第十壱話 天正十年 五月十三日 安土城信長の間

 予定より早く、私(日向守)は重臣の横尾庄兵衛と供回りを引き連れて、安土城に登城した。


 わたしは年始の祝いの奏上以来になる、信長しんちょうの間に通された。

 この日の上様は、ひどく機嫌がよく見えた。


(例の如く、変な思い付きをなさらなければいいが)


 織田前右府さきのうふ様は、自ら茶の湯を振舞われた。

 三口半……味わい深く服すると、器を繁々と眺めた。


(これは普段目にする大名物とも一味違うが、趣があるな)


 器を戻して、お茶の振舞いに御礼申し上げた。

「器も新しき試みと存ずる。善きお手前に御座り申した」


「来月は公卿どもに歴代の大名物と共に、こうした瀬戸で作らせた今様いまようも振舞うつもりじゃ。特に堺商人の利休の見立ては、善きものが多く面白いのう。うひょひょひょひょ……」


 上様は一頻り笑顔で居たかと思うと、急に表情が厳しくなった。

「さてと、此度の用向きは瀬戸物のことではない。日向守に申し付けていた懸念のことよ」


 私(日向守)は前回知らされた、徳川蔵人佐と羽柴筑前守の企みの件だと思い出し、緊張した面持ちで上様の言葉に対して姿勢を正した。


「甲斐国の躑躅ヶ崎館の折り、近衛太政大臣がその場に居合わせていたであろう」

 知らずに目線は、先程まで茶器が置かれていた場所に視線を落とし、額に汗が浮かぶのを感じていた。


「どうせ近衛太政大臣に口止めでもされてたのであろう。問題は何故あの場に居たのか?そして素知らぬふりで迦葉峠に現れて、本陣との同行を求めたのか?色々と面白きことが見えてきたぞ」


 私(日向守)は話の展開が、意外な方向に進んでいることに疑問を浮かべた。


「それは一体どうしたことでございましょうか?帰路に於いて推認の件を談判しに参っていたのでしょうか?」


 上様は、首をゆっくりと振ると先を続けた。

「徳川蔵人佐は如何にして軍を整えて、駿河國を制して甲斐国に入ったのかの?事の発端は木曾伊予守の謀反がきっかけであったが、その様な情報を浜松で受け取るのにどれだけの時間が必要になるのかの?駿河國には他にも武田の諸将が居ったのにも拘らずにじゃ」


 更に声を潜めるように、話の核心に触れた。

「全ては近衛太政大臣の筋書きじゃよ。儂が直々に本軍を進めていたら、武田諏訪四郎と徳川蔵人佐に一杯食わされるところじゃったわ。更に恵林寺の焼き討ちじゃが……あの寺には乱破や密使の類が頻繁に出入りしておったのじゃ。これだけの大きな絵を書けるのは、天下に三名しか知らぬ」


 上様は天井画を見詰めながら、暫らく考えて呟いた。

「もしも儂が戦勝気分に浮かれて、近衛太政大臣の同行を許して居ったら、穴山玄蕃が領しておった江尻城か、浜松城に於いて暗殺されていたかも知れぬのう。富士見遊山の折々の宿所は事前に整えられておった。恐らくは儂と太政大臣が共に、遊山する予定で設えたのであろう。各所に違和感を感じたぞ。そして極め付きは浜松城の饗応の折かのう……」


 私(日向守)も思惑の全容が、手に取るように見える様であった。


(そうか!近衛太政大臣は私に対しての内応は、万が一の布石に過ぎず。本心では徳川蔵人佐との密約によって、上様を誅すつもりだったのか)


 織田前右府さきのうふ様は、私(日向守)に命じた。

「惟任日向守よ。徳川蔵人佐と穴山玄蕃は四月十五日には安土城に上洛する。その饗応の折りに、二人共ども誅すのじゃ」


 私(日向守)も先の剣豪公方様が、如何に卑劣な手段で三好衆に暗殺されたかを目の当たりにしている。

 今回の上様の想像も大きくは外れてはいまい。


 しかしだ……これは上様には申し上げられぬ事ではあるが、私自身が此度の計画に加担していたのだ。

 それを隠すように、徳川蔵人佐と穴山玄蕃を暗殺するのは筋が通らない。

 更には、徳川蔵人佐と穴山玄蕃の暗殺を知った近衛太政大臣が、私の二心を上様にばらす恐れも十分に考えられた。


「私……日向守には出来ませぬ」


 上様は、顔色を変えたと思うと、徐に足蹴にした。

「何故出来ぬのじゃ!儂のめいであるぞ。それとも儂のいのちよりも徳川蔵人佐や穴山玄蕃の命の方が大事と申すのか!」


 何度も蹴りつける上様の背後には、上様を神に見立てた天井画が目に映った。


「予定通りに安土の饗応役は日向守に一任する。もしも安土饗応で暗殺が不手際に終われば、相応の覚悟を致すが良い」



 私(日向守)は、唯々実態の上様と天井画の上様を見比べながら、どちらが本当に目指す織田前右府さきのうふ様の姿であるか?と物思いに耽っていたのだった。

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