第2話 無料でおかわりしたいけど、本格的なナンは一枚一枚が大きすぎる

「おせーぞ」

 本蔵千歳は、今日も不機嫌そうに待ち合わせ場所に立っていた。

 黄色とピンクのカラーリングが目をチカチカさせる、セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ!』のジャケットデザインのパーカーがよく目立っていた。

 東京都千代田区お茶の水、聖橋を渡り終わった先。僕たちが会うのは、いつもそこだ。日曜の昼だから、ニコライ堂から鐘の音が鳴り響いてくる。

 数年前から行われていたJRお茶の水駅の改修工事で新たな改札ができたためか、この辺りの印象も大分様変わりした。

「遅刻」

 耳からフルワイヤレスイヤホンを外しながら、千歳が不満そうに呟く。

「これでも急いで来たんだから、多めに見てよ」

「ダメ、ランチ奢りな」理不尽すぎないか。

「遅刻って言っても一分だよ!?」

「たかが一分、されど貴重な一分」泣きっ面に蜂とはこのことだ。

「行くぞ」

 くるりと背を向け歩き出す千歳。

「待てって、少しぐらい」

 息切れしているこっちがもたもたしていると、歩くのが速い千歳にはついていけない。本当に人に合わせるということをしないやつだ。

「今日のメイク、いつもより派手だね」

この辺じゃ有名な画材屋でようやく追いついた僕は、バイオレットのアイシャドウに染められた千歳のまぶたに目が引き寄せられた。

 言い方が良くなかったのか、不機嫌そうな千歳の眉間にますます皺が寄る。

「はっ、『一人前に色気づいちゃって』とか言うんだろ? あんたのためにメイクしてるわけじゃないからな」

「そこまでは言ってないだろ」

 女子はみんな「自分のためにメイクしてる」って言うのはよく聞く。

「紫いいじゃん、プリンスと同じ高貴で世間の型には囚われない色」

「紫イコールプリンス殿下って、いつの時代だよ」

 この連想が通じてしまう千歳も人のことは言えないと思う。

「今日は紫の日だから」

「そうなの?」

「馬鹿、あたしが勝手に決めてるだけ。十五年前の今日、紫色が好きだった姉ちゃんとばいばいしたのを忘れないため」

 ばっちりアイメイクの決まった目は細められ、遠くを見つめる。

「……ああ、そうなんだ」

「忘れようにも忘れるわけないけどな」

 気まずい沈黙。

 千歳が再び口を開いたのは、楽器店が集う坂に差し掛かる前のスクランブル交差点。

 楽器店街を抜ければ、古書店、カレー店、その他諸々が集う唯一無二の街「神保町」に突入だ。

「客観的に見れば馬鹿だよなー、肉親と再会するために存在するかわからんものにすがろうとしてんだから」

 笑いたきゃ笑えよ。

 投げやりに自嘲する千歳。

「何言ってんだよ。それぐらいお姉さんに会いたいってことだろ? 笑ったりなんてできないよ」

 千歳はもう何も言わず、青になるまでを赤い線でカウントするデジタル信号から視線を動かさなかった。

 最後の一本が消えて、信号を待つ人々が一斉に動き出す。

「今日で終わりにするからな」

「え、探すのを?」

 お姉さんのことは諦めるってことかよ。

「諦めるとは言ってないだろ。今日であたしが見つけるからだよ」にかっと自信満々の笑みを見せる千歳。

「ランチ、ここでいい?」

 カレー激戦区・神保町でしのぎを削る店の一つを指さす千歳。ナンの種類が豊富な店だ。前回も「チーズナンが食べたい」と言って、千歳と入った。

「……いいよ」

 店内には若い女性が多く、どういうわけか「ツムギ」という言葉が何度も聞こえてくる。

「ツムギって何のことだろ」と、向かいの席に座った千歳にこそっと聞くと「歌い手」と不愛想な返事が返って来た。

「流行ったじゃん、『ガラスの恋歌』とか」

「……ああ、あの」

 名前ぐらいは、というか名前しか聞いたことがないけど知ってる。

「あたしはああいうのあんまり聴かないけど」

 ツムギ。国内大手動画サイトを中心に活動していた男性歌い手だ。中性的な顔立ちで十代、二十代の女の子たちを魅了し、一躍ネット発のスターとなった。

 「水晶の声」と呼ばれる透明感のある歌声で、片思いをする青年の繊細な恋心を歌う『ガラスの恋歌』で、爆発的なヒットを飛ばした。

「そういや、ここによく来てたらしいな」

「ツムギが?」

「うん。ネット情報だけど」

 携帯を出して検索をかけてみると、千歳の言っていた通り、この店にツムギは何度も来ていてSNSにカレーなどの写真をあげていたという。

「食べに来て」と過去形なのは、ツムギがもうこの世にはいないからだ。人気絶頂の最中、ツムギは去年、二十五の若さで亡くなった。自殺だったという。

 何が彼をそこまで追い詰めたのかはわからない。

「ゲイって噂、本当だったんかな」

「さあ」

 千歳が言いたいのは、ツムギに関するゴシップだ。都内某所で同年代の男性と「ただの友人とは思えないぐらい」近い距離で歩いていたというだけの根拠で「同性愛者疑惑」を週刊誌報道されたことがあった。

「何でも良いと思うけどな。誰が誰と付き合おうと」

「同感」

 でも、それを悪いことだと思う人もいる。お互いがお互いを大事に思ってるなら、同性同士が付き合おうが勝手にすればいいと思うんだけど、二十一世紀になった今でも「許されざる異端」としてみなされることがある。

 報道を快く思わないファンがツムギに心無い言葉をかけることさえあったという。彼が亡くなった直後は、一部のファンによる誹謗中傷が彼を追い詰めていたのではないか、とこれまた新たなゴシップの種にされていた。

「ツムギの命日、今日みたいだな」

 彼の訃報を伝える去年のネットニュースには、昨年の今日の日付が書かれていた。

「へえ、だからか」

 彼をしのんで、ファンが店に集っているのだろう。

「で、今日なんで遅れたん?」

 チーズナンの必要以上に伸びるチーズを器用に切りながら、蒸し返してくる千歳。

「違う自分になりきろうとしてた」

「アナザーワールドに時間を忘れて没入か」

「そういうこと」

「もしあれが本当に見つかったとしても、主役の座っていう幸運は与えてもらえないだろうけどな、悪いな」

「いいよ、君のもので」

「無欲でこんな途方もないこと続けてるとか、暇な聖人じゃん」

 それは褒められてるんだろうか。

「強いて言えば、言葉が可哀そうだからかな」

 言っている意味が理解できなかったのか、ラッシーのグラスを宙に掲げたまま固まる千歳。

「あの本に書かれてる言葉、全部中途半端だったろ。どんな文ができるのか、続きが読みたいんだ」

「、走り続けた」「息を切らしながら」だけでは、筆者が何を書きたかったのかがわからない。

「大好き」みたいに、一言で気持ちを伝えられる言葉もある。でも、一つ二つだけじゃ、相手に本当の気持ちを伝えられない言葉もある。

『備忘録』一冊一冊にぽつんと残された言葉は中途半端で、作者の真意を何も教えてくれない。悲しむべきことだ。

「その本に欲を求めるとすれば、それだけだな」

「へー、言ってることが詩人」

「どうも」

 聖人じゃなくて、詩人の方が嬉しいかも。


 カレーとナンとラッシーで腹を満たして店を出た後、横断歩道を渡ればすぐに古書店街だ。

 古書店街入口のシンボル(と僕が勝手に決めている)である三省堂神保町本店は改装工事中。少し前まではあったはずのものがないというこの光景を見る度に「空虚」という言葉が頭に浮かぶ。

「で、今日も一軒一軒回るの?」

「もち。……ん、あいつ」

「あいつ?」

 後ろをばっと振り向いた千歳の癖のあるミディアムヘアーがふわりと揺れる。

アイラインの利いた鋭い視線の先は、古書店や飲食店が並ぶ商店街の入口前。

「どうした?」

「……こっち見られてた」

「え、どういうこと?」

「あれだよ、キャップの穴からポニーテール出してる女。一瞬見えたけど、サングラスしてマーベルのキャップしてた。あたしに気づいて逃げたけど」

「勘違いじゃないの?」

「じゃねーよ。くそっ、今度はこっちが追うか」

「待て待て、なんでそうなる」

 女性が逃げたらしい方まで走り出そうとする千歳の肩を掴んで止める。

「いいよ、ほっときなよ」

「お前、誰かから恨み買ってたりしない?」

「は?」

「あたしら狙ってたらどうすんだよ」

「いやいや、そんな訳ないだろ。本物のスナイパーだったらもっと上手に尾行するし、気づかれもしないよ」

 そもそも僕ら二人がそんなやつらに追われるはずないんだけど。

「じゃあもう、狙われてたら狙われてたで諦めて運命に身をゆだねるわ」

「何で暗殺確定なんだよ」

「あたしらが本を見つけたら、奪う気かもな」

 千歳がにやりと笑う。

「……本当に見つかるのかな」

「見つけるんだよ。今日あたりだからな、あれが来るとしたら」まめな千歳は、あれが見つかる日程を数えている。

「何冊目になるんだっけ?」

「六冊目。あたしらがこの間逃したやつ」

 悔しそうに呟く千歳。先月千歳と探し回った次の日に、念願の六冊目が他の探索者に見つかってしまったのだった。

「でもあれ、本当何なんだろうな」

「何でもいいよ、今度こそ七冊目を見つけるだけ」

「わかったよ」

 次見つかれば、ラッキーセブンかな。

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