寺の中を、織田
本能寺は日向守も良く利用していたことも有り、屋敷の内部は熟知していた。
上様の在所と思われる広間に付くと、木戸越しに声を掛けた。
「惟任日向守、緊急の用向きにて罷り越しました」
中からは、上様の落ち着いた声が返ってきた。
「日向守か?構わん入れ」
私(日向守)が恭しく入室すると、上様の右肘には種子島に撃ち抜かれた跡から出血していた。
直ぐに上様に駆け寄ると、矢玉用の膏薬を袱紗に厚く塗ると、傷口に押し当てた。
その様子を見ながら、上様が残念そうに呟いた。
「此度の討ち入りは、日向守の差配では無いのか?」
「上様、申し訳ございません。此度の逆心は斎藤内蔵佐父子の独断でございます。尚二条新御所の辺りには、稲葉伊予守の旗がはためいて居り申した」
「フーッ、是非も無し」
上様は溜息を吐かれると続けて、申された。
「此度の謀反は朝廷の手引きによる企みぞ。余が存じて居る真相を語って進ぜよう」
改めて傷口を抑えながら、座り直すと稲葉伊予守について語り始めた。
「此度の絵は手が込んでおる。こんな絵が書けるのは、稲葉伊予守良通くらいじゃろうのう。元々奴ら美濃衆だけが織田家臣団には加わらずに、与力として余から一線距離を置いて居ったわ」
上様は静かに目を閉じて、長い陰謀を語り始めた。
「まず初めは先年亡くなった竹中半兵衛重治じゃ。吾奴を家臣に列する様に命じたところ、筑前の与力を選びおった。儂への与力には無理が有るので、家臣に与力するという建前で独立を維持したのじゃ。そして後押ししたのは、稲葉伊予守良通じゃ。元亀元年(1570年)の頃じゃのう。次が日向守じゃ。斎藤内蔵佐利三が稲葉伊予守良通の元を出奔して見せたのは、先を見据えての謀よ。確か日向守の家臣に列したのは、同じく元亀元年(1570年)であったのう。更に稲葉伊予守良通自身は姉川の合戦の折りに一人、徳川蔵人佐に与力しおった。これも同じく元亀元年(1570年)のことじゃ。つまり同じ年に儂の有力な家臣、日向守・筑前守・徳川殿に軍者を送り込んでおった訳じゃ。この様な偶然が有るものであろうかのう。話によると時期こそ異なるが、三名共々恵林寺に居った快川招喜の愛弟子じゃよ。そして朝廷とも浅からね縁がある。其方と同じ名門土岐氏の末裔じゃからな」
腕の傷が痛むのか、一息吐くと続けて語った。
「あれは、天正二年(1574年)のことじゃ。とある筋から稲葉伊予守良通の謀反の計画を、漏れ聞いたのじゃ。そこで早速、茶会に招いてその場で誅すつもりだった。しかし逆に諭されて仕舞ってのう、今稲葉伊予守良通を誅せば、織田家自体を滅ぼす計略が用意されておると。しかしその後に天正五年(1577年)に竹中半兵衛重治が戦場で病没した頃から、急に美濃の動きが慌ただしく成っていきおった。当初は筑前への抑えが効かなくなったからかとも思って居ったのじゃが、ひょっとすると、全ての計略は竹中半兵衛重治が仕組んで居ったのやも知れぬ。更に此度の甲州征伐で発覚したのじゃが、武田領内に土岐頼芸を匿って居ったのじゃ。それを儂に無断で美濃に引き取って居った。長く其方に土岐の姓を与えられなかったのも、土岐頼芸が存命だったからじゃ。土岐家の家督を日向守に相続する様に、内々に稲葉伊予守良通に命じたが、それにも頑として、首を縦に振らなかったのう。正に頑固一徹じゃな」
織田
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あとがき
※1 稲葉伊予守良通について
天正二年に織田信長から茶室にて暗殺未遂事件が起きており、
その頃に出家し『一徹似斎』を号してる。
また一貫して織田信長の家臣になる事を拒み与力として、
独立勢力として、西美濃最大の勢力を誇っていた。
また稲葉家は伊予国の名族河野氏の一族であり、
伊予國が織田信長の差配次第であることには、
かなり強い不満を抱いていたと思われる。
更に先の甲州征伐の折りの恵林寺焼き討ちの際に没した
『快川招喜』は幼少時に崇福寺で学んだ師であった。
尚、齊藤利三が六条河原で斬首されると、その娘(春日局)を
養女として引き取っている。
【本能寺の変】
この時、織田家臣団及び与力衆の中で、
唯一兵力を自由に動かせたのは、
明智光秀と稲葉良通の二人だけで在り、
本能寺の変の折りには既に兵力を整えていた。
通説通り、本能寺が明智光秀の謀反であれば、
西美濃の稲葉良通との対峙が目に見えていたため、
密約が為されていなければ、本能寺の変を起こす事は、
大きなリスクを伴っていたはずである。
実際に本能寺の変の後は、敵対行動を取っている。
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