第20夜 侯爵の誤算

 露わになった茨姫の右腕。


 白くきめ細やかな肌には、侯爵が想像していたような切傷などはなく。

 代わりにあったのは、手のひらに貼り付けられた湿布だった。


「これは……?」


 密室てぶくろから解き放たれた湿布薬の匂いが少し遅れてやってきた。

 ウィンターグリーンの清々しい香りのせいか、はたまた何かとんでもない勘違いをしていたのではないかという動揺か、侯爵の体から一気に熱が引いていく。



「…………書き物のし過ぎで、手を痛めただけですわ」


 必死に隠していたものを強引にさらけ出されて、茨姫は盛大に拗ねている。

 ムスッとした顔で唇を尖らせながら、目線もあわさない。


腱鞘炎けんしょうえん……? 手職者や学者でもあるまいに。一体何をすれば、高級娼婦が腱鞘炎になどなるんだ」


 問いではなく独り言のようなものだったが、茨姫は自嘲とも言える笑みを返した。



「何をすれば? そうですわね、政治論文を書いたり、公娼税引き下げの嘆願書を書いたり、何千何万のチェスの棋譜を記したり、詩を綴ったり…… 思いつく限りのあらゆる書き物ですわ。ここでは…… それくらいしかすることがないもの」



 茨姫は訳あって、夜想亭の外に出ることを禁じられている。

 更に彼女はこの店のNo.2であるがゆえに、ホールで従業員として働くことも許されていない。

 彼女が誰かと関われるのは弓張月の日しかなく、必然的にずっと部屋に引きこもっているということになる。



「ねえ侯爵様。部屋にずっと一人きりで引きこもっていると、どうなるかご存じ? 寂しくて気が滅入る? それとも誰とも関わらなくて気楽かしら? いいえ、違う。答えは『無』よ」

 

 世間との関わりが絶ち切れ、誰からも忘れられ、ゆえに誰からも求められない。自分がなにをすべきか、なぜ存在しているのか、何もかも分からなくなり、


「そうして終いには、私は『私』を忘れてしまう…… だから私は書くのよ。自分を繋ぎとめるために」



 茨姫は何を思ってか、部屋の隅に置かれていた大きなトランクをズルズルと引っ張ってくると、侯爵の目の前で盛大に引き倒した。すると中から大量の紙が雪崩のように溢れ出てくる。


「展覧会の台本よ……」


 侯爵は思わず目を見開いた。

 目の前に雪崩れて雪原を成している紙の束は、ゆうに一万枚は越している。


 そもそもこの大陸において、紙は貴重だ。このように肌理きめ細かい紙となるとかなり高価なはず。それをメモ書き程度に惜しみなく使うとは、かなりの財力の証だが、彼女が言いたいのはそんなことではなく、



 孤独——



 夜想亭の「茨姫」といえば、ラクリア旧公国の成人男性ならば知らぬ者はいないほどの有名人であり、憧れの高嶺の花。


 麗しく、気位高く、身の内の棘を隠そうともしない、まさに薔薇が如き姫が、こんな切なる悩みを抱えていたとは。


 人々の間で語られる空想の「茨姫」と、現実の「茨姫」。そして「茨姫」となる前の彼女。その全てを知る侯爵は言葉を失った。



「……シルヴィエ様、これを」



 侯爵は浴室の壁にかけられていたバスローブを手に取り、茨姫の体に優しくかけた。

 姫は昔の名を呼ばれて、ほんの少し眉を上げたが特に何を言うでもなく、バスローブをそのまま身に纏う。



 侯爵は昔の彼女知っている。


 と言っても、本当に知っているだけだ。

 互いに言葉を交わしたことはなかったし、顔を合わせることもほぼなかった。それでも彼女のことは鮮明に記憶に残っている。



 四大公爵家が一、赤薔薇イルローザ家の姫君。

 シルヴィエ・イルローザ。



 この国を束ねる四大公爵家、彼女は外交を司るイルローザ公爵の実子にして長女。紛れもなく尊い血筋の姫君であり、ラクリア旧公国軍の軍人である侯爵が仕えるべき、主君おうの一人であった。



 それがなぜ今、娼婦などに身をやつしているのか。

 その「真の理由」を侯爵は知らない。


 だが、不遇の身にある彼女が王の指環を求めていることは知っている。


 自らの身の正当性を世に知らしめ、失われた名誉を回復するには「王」になるしかない。


 だからこそ、鑑定屋の襲撃犯は彼女に違いないと咄嗟に思ったのだ。

 苛烈な性格の彼女なら強硬な手段も問わないと。

 復讐のためなら自らの手を血に染めることも厭わないと、そう思ったのだが。



 侯爵は改めて目の前に佇む美姫を見た。


 緩やかにうねる金の髪。

 紅玉よりも美しい紅の双眸。

 陶磁器のような滑らかな肌。

 人形師が技術の粋を集めて作り上げた最高傑作とも言うべき美貌を誇る姫は、いま、何も映していない空っぽの目で侯爵の顔を見つめている。



「やってしまったな……」



 侯爵は頭を抱えた。

 彼女が王の指環を求めていることは間違いないだろう。


 だが、鑑定屋を襲った犯人はシルヴィエではなかった。


 酷い腱鞘炎ならナイフを投擲することなどできないだろうし、そもそも彼女は、姑息にも不意打ちで誰かを害そうなどという気性の持ち主ではない――


 噂話ではなく、今日、始めて彼女の心に触れてそう確信した。



 となった場合。侯爵には色々と不都合な点が出てくる。


 そもそも侯爵は、シルヴィエのことを襲撃犯だと、なんなら「偽の王の指環」を回収しに来た「竜の顎アギト」の関係者ではないかと考えていた。

 そのため、ここで確たる証拠を掴み次第、即刻拘束。軍部に連行する腹積もりだった。


 だがシルヴィエが白だとすると大きく話が違ってくる。

 侯爵は彼女と二人きりになるために「(偽の)王の指環」を本贈ると嘘をついてしまった。


 非礼の詫びに彼女の望む物をなんでも捧げてやりたいところだが、この指輪だけは駄目だ。何の罪もない――少なくとも侯爵が知っている限りでは――女性に危険物を贈るなぞ、できるはずもない。



 となると、最早、侯爵がすべきことはただひとつ――



「姫君、大変申し訳ないのですが、先ほど贈った指輪。やはり返して頂けないでしょうか」


「は?」


 平身低頭、誠意を込めて謝ることであり、


「いやぁ、その指輪ちょっと…… アレでしてね? 指に嵌めると頭がおかしくなる上、どこからともなくナイフが飛んでくるものですから」


「突然何を言っているの? 全く意味がわからないし、なんなの。さっきからナイフナイフって。もしかして私のこと、抜き身のナイフみたいな苛烈で性格きつくて意地の悪い女だって言いたいんじゃないわよね!?」


 誠実に真実を話すことであり、


「あはは、言い得て妙ですなぁ! ……あ、違う。間違えた。オホン、他に欲しい物ならなんでもあげるから、その指輪だけは返してくれないかね?」


「いやよ! これはもう、私のものよ! 私はずっとこれを探し求めていて」


「あ、だからそれ、偽物なのだよ」


「はい!?」


 誠実に真実を話すことであり、


「どういうこと!? つまりあなた、わざと私に偽物を渡して、え、え、え、えっちなことをしようとしてたってこと!?」


「いや違う!! 私はただ貴女を事件の最重要調査対象として確保しようと思っただけだ! ……ん? あ、いや途中ちょっと、えっちな気分になったかもしれない。君があまりにもエロイ顔してくるから」


「事件!? どうしよう、このオッサンが何を言っているのか本当にわからないわ! もしかして、これ、最近流行りのジョークだったりするのかしら? 今からでも乗るべき? 捕り物劇に出て来る、冒頭ですぐ死ぬような幸薄い女を今からでも演じるべき!?」


「あはは、何をおっしゃる。既に幸薄いから演じる必要などないですぞ! あはははは!!」


 誠実に真実を話すことであり、


「あ、だめ。殴りたいわ。引きこもり過ぎて近頃の流行はわからないけど、このオッサンを殴りたいことだけはわかるわ」


「やめておきなさい。そんな腱鞘炎でオッサンを殴ったら明日から高級紙の無駄遣いができなくな」


「ドス」


「いたぁぁぁ!? なにこの娘、超力強いんだけど!! 私、女に叩かれるの割と好きだけどマジで痛いのはちょっと勘弁」「ドス」「痛ァァァァ!!??」


「やだ、ちょっと楽しい…… ああ、そうよ、これだわ、私が求めていたのは。久しく忘れていた生の実感……! 殴りつけた拳に伝わる老いた骨の悲鳴がッ!! 私の魂を熱くするッ!! あぁ、昂ってきたわァァ!! 今夜は朝まで愉しみましょうね♡ 王子様クソ野郎ァァ!!」


「ぎゃーーーーーーーー!!!!」



 サンドバックになることだけである。



 今宵、茨姫の閨からは朝までひっきりなしに、どったんばったんと激しい「行為」の音が響き渡ったという。そして。


「あ、私、これいける口だわ。意外と悪くないこういうドメスティックバイオレンス」


 そしてその都度、呻き声とも嬌声ともつかない声が館中に響き渡ったとか、響き渡ってなかったとか。

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