第四話 天正十年 三月八日 犬山城

 本日、織田前右府さきのうふ様は惟任日向守らと共に、犬山城に着陣した。


 二月九日には坂本城を進発したが、安土城から上様と共に出陣したのは、三月五日であった。


 私(日向守)は織田三位中将さんみちゅうじょうの後詰めに先行している部隊を、遥か後方から指揮を取っていたが、その差配は常に後手後手に回っていた。

 何故なら武田の軍勢は次々と投降、または内応で寝返っており、本軍は攻城戦に備えた軍勢を殆ど減らすことなく、破竹の勢いで進軍を続けていたのだ。


 それに対して、上様が事前に整えていた軍は佐和山から安土に続く街道を、途切れることなく参集を続けていたのだ。

 安土城に続々と軍勢が集結していたが、最前線から三月二日に高遠城落城の報が届くと、急遽信濃路に向けて、兵を以って出陣する運びとなったのであった。



◆    ◇    ◆    ◇    ◆



 織田前右府さきのうふは、終始不機嫌であった。


 それは自らが到着することなく甲斐武田家が滅亡してしまっては、天下に面目を施すことが出来なくなるからである。

 しかも今回の甲州征伐は、上意により甲斐武田家はとなっている。

 織田前右府さきのうふは、心中複雑な心境であった。


(全く日向守も、余計なお節介をしてくれたものじゃ)


 安土城を出陣してからも、続々と吉報?が届く。


 去る三月一日には、徳川蔵人佐が敵将穴山玄蕃を調略すると、徳川軍は遠州口から駿河國を無傷で手中に収めて、早くも甲斐國に向けて進軍を始めたとのことであった。


(何たる事じゃ!穴山玄蕃は武田一門衆の筆頭ではないか)


 また織田本軍からも、三月三日には武田諏訪四郎自らが新府城に火を放ち、廃城として落ち延びたという知らせが届いた。

 その供回りは僅かに千名程とのことであった。


 武田軍勢は武田諏訪四郎に代替わりしても精強で在り、儂から見ても先の長篠合戦の折の武田諏訪四郎の指揮ぶりには、目を見張るものがあった。


(さすが信玄が作り上げた軍団である。代替わりしても甲州兵の頑強さは変わることは無いのう)


 そして七年の間に武田諏訪四郎も成長し、家臣団はより強固になり、軍勢の数も十分に補充されて約二万の軍勢になると聞いていた。

 新たに築かれた新府城の縄張りを手に入れた際には、種子島(鉄砲)対策の施された天下の要害となっていることを目の当たりにしていた。

 その為に甲州討伐に際しては、慎重に後詰めとして兵の準備を整えていたのである。


 然るに犬山城に着陣した折には、戦いの趨勢は既に決していた。

 途中、嫡男三位中将さんみちゅうじょうから仁科五郎薩摩守の首級が届けられた。

 仁科五郎薩摩守は、信玄公の跡目相続にも名を連ねた一門衆である。

 また甲州討伐の要衝、高遠城の攻略も終わったことを意味していた。


(何という事じゃ!このままでは儂の出番がないではないか)


 その夜は、夜空に真っ赤に天垂れるオーロラが彩った。


(これは武田家滅亡を暗喩しているのか、それとも…)



 直ぐさま、翌日本陣を岩村城へと進めるのであった。


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 あとがき

 ※1 今回は織田信長視点が交ってます。

    どうしても展開上不可欠なので挿入いたしました。

 ※2 日本で最古の資料は「日本書紀」の推古朝(西暦620年)に、

    あめ赤気あかきしるしと記されいる。

    鎌倉時代(西暦1204年)には藤原定家が「明月記」い於いて、

    赤気せっきとして詳細な記述が見られる。

    この折のオーロラが資料として現れるのは三例目であった。


    その他、ご意見等がございましたら、よろしくお願いいたします。

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