第36話 あの川で
「誠也、やっぱりここにいたんだ……」
真夜が辿り着いたのは二人が初めて出会ったあの場所、保羽川だった。
誠也はその橋の柵の前にいた。誠也の自転車はまるで乗り捨てたかのように倒れていた。
誠也は橋から川を見下ろしていた。その瞳には悲しみと怒りの感情を燃やして。
天気予報の通りに午後は晴れとのことで今は晴れているが、昨晩は朝まで激しい雨が降っていたのだ。
橋の下の川は雨で増水して水位がいつもより高く、泥の色に濁った水面が広がっている。
いつもの水底が見える青い澄んだ川とは全く違う。
綺麗な川の微塵のかけらもない。
この中に入れば、あっという間に水流に飲み込まれて溺れ、濁りで姿が見えなくなりそうだ。沈んだら見つけることも困難になってしまう
「誠也、戻ろう?」
真夜はじりじりと距離を詰める。
ここで慌てて飛び掛かれば誠也は驚いて危険かもしれない。うかつに近寄れない。
「……」
誠也は無言を突き通した。その黙り込んだ雰囲気がいつもと違う恐怖を感じる。
「誠也が逃げたらややこしくなるだけだよ。あそこに戻って、事情を説明すれば、まだなんとかなるかもしれないよ」
こんなことは気休めでしかない。事情を話したところで、あの状況が解決するのかはわからない。
しかし真夜にはこのくらいしか思いつかない
オイルがまき散らかれ、近くにはライターが落ちていて完全に放火しようとしていた状況
あそこに戻って事情を説明したって、どんな処罰をくらうだなんてわからない。
ただのいたずら扱いですむのか、焼身自殺を図ろうとしたのか、それともやはり放火未遂で重大な罰を受けるのか。
それはわからないが、ただ逃げるだけよりはましな気がした。
「ねえ、きっとあそこの職員さんにきちんと説明するとか、こっちから謝るとかお父さんやお母さんに話せば、まだ解決するかもしれないよ。だから……」
誠也は柵へとにじり寄った、真夜は距離と詰めながら近づこうとする。
「ねえ、まだ今なら戻れるよ、きっとまだ大丈夫だって、だから」
真夜の言葉を最後まで聞かず、誠也は柵にまたがった。
「何してるの!? 危ないよ!」
柵の下は川だ。しかも昨晩大雨が降ったばかりで増水している。
こんなことをしたら落ちてしまうかもしれない。しかも増水した川は命の危険になる。
「誠也、危ないよ。こっちに来てよ」
真夜の必死の説得に、誠也はようやく口を開いた。
「作戦が失敗した、あいつらに復讐なんてできなかった。それでいてやろうとしたことがばれるだなんて、しょぼいだけだ。結局、俺は何もできないままだった」
全てを諦めたような表情だった。今は怒りよりも計画を実行できなかった悔しさによる悲しみの感情がこもっている。
「どうせ戻ったって、俺がやろうとしたことがばれて、騒がれる。俺のことを知ってるあの中学の教師にまで顔を見られたから逃げようもないし。下手をすれば放火って新聞に載るかもしれないし、逮捕だってありえる。俺はもうもとの生活に戻れなくなるかもしれない」
やろうとしていたことが失敗し、それでいてあの計画がばれて大騒ぎになる。
すでにあの女子バスケ部の顧問教師にも顔を見られたからどこの誰なのか誠也の身元はばれている。すぐに身元は特定されるのだ。なので隠れようもない。
もしも警察を呼ばれたのならば誠也のやったことは間違いなく言い逃れができない。
それではただ恥を晒しただけだと悔しがっているのもあるかもしれない。
「俺はもう生きていたってだめだ。あんなことをして、そして失敗した。もう何もかもが終わったよ。作戦も成功させることもできなかったし、本来ならあそこで自分に火をつけて死ぬつもりだった。そうしてでもあいつらに罪の重さを知ってもらいたかったから。だけど結局、全部失敗しちまった。真夜が邪魔したせいだ」
「そんな……」
誠也はあそこで作戦を実行しようとしていたが、それは真夜が誠也を止めようとしたことで騒ぎになり、それでただあの場から逃げるしかなくなった。
計画は真夜によって阻止されてしまったのである。今の誠也は自分の計画を邪魔した真夜にも怒りを感じているのだ。
「だって、おかしいよ! あんなことして自分まで死のうとするなんて! 私は誠也に死んでほしくないし、悪いことだってしてほしくなかった!」
真夜も必死で言い返した。自分のやったことを誠也に否定されたことよりも、それよりも誠也が死のうとしていることについても反論だ。
「あのまま作戦を実行させてくれればよかった。けれど何もかも終わりだ。それならさっそうに消えた方がいいんだ。こうすれば妹の元へ行ける。あいつも寂しがってるかもしれないし」
すでに亡くなった者の場所へ行く、それはすなわち死という意味だろう。
誠也は川へ身を投げ出そうとしているということが嫌でも分かった。
「妹を苦しめた世界、こんなところはもういられない。美香をいじめたやつらにも、それについて何もしなかった教師達も、美香が死んだ理由を訴えても認めてくれなかった大人達にも。狂った俺の家族も、そして妹を助けてやれなかった俺自身も。俺にはもう信用できる人間なんていない。世界の全てが憎い。どれだけ恨んでも俺はみんなを許すことができないんだ」
誠也はこの世界の全てのことについて怒りも憎しみも抱いた。
周囲の者達にも憎しみや恨みの感情があるが、何もできなかった自分自身も憎いと。
「あいつを助けてやれなかった俺の罪が一番重いのかもしれない。事情を知っていたのに、俺が何もしなかったからあいつは死ぬしかなかった。俺が間接的にあいつを殺したようなものかもしれない。だけどどうにもならない。だからせめて俺があいつのところへ行く」
その口調は本気だった。今すぐ飛び降りてもおかしくない。
「お願い死なないで。生きていればいいことだって、きっとあるよ」
こういう状況の時は何を言えばいいのか言葉がうまく思いつかない。
せいぜいドラマなどで自殺志願者にかける「生きていればいいこともある」という安直な台詞くらいしか思いつかない。
必死でとにかく誠也を止めなくてはと、説得をする。
「死んだって、何もならないよ。解決だってしないし、ただ損をするだけだよ。妹さんだって、あなたが死ぬことなんて望んでないないよきっと」
その言葉に、誠也は真夜を睨みつけた。
「何言ってるんだよ。君だってここで俺と初めて会った時、死にたがってたじゃないか」
真夜はどきり、とした。
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