第三話 天正十年 二月九日 坂本城
私(日向守)の杞憂は、現実のものとなった。
「名門甲斐源氏の命運もここまでか」
二月三日には安土城の織田
ことの経緯は、新府城の普請に起因していた。
昨年、急遽取り掛かった築城であったが、普請は日向守の見立ての通り上手く進まなかったようである。
天正九年の甲斐・信濃では、異例の重税が年貢や賦役として課せられた。
しかし民衆には、新府城築城の重要性が浸透しなかった。
民衆や有力豪族からの反感は、日々刻々と募っていた。
そうした背景の元で二月一日には、信濃の名族木曾伊予守が謀反を起こした。
これに激高した武田諏訪四郎は、甲斐に人質として在していた伊予守の母・嫡男・長女の悉くを処刑した。
そして木曾征伐に、総勢一万五千の軍を新府城から出陣させた。
その知らせを受けて戦機と大義名分を得て、上様から出陣の触れが出たのだった。
「信玄公の御代なら、龍王之川除(信玄堤)の様な普請にも、民衆は
私(日向守)は独り言ちた。
長篠の合戦から七年足らず、有力家臣を失った甲斐源氏の凋落振りは想像以上であった。
しかし悠長にもして居られなかった。
朝廷との謀略を、表沙汰にしてはならなかったからである。
直ぐさま、正親町帝からの勅命を求めるために奔走した。
そして私(日向守)は『東夷武田討伐の勅命』を得て、安土城の上様に届けさせた。
これにより武田諏訪四郎は
そしてこの日には坂本城にも、甲州討伐の陣触れが届いたのだ。
私(日向守)は、手勢を伴って出陣した。
此度のお役目は、伊那口から信濃に進軍する織田本隊の後詰めである。
総大将は織田
(此度の
その一方で馬上から、遠く西方彼方の四国の梟雄、長宗我部土佐侍従の行く末を案じていた。
丁度同じ日に、四国征伐の陣触れも出されたのだ。
私(日向守)とは長く誼を通じていた仲で在っただけに、遣る瀬無い想いでの出陣となった。
信濃路の攻略は順調に進んだ、事前に調略した領主を始め、戦意を喪失していた豪族たちは相次いで降ったため、進軍は無傷のままに運んだ。
「甲斐の虎と恐れられた、甲斐源氏もここまで凋落していようとは……」
若き日にお仕えした剣豪公方様、一時は客将として仕えた越前の朝倉家、海道の弓取りと称された今川家、軍神と恐れられた関東管領上杉弾正も四年前に亡くなった。
そして今、名門の甲斐武田家も滅亡の際に居るのだ。
時に齢五十五歳、今尚も
そして戦国の英傑たちの栄枯盛衰に、想いを馳せるのであった。
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あとがき
※1 惟任日向守の生年は諸説ありますが、享禄元年の説を取りました。
理由としては、毛利征伐増援に向かわせるのに67歳は酷であること。
同様に畿内領地を召し上げて、山陰の旧毛利領を切取次第とするのに、
67歳では理に合わないと考えました。
もっとも本能寺の変を起こす位ですから、否定する理由も在りません。
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