第2夜 ようこそ! 「夜想亭」へ
事件の発端より、時は遡る。
吐く息に白紗が混じり始めた、晩秋の暮れ刻。
一日を終えた人々が家路につき、閑散とし始めたラクリア旧公国の首都シエナで、一際賑わいを増す一角があった。
そこは歓楽街。
ぜルガイア大陸の中央部に位置するラクリア旧公国は、「交易公路」が交差する一大貿易国家。日夜多くの人や物が行き交う首都の歓楽街となれば、その規模は大陸随一。
街は夜が更けるほどに活気に満ち、美味い飯や酒。選りすぐりの美女や、儲け話を求める旅人たちで賑わっている。
そんな歓楽街の目抜き通りにて。
「どうしよう、もうこんな時間? 遅刻しちゃう!」
綺麗に舗装された赤レンガの道を、一人の女が疾走していた。
「ごめんなさい、みなさま! ちょっと通してくださーい!」
「え、何あれ!?」
道行く人々が目の前を横切っていったモノを見て唖然とする。
目抜き通りを全力疾走する女は、走るのに邪魔なのか、大体にもスカートをまくり上げており、太ももが丸出し。しかも裸足。
更にはなぜかずぶ濡れで、体のあちこちに藻がへばりついている。
どう見てもただ事ではないが、女は人目を気にせず、ペタペタと走り抜けていき、そうして目抜き通りの終点。歓楽街の一等地に店を構える巨大な酒場——「
「あわわわ…… もうお店、始まってるかも!?」
魔法使いの館のような洒落た外装の建物を仰ぐと、店内は既に煌々と明かりが灯り、中から料理の香ばしい匂いや、活気溢れる声が漏れ聞こえてくる。
どう見ても開店後である。
女は慌てて店内に入ろうとして足が盛大にもつれ、勢いよく店の扉にタックル。
そのまま前方一回転して店内に転がり込んだ。
「いらっしゃいませ! ようこそ『夜想亭』へ…… って、ぎゃあ!? ヒスイ!? あんた何やってんの!?」
「ごめんあそばせッ!!」
キナ臭い現場に突入する軍警のようなスタイリッシュ入店に、受付嬢の悲鳴が
「はぁはぁはぁ! ヒスイ、ただいま戻りました……っ!」
バーンと、扉が開く盛大な音が響く。
「ひいッ!」
忙しなく働いていた店の従業員たちは、突然の闖入者に体を強張らせるも、
「なんだ、ヒスイか……」
音の正体が女だとわかると、呆れ顔をしながら仕事に戻って行った。
どうやらよくある光景らしい。
「よかったぁ……! ギリギリセーフみたい……!」
「なワケなかろうが。思いっきり遅刻だよ。遅刻」
すると通りすがりの従業員の一人が、ヒスイの後頭部を思い切りはたく。
明るいハニーゴールドの髪を両サイドでシニヨンに束ねた、愛らしい顔立ちの少女だ。
金髪の少女は、はたいた頭から異様なぬめりを感じると、盛大に顔をしかめた。
「おわっ!? なんかベチョベチョ! アンタまた川で泳いできたの? おやつに川魚取りに行くのやめろって言ってんでしょ。飢えた野生のクマか」
「がーん! いつの間にそんな野生児みたいなイメージが…… これは川に落とした指輪を探して足を滑らせただけで、お腹だって、は、は、は…… はくちっ」
今は晩秋。この肌寒い季節に全身びしょ濡れで外を走って来たため、全身が冷え切っている。体を抱き締めながらガタガタ震えていると、ふわりと、後ろからタオルがかけられる。
「え、あ、ありがとう……」
振り返ると、そこには大変に豊満なバストを持つ美人が苦笑を浮かべて立っていた。
彼女もまたこの店の従業員。柔らかな亜麻色の髪に、暖かな桔梗色の瞳が優しげな顔立ちを際立たせている。
「もう。そんなにずぶ濡れで風邪でもひいたらどうするの。早く着替えて。シトリはこんなところで油売ってないで、ホールでオーダーでも取って来なさいな」
亜麻色の髪の従業員は2人より年上なのか、柔らかい声音でキビキビと指示を出す。
「わかってると思うけど、今夜は特別な日。書き入れ時よ。気合い入れて稼ぎにいかないと。シトリは今月ノルマギリギリなんでしょ?」
するとシトリと呼ばれた少女は、ぷくっと子リスのように片頬を膨らませる。
「言われなくても分かってっし。ノルマどころか、アメジアの成績も抜いちゃるくらい、いーっぱい稼いでやっかんな! 見てなよ、このおっぱい魔人!」
そう言うと、おっぱい魔人ことアメジアの胸を「こんにゃろめ!」とぱしっと叩き、喧噪飛び交う
口は悪いが、これはシトリなりの「あんたも頑張んなよ」という激励である。
仲の良い同僚の変わらない明るさに思わず頬が緩む。このやる気をヒスイも見習ってくれればいいのだが……
アメジアはヒスイの着替えを手伝ってやりながら、もう何度目だろうか。新人に向かって叱咤激励を飛ばした。
「ヒスイも、いいわね? あなたもここに来てもう2カ月。いつまでも新人気分でいてはダメよ。今日はシトリの後について彼女から接客技術を…… あら」
しかし、ヒスイから反応がない。
どうしたのかと顔を覗き込むと、その視線はシトリが開け放った扉の先。客席を飛び交う、なんとも美味そうな料理に釘付けになっている。
アメジアは溜息をついた。いつものことだが念のために釘をさす。
「言っておくけれど、つまみ食いはやめてね。見つかったらまた『マダム』から折檻を受けるわよ」
「う…… じゃあ」
「拾い食いもダメ」
アメジアはぴしゃりと言い放った。
ヒスイ。
鳶色の髪に翠緑の瞳を持つこの不思議な娘は、二月ほど前に「夜想亭」に入ったばかりの新人だ。教育係としてアメジアが面倒を見ているのだが、奇天烈なことばかりするので、少々手を焼いている。
どうにも価値観の根本が異なるというか、おかしな話だが、まるで別の「世界」から来たのではと思うことがある。
「さあ、あなたも行ってらっしゃい。背筋を伸ばして、愛想よく、常に笑顔でね。あなたはもう、この店の従業員なのだから。お客様に望まれたら、ちゃんとするのよ? そうしたらお腹いっぱい食べさせて貰えるから」
この店では、ただ給仕をするだけでは僅かな給与しか貰えない。しっかりした額を得るには、「客を取る」必要がある。
しかしこの2カ月、一度として上手くいったことがなく……
その結果、ヒスイは雀の涙ほどの給与でギリギリ、今を生きている。
「大丈夫だよ、アメジア。私は私の『店』があるから。今日はそっちの稼ぎをがんばるね」
ヒスイはアメジアの手を優しく握り直して、精いっぱいの笑みを浮かべると、シトリの後を追ってホールに飛び出していった。
ヒスイの言う「店」とは、この「夜想亭」内に特別に構えることを許されている鑑定屋のことだ。前例のないことだが、彼女をこの店に連れて来た総支配人が面白がって、それを許している。
だが、鑑定は信用商売。得体の知れない鑑定士を頼る客は少なく、実入りは芳しくないという。このままではそう遠くない未来、下級娼館に売り飛ばされてしまうかもしれない。
ヒスイは変わってはいるが、気立ての良い優しい娘だ。なんとかしてやりたいが、アメジアがしてやれることは少ない――
「なんて、人の心配をしている場合じゃないわね。私も営業に精を出さないと」
この店の従業員に課せられているノルマは軽くはない。
ことアメジアの現在のランクはNo.4。その地位を維持するにはかなりの上納金が必要となり、人並み以上の奮起が必要だ。
まあ、望むところではあるが。
こうしてアメジアもまた、戦場へと出立した。
後には、誰の残り香か。芳醇なビワの甘い匂いだけが残された――
「
大陸最大の貿易都市シエナの歓楽街に店を構える、一流の
そして公然と知られるもう一つの顔こそが、
―—高級娼館
夜の喧噪を引き連れて、今日もまた、長い一日が始まる。
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