第3話 印刷ミスだけど、落丁本って逆にレアだから憧れる

 その本が日本の物好きたちを騒がせたのは、今から半年前ぐらいだろうか。

 インターネット掲示板で怖い話や都市伝説を扱う、いわゆるオカルトスレで「この本の詳細知ってるやついないか?」というスレッドが立てられた。


『今日、神田の古本屋で見つけて興味本位で手に入れたんだけど、出版社とか著者も何も書いてないんだよ』

『同じもの見たことあったら、どんな些細な情報でもいいから共有頼む』


 投稿主の一コメントでは、薄茶色の箱の隣に、黒い明朝体で『備忘録』と題されたクリーム色の表紙の本が並べられた写真がアップロードされた。

 好奇心旺盛な掲示板ユーザーたちが続々と湧き出て、投稿主に質問を浴びせた結果、以下のことがわかった。

それは、作者も内容の全貌も出版社もわからない、謎の本であること。

 投稿主は音楽雑誌のバックナンバーを求めて、専門の古書店を訪れていた。重厚な外箱に入った『備忘録』は雑誌と雑誌の間に挟まれていたという。

 外箱の装丁も奇妙だったため、すぐに目についた。外箱の表紙や背表紙にもタイトルや著者名が書いていなかったのだ。

 肝心の中身も謎を呼んだ。一ページ目にだけ「、走り続けた。」と、文章の一部だけを抜き取ったかのようなことしか書かれていなかった。

 疑問に思った投稿主は当然店主に尋ねる。本全体を眺めた店主は「こんな本あったかな」と首を捻ったという。店主が不思議に思ったのは、値段がつけられていなかったこともある。その店の商品であれば、出版社名や出版年を記載する巻末のページ「奥付」に値段が書かれているはずだったのだが、なぜかその本にだけはなかった。

 店主さえも把握していない一冊。古書店に入って来た外部の人間がひっそりとその本を他の本に紛れ込ませたとしか思えない。店主の目を盗んでそれぐらいのことをするのは難しいことじゃないだろう。

 肝心の本の中身は白紙という、見つかったら出版社がお詫びと共に引き取って取り換えなければならない「落丁本」と同じだ。それにも関わらず、投稿主は「何が何でも手に入れたい」という衝動に駆られ、店主に頼み込んだ。「値段がついていないから」という理由で、あっけなくその本を無料で引き取ることができた。

 経緯を語り終えた投稿主は「この本は幸運を呼ぶのかもしれないと思ってる」と意味深な発信をした。


『この本買って一週間ぐらい経ってからかな』

『ずっと宝くじを買い続けてたんだけど、一等の六億を当てたんだよ』


 それだけなら「それが何だよ、ただの偶然だろ」で終わったかもしれないが、それだけでは終わらなかった。

 母方の伯父が亡くなったが、多額の財産を持っていたことが葬式後に発覚し、投稿主に全て引き継がれた。回復の見込みがないと思われていた従兄の難病が完治した。絵に描いたような幸運が立て続けに起こったという。

 この話とスレッドの存在は、情報溢れるインターネット上で瞬く間に広がった。

落丁本として出版社が謝罪とともに引き取るような、本の意味を成さない本が古書店に並んでいたのか。作った者にはどんな意図があったのか。

 スレッドには「著者から読む者へ向けた暗号だ」「似たような本が他にも存在していて、別の言葉が書かれてるんじゃないのか」と憶測や考察が飛び交い、「手に入れた者に幸運を授けてくれる本」として、新たな都市伝説となった。

 他にも同じような本が存在する、という考察は当たっていたとわかったのは、それから一か月後。二冊目の『備忘録』を発見したユーザーが現われた。

 二冊目が発見された古書店もやはり、神保町。今度は、本だけでなく楽譜も取り扱う古書店での発見だった。その店の店主も「この本を仕入れた覚えはない」という反応だったそうだ。

 このユーザーも開いた本の写真を上げた。やはり、文節で区切ったような「彼女は息を切らしながら」という言葉だけが残されていた。

 一冊目と異なる点は、その文字が書かれていたのが二ページ目ということだけ。一冊目を見つけた投稿主とグルになって釣ろうとしているんじゃないか、と疑う声も出てきたけど、すぐにかき消された。

 スレッドに集まったユーザーたちは、この言葉が書かれていた箇所が紙面の中央だったことに感心が寄せられた。一冊目の写真と比べると「彼女は息を切らしながら」は一冊目の「、走り続けた。」よりやや上に書かれていたのである。

 つまり、紙面上の位置でやや上に書かれている言葉を先頭にして並べると「息を切らしながら、走り続けた」という一つの文になる。そして、この文には他にも続きがあるのではないか。

 あくまでも都合の良い一説でしかなかったが、予感は的中した。その翌月には音楽雑誌や映画を扱う店で三冊目、さらに翌月には邦楽に関する本を扱う店で四冊目が見つかった。いずれも、音楽に関する古書を取り扱う店ばかり。ある種の奇跡の連続は、都市伝説が好きなだけのインターネットの住民たちに『備忘録』を探させるきっかけには十分すぎた。

 普段は古書店なんか足を運ばないようなネットの住民たちが、こぞって神保町の古書店に詰めかけた。この話はアングラなインターネットを越え、テレビのワイドショーでも取り上げられた。

番組では、『備忘録』が見つかった古書店の店員へのインタビューも放映され、本を探す一部の客たちが店内で飲食をしたり、複数人で入って騒いだりすることに困っているとの苦言が放送され、「『備忘録』を探す層は民度が悪すぎる」と炎上した。

それもあってかブーム自体は数か月で去ったと思う。オカルトスレも、日毎に生まれる「洒落にならない怖い話」なんかに話題が移っていった。


「今、こんな文章になってるんだけど見覚えない?」

 千歳が携帯を渡してくる。画面には文が書かれたメモアプリ。


『彼女は息を切らしながら、走り続けた。はぐれた親を探す迷子のように、深い森の端から端まで。それでもユーゴの』


「ようやく彼女以外の登場人物が出てきたのか」

 千歳が見せてくれたのは『備忘録』に書いてあった言葉をつなぎ合わせて作った文だ。

 世に出た順に繋げると、やはり意味のある文章になっている。

「やっぱこれ小説とかの引用?」

「多分」

「有名な作家とかの? 読書家的にはどうなの」

「知ってる作品じゃないの?」と言いたいらしい。

「さすがにそこまでは」

 登場人物名のつけ方に星新一にとか山本弘に近いものを感じるけど、わからない。この世に小説なんて星の数ほどあるし。

「まあ、今日あたしが七冊目を見つけるから問題ない。このユーゴってのがどうなるのかもそれでわかる」

「だといいけど」

いつの時代も、一過性のブームが過ぎ去っても懲りずにしがみつく人間はいる。

僕と千歳みたいな捻くれたやつらのことだ。


 千歳は「サウザンド・イヤーズ・オールド」というアカウント名で、『備忘録』探しを手伝う仲間を求めていた。

同じくこの本に興味があった僕は連絡を取り、オフ会も兼ねて一度顔を合わせることになった。

 指定された聖橋前の複合商業施設で待っていると、DMが来た。

『御茶ノ水駅横のカレー屋に立ってるのがあたしです』

数メートル先の言われた場所を見ると、それっぽい人と目が合った。ピンク・フロイドの「原子心母(アトム・ハート・マザー)」の牛のトレーナーを着ていた。ネットで探せばいくらでも買えるようだが、そのときは「そんなファンキーな服、どこで買えるんだろう?」と疑問に思った。

「サウザンド・イヤーズ・オールドもとい本蔵千歳です、よろしく」

 どういうわけか本名も教えてくれた。アカウント名は本名を直訳しただけということに気づくまで大した時間はかからなかった。

「はじめまして、宇田川栄太です」

ちなみに僕のアカウント名は「うじまっちゃ」という。中学時代のあだ名で、「宇治川」とよく間違われたからだ。

「まず最初に言っときますね。新しい異性の出会いとかを求めてるんだったら今からでも遅くない。回れ右して帰れ」

 新しくできたお茶の水駅の改札前、千歳からの思いがけない言葉の連射に衝撃で倒れそうになった。

千歳にとって僕の第一印象は「出会い厨」だったのが、何よりもショックだった。

「そんなの求めてないよ」

恋人はいないけど、別に欲しくもない。

「そうかよ、言質とったからな」

「何の言質だよ」

「あともう一つ条件。もし本当にあの本を見つけたら、現物はあたしに譲ってもらう」

「ああ、いいよ」

「本当にいいのかよ? 幸運欲しくないの?」

「あの本と持ち主が幸せになることに関係はないと思う」

 二冊目の『備忘録』を手に入れたユーザーも「長年頭を悩ませていた友人との悪縁が切れた」「自信が経営する飲食店が長らく不調だったが、本入手後に軌道に乗り、支店を出すことが決定した」と言う。だが本人の自己申告だし、その本を手に入れたことと因果関係があるとは言えない。

 僕の言葉に衝撃を受けたのか、千歳はしばらく言葉を失っていた。

「――るよ」

「え?」

「幸運は絶対にあるよ。見つかって騒がれるような本に何もついてない訳ないだろ」    

 無茶苦茶な理論に違いはないけど、真剣に反論する千歳の勢いに僕は圧倒された。

「あー、なんか頭悪いこと言った。もういい、行こう」

「どこに」

「腹ごしらえ」

 本格インドカレーとナンで空腹を満たした後に、ようやく繰り出した古書店街。

どこからもらってきたのか「神保町古書店マップ」を取り出した千歳の出した作戦は、「しらみつぶしに一軒ずつ探す」だった。「下手な鉄砲数打つちゃ当たる」とも言うけれど。

 しかし、千歳には勝算があるようだった。

「一軒ずつでも、日付が合ってるから問題ない」

「日付?」

「『備忘録』が見つかった日をこれまでにまとめてみたんだよ」

「そんなのどうやってわかるんだ?」

「スレが立てられた日。どの発見者もスレを立ててるのは、本を見つけてから一、二日しか経ってない頃なんだわ」

 言われた通り、全ての発端となった「この本の詳細知ってるやついないか?」を見ると、今年の五月二十日だった。今から七か月ぐらい前だ。

「二冊目のスレが立てられたのが六月二十一日、三冊目が七月二十日。それ以降も二十、二十一日あたりに見つけられてる。実際に本が置かれた日がいつなのかまではわかんないけど、月の上旬に来ることはない」

「日付の法則性に気づいた発見者が、スレを立てる日を調整してるのかもしれないんじゃない?」

「そこまでは知らん」

「何だよそれ……」

 肝心なところがぐだぐだじゃないか、という言葉を飲み込む。

カレー店がある坂を下った横断歩道の先には、早速一軒の古書店。それぞれ「三百円」

「五百円」と値段の割り振られた掘り出し物っぽい古本のワゴンが入口に置かれている店。

 その店に向かって右をすすめば、世界最大の「古書店街」の始まりだ。

 和綴じの本が店内に並ぶ一軒目、なし。

 店内に文豪の初版の復刻版、店外ワゴンにミリタリーからホラー映画の本までが並ぶ二軒目、なし。

 三、四、五、続いてなし。わかってはいたことだ。

 一階だけでなく、紙コップのドリンクでくつろげる自販機と休憩スペースが設置された二階のある六軒目。

「……ないな」

 二階を探していた千歳が降りてくる。

「そう簡単に見つかるわけないだろ」

「そりゃそうか」

「あのさ、外のCD見ていい?」

「土日限定! 中古CD百円!」と、CDが隙間なく詰められた棚が店の入り口にあって、入ったときからそっちに意識がいっていた。

「そういうのは後にしろ」

「……了解」

 わかってはいたけど。閉店時刻の夕方までに来る時間はあるかどうか。

 その日、神保町の隅々まで古書店を巡ったけど結局見つからなかった。

「聞いてもいい?」

「ああ?」

「あの本を見つけて、君はどうなりたいの?」

 それほどの距離を歩いたわけじゃないのに、夢の国を一日中歩き回ったぐらい疲れたその日の帰り際、勇気を出して千歳に聞いた。

「十年会ってない姉ちゃんともう一度会う」

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