第十話 天正十年 五月四日 琵琶湖湖畔

 五月二日には、正親町帝と誠仁親王の親書を携えて、大御乳人おおちのひとと上﨟局が勅使として登城したが、居留守を使われて、中々面会することが出来なかった。


 安土城下の屋敷から連日登城して面会の旨を奏上するも、再三に亘り森御蘭なる小姓が取次ぎ、本日は昼寝してるだとか、本日は機嫌が悪いので会わないなどと、のらりくらりと面会を日延べにされた。

 女房衆も怒り心頭になった頃、ようやく五月四日に面会できるとの知らせが入った。


「本日はご機嫌よく、面会できるでしょう」

 急ぎ安土城に登城をすると、前右府さきのうふとの面会を求めた。


 広間では、織田前右府さきのうふは大層機嫌が良いように見えた。

 大御乳人おおちのひとと上﨟局の二人の勅使が、正親町帝と誠仁親王の親書を手渡すと、その親書は森御蘭なる小姓が代位して受け取り、控えの間に下がってしまった。


 随伴役として登城していた勸修寺かじゅうじ権大納言が、念を押すように奏上した。

「此度は武田の甲州征伐の儀、速やかなること。古今例の無き武勇を天下に示された。此度の戦勝を改めてお祝い申し上げると共に、京から関東に至るまで、諸将悉く織田前右府さきのうふ殿の意向の元に従い、鎌倉公方以来の信望が高まり申した。此処に至り帝は、織田前右府さきのうふを征夷大将軍に推認し、幕府を以って天下平定を望まれておられます」


 しかし織田前右府さきのうふは、意にも介さぬように振舞い申された。

「帰洛前に琵琶湖にて、舟遊びをしては如何か?」


 女房どもは、申し出を喜び、早速仕立てられた三艘舟に乗船した。

 安土城は琵琶湖湖畔に面しており、城から直接琵琶湖に出向できるように築かれた城であった。

 しかし辺りを見渡しても、肝心の織田前右府さきのうふは舟には乗船していなかったようである。

 やがて一艘の舟が近付いてきたと思うと、正親町帝と誠仁親王への返書が差し出された。


 これを以って、安土から帰洛の道に着くことになった。



 ◆    ◇    ◆    ◇    ◆



 その頃、同じく琵琶湖湖畔に面した坂本城に於いて、私(日向守)は、中国攻めの準備と安土饗応の準備に奔走していた。


 そんな折に四国情勢に関して、大事な知らせが舞い込んだ。

 五月七日に、織田前右府さきのうふ様より朱印状が発せられたのだ。

 その内容は、以下の通りであった。


 一、讃岐國は織田信孝に与えること

 一、阿波國は三好康長に与えること

 一、土佐國・伊予國の儀、織田前右府さきのうふが淡路出陣後に沙汰致すこと


 この内容に激昂したのは、齊藤内蔵助であった。

 ちょうど十年前、四国政策を決めている折に禄の不足を嘆き、主家稲葉伊予守の元から出奔したのを重用したのであった。

 また長宗我部土佐守の正室は、齊藤内蔵助の義父妹である。


「惟任日向守様、この機に乗して前右府さきのうふを誅すべきと存ずる」


 私(日向守)も四国との同盟に奔走して、天正三年には織田前右府さきのうふから、長宗我部土佐守に対して『四国の地、切取り次第』の朱印状を発給を取り付けていた。

 齊藤内蔵助の気持ちも痛いほど承知していた。


「近くまた安土に登城する。その折に上様に談判致す故、その儀は暫らく静観せよ」

 熱く語る齊藤内蔵助を宥めるのであった。


 私(日向守)は、中国攻めの準備と安土饗応の準備に加えて、四国の仕置についても、頭を悩ます事となるのであった。

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