第16夜 茨の悪役令嬢
時刻は暮れの四刻半(およそ22:00頃)。
「ああ、侯爵様!」
「
「侯爵様が戻ってこられたわ。舞台の幕を上げる準備をお願い」
背後に控えていた従業員に指示を出すと、マダムはにこやかに侯爵を出迎えた。
「お帰りをお待ち申し上げておりましたわ。鑑定は無事に、済みました…… か……」
暗がりからこちらに歩いてくる侯爵の姿が徐々に明らかになると、マダムはその惨状を見て絶句した。
シルバーグレーの髪はグチャグチャに乱れ、黒で統一された品格溢れるフロックコートもヨレヨレ。ボタンが弾けとんだシャツの隙間から老いてなお衰えない引き締まった筋肉が見え隠れしている。
ロマンスグレーの麗しの老紳士は、この半刻の間にどこぞの魔王と一戦交えてきたのかといっても過言ではないほど、ズタボロになっていた。
「こ、侯爵様、そのお姿は……?」
どう見ても鑑定帰りには見えない侯爵の、変わり果てた姿を上から下に眺めながらマダムが呟くと、
「いや、鑑定屋で少々、盛り上がってね」
と、どうにも歯切れの悪い答えが返って来た。
「まさか、ヒスイが粗相を……!?」
マダムの表情が途端に険しくなるが、侯爵はすぐさま
「いや、彼女に非はない。むしろ随分と楽しませて貰ったよ。なかなか客を喜ばせるのが上手い娘だ」
脳裏にヒスイのプンスカした表情が浮かぶと、思わず頬が緩む。そのまんざらでもなさそうな表情を見てハッとすると、
「あら、まぁ。そういうことでしたの! あの
マダムは感激してそっと目尻を拭った。
「だけど侯爵様ったら、展覧会の前に他の娘とこんなに派手に遊んでくるなんて、元気が有り余っておいでですのね。支配人として嬉しい限りですが、せめてお召し物を脱いでからにして頂きたかったですわ」
展覧会は他の客にとってのショーも兼ねている。主役がこのようにズタボロでは、観客も白けてしまう。
マダムはなんとか乱れ切った侯爵の髪型と衣装を整えるべく、躍起になった。
すると侯爵はなんとも言えない難しい表情を浮かべる。
「マダム、一つ聞きたいのだが、私が来る前にここを誰かが通らなかっただろうか」
「え、いえ、誰も……」
「……そうか」
マダムは侯爵が鑑定を終えて帰って来るのを、ずっとここで待っていた。
だがその間、誰一人ここを通ってはいない。
そもそもここは店の裏口に通じる従業員用の通路であり、普通の客どころか、従業員ですら滅多に通らない。
一体なぜそんなことを聞くのだろうと訝しんでいると、
「マダム、すまないが夜遊びに興じている場合ではなくなった。急ぎ軍部に戻らねば」
「ええ!?」
突然のことにマダムは色を失った。
侯爵は展示会の主役。姫に求婚する
今日の展示会に店の売上がかかっている支配人としてはとても許容できるものではない。
「突然どうなさったのです? やはりヒスイとの間で何かトラブルが? それでご気分を害されて……」
「……悪いが、今、話せることは何もない」
侯爵はすげなくあしらうと、マダムの横をすり抜けてホールに出た。
相変わらず多くの客で賑わう店内は、
「お待ちくださいませ、侯爵様!」
後ろからマダムに呼び止められるも、侯爵は後ろを一瞥もせず、早足で客席の間をすり抜ける。
偽の王の指環を持ってここにいるだけで、店に危害を及ぼす可能性がある。早くここから立ち去らなければ。
「今日の穴埋めは後日、必ず。すまない」
そう一言だけ告げて、夜の都と現世との狭間。夜想亭の玄関ホールの敷居を跨ごうとした、その時。
「あら、王子様。そんなに急いで何処へ行かれますの?」
凛と。美しく、よく通る声がホールに響き渡った。
思わず振り返ると、ホールの最奥に設られた絢爛豪華な螺旋階段、その踊り場に。
一輪の薔薇が、咲いていた。
まず視界を支配するのは赤。血よりも深い真紅の
そして何よりも人々の目を惹きつけて離さないのは、その瞳。
赤。紅。緋。
その色を、輝きを、どう形容すればいいのだろうか。
この世に存在するどんな赤よりも紅く、どんな宝石よりも美しく、どんな花よりも芳しいその瞳を。
故に、ただ一つ。紡ぐことができる唯一の
夜の帷の向こうから王子を探しにやってきた天上の姫。夜想亭が誇る最高級娼婦にしてNo.2。
薔薇のような気品と風格をまとう絶世の美姫「茨姫」が、香り立つ笑みを浮かべてそこに佇んでいた。
「ふふ、王子様が姫に
つれない王子に向けられた拗ねたような顔は、例えようもなく愛くるしい。しかしその表情とは裏腹に、真紅の瞳には展示会を台無しにしようとした侯爵への非難の色がちらついている。
「……姫君、ご無沙汰しております」
侯爵は恭しく膝を折った。
それは姫に対する王子の礼ではない。主君に対する臣下の礼である。
それを見た茨姫は麗しい笑みを崩さず、しかし鼻の上に少しばかり皺を寄せて、首を傾げた。
「あらあら。私は戯曲の流行だけでなく、舞台の演目も取り違えたのかしら。私の記憶が定かならば役どころが違いましてよ、
突如幕が上がった
カツコツと、茨姫のヒールの音だけが響く中、この劇の成り行きを誰もが固唾を飲んで見守っている。
茨姫は花弁のドレスをひらめかせると、侯爵の前に立った。そうして薔薇の香を焚きこんだ扇を優雅にあおぐ。その仕草は極めて流麗だが、物言わぬ圧を放っている。
「すまない、姫君よ。貴女の舞台を台無しにしたことは謝る。だが私はこの展示会に参加するわけには……」
バシィ! と何かが思い切り叩きつけられる音が響いた。
茨姫が侯爵に扇を投げつけた音である。
いかな高級娼婦といえ、客に手を挙げるのは御法度。しかし侯爵は、薔薇の扇で頬をはたかれたにも関わらず、眉ひとつ動かさない。
「
「あの姫君、我らもここに控えておりますが……」
おずおずと脇に控えていた他の展示会参加者たちが声を上げた。展示会とは、本来、参加者が己の情熱をアピールするために、姫への貢ぎ物と愛の言葉を捧げる儀式。
姫は貢物と求愛の言葉から、男の誠意と愛を推しはかり、誰と一夜を過ごすか決めるのだが、その貢がれた宝飾品がずらりと並ぶ様を揶揄して「展示会」と、そう呼ばれている。
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