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布が擦れる音が小さく鳴る。母が着付けをしてくれていた。帯はろっ骨が折れるのではと思うほどにぎゅうぎゅうに締め付けられ息苦しいと文句を言うも、そんなもんだと返され、更にきつく締めあげられる。帯を整えながら誰と行くのだと母が訊ねるので、篠森と二人で行くというと驚いたように目を見開いて瞬きをした。
「篠森くんと行くの!それはおめかししないとじゃない!」
母は普段よりも高い声で喋る。まるで、恋バナで盛り上がる女子学生のようだ。
私は周囲の女の子のように色気つくこともないため、年相応の女の子のように男の子とデートをすることが嬉しいようだ。別にデートではないと反論するも、母は異性と二人きりなんてデート以外なんでもないわと言って取り付く島もない。
篠森は小学生の頃は何度か私の家に遊びに来たことがあったため、勿論母は知っており、時折篠森は元気かと気にかけており、好印象のようだ。
篠森は私の母に限らず、誰からも好かれる。それもそうだろう。柔らかな直毛の髪に、優しい丸みを帯びた目、少し色素の薄い茶色の瞳、通った鼻筋と梅の花のような可憐な唇。その素顔は一般的に見れば整った顔であり、性格もよければ勉強も運動もできる。ある意味欠点のない人物であるが、お高く留まることもなく、時折ポンコツっぷりを発揮しては馴染みやすいキャラをつくっている。
それに対し私はそこそこ顔立ちは奇麗な部類であれども、周囲からは感情が読めないと囁かれ、人付き合いは悪くはないものの、遊ぶような友人関係は篠森しか築けていない。高校入学時は、初めこそ私と篠森が付き合っているという噂もあったが、気づけば仏のような心の広さで篠森が私の面倒を見ていると周囲から思われるようになっているのが、私の人間性を上手く表せているだろう。この話を人伝えで聞いたときはとても驚き、悲しく、また面白味を感じた。
着付けが終わり、普段はあまりしない化粧を簡単に済ます。気づくと約束の時間まであまり余裕もなくなっており、私は「行ってくる」と言って下駄箱から久方に下駄を取り出す。手で埃を掃ってやる。玄関を開けると、紺色の衣を纏った篠森が私を迎えに来ていた。
玄関で見送ってくれた母が篠森に気づき、「さだくん、ちゃんとエスコートするのよ」と冗談を言い、篠森を困らせる。
「おばさん、そういうのは任せて下さい」
篠森が冗談に冗談で返すと母は笑い、気を付けてねと見送る。
騒がしかった母が部屋へ戻ると二人の間を温い空気が通り抜ける。
篠森は私の着飾った姿を見て、似合っているよとそっぽを向きながら恥ずかしそうに言う。照れ臭い言葉と篠森の照れ隠しをする姿も相まって、頬が熱くなった。
カラン、カラン
テンポのずれた二足の下駄の音がまだ日没前の青色の空の中で軽快に鳴る。
まだ日暮れ前のせいか完全には賑わいつくしてはいないものの、篠森神社に近づくと人の数も増えていき屋台の前には沢山の親子や先に夏休みを迎えた子供たちが並んでいた。
長く続く傾斜に沿って両脇には様々な屋台が並び、美味しそうな香りが鼻腔をくすぐる。子供たちは少ないお小遣いを握りしめて、いかにして屋台を攻略していくかを友人たちと会議する。時折クラスメイトらしき人たちのデート現場に出くわすも、お互いアイコンタクトのみで知らぬ存ぜぬで通り過ぎていく。
久々に夏祭りへ来たが、多くの笑い声と笑顔がそこら中を埋め尽くし、たまにはこういうのも悪くないという気分にさせらる。日常の中の非日常に少しばかし胸が躍っていることに気づいた。
篠森は私が人とぶつかりそうになるとそっと私の体を寄せる。抱き寄せるその手は頼りないが、母に言われた言いつけを律儀に守っているようだ。
たまにはこんな風に女の子扱いされるのも悪くはないかもしれない。
―もう一度会いたい。
ドクンと心臓が跳ねた。微かであるが突如として、謎の声が頭の中に響く。その声はいつものような淡々とした感情のない声ではなく、心の中の葛藤が聞こえてくるようだった。誰かを乞う、胸が締め付けられるような声。
―もう一度会いたい。けれど会えない。たった一度、一度でいい。もう一度会いたい。
次はしっかりと聞こえた。
隣で話す篠森の言葉は一切耳に入らない。自分の心臓の音と悲し気な声、それだけが頭の中を大反響で木霊していく。
あなたは一体誰を探しているの・・・?
篠森神社へと続く参道の途中には途中で二股となっており参拝のためには舗装された石畳を歩いていく。もう片方の道は、獣道で舗装も何もされていない隘路が続く。この隘路はもう数百年使われておらず、道だと言われなければ気づけぬほどだ分かりにくく人が使用している様子はない。普段は気にも留めない道。分かれ道のそば、謎の声が聞こえると同時に篠森が口を開く。
「夜月は、真実を知りたいか?」
先ほどまで全く耳に入ってこなかった篠森の言葉がしっかりと聞こえた。
琥珀のようにキラキラと輝く瞳が私をまっすぐに見つめる。私はあまりの実直な眼差しに怯む。
「ど、どういうこと?」
篠森の言わんとしていることは分からないが、私の心の中で何度も警鐘が鳴らされ、血液が体中を駆け巡っていくのがわかる。本能的に、パンドラの箱を開こうとしていることがわかる。
篠森に返答した声は微かに震え、薄桃色にしっとりと湿らせた唇も乾燥しているかのようであった。
「知りたいか、知りたくないか」
篠森の声は、どこか祈るようだった。きっと私が知りたいと答えることを望んでいる。
声と篠森の言葉は対極的に、どちらも私を追い詰めるように選択を迫る。
―来てはならない。知りたくないと答えるんだ。
「夜月は知るべきだ」
知ることを願う篠森の心と知らないことを願う謎の声。
「わ、わたしは・・・」
重大な決断をしなければならないことは分かる。だが、それがどれほど重大なのかわからない。
私の頭の中は幾重にも紐が絡まったようであった。
なぜ篠森は変なことを尋ねるの?知りたいと言ったらどうなるの?なぜ急に声が再び聞こえたの?来てはならないって一体どういうことなの?
頭の中は混沌とし所謂ハイな状態であった。頭に血がわんさかめぐっているのを体感する。
知りたい、知るべきではない。知りたい、知るべきではない。知りたい、知るべきではない!
花弁を一枚ずつめくってその結果に身を委ねるように、私の頭の中は交互に二つの意思が反芻する。二つの選択肢に悩んだ時は、コインを投げるといいという。花占いも同じだ。私は知りたいで終わることを望んでいる。紛う方はない、これが私の意思だ。私は震える手でエンターキーを押すように、震える声で言う。
「知りたい」
絞りだすように言葉を紡いだ。私は禁忌の果実をこの手に取り、口にしてしまったのだ。もう後には引けない。
篠森は悲しそうな表情を一瞬見せたあと、人一人っ子通ることのない道とも言えぬ獣道へと無言で入っていく。
ー知らないほうが幸せなことはたくさんある!
声は叫ぶように言い捨てる。だが、私の耳にはもう聞こえはしない。
長らく歩かれていない道は草葉で覆い隠され歩くのもままならないと思っていたが、案外歩きやすくなっていた。だんだんと人里離れるように、お祭りの音が小さく遠くなっていく。
篠森丘は、東に篠森神社が建てられており、西側には山が広がっていた。今私たちが歩いているのは山側へと回る道であろう。道は一本しかなく、時折上り坂にはなるものの殆どが平な道であるので、丘をぐるっと回っている状態であると予想された。
家をでたときはまだ高かった太陽も今はだいぶ傾き始め、夜が間もなく来ることを告げるように色が変化し始めていた。
木々に覆われている丘であるが、蚊などの虫は全く飛んでおらず、蝉の鳴き声すら聞こえぬことに私は気づいた。
風にサラサラと揺れる木の葉の音と私たちの下駄が雑草を踏む音だけが響く。篠森は何を考えているのか分らぬが、隘路に入ってからというものの一言も喋らず、その顔色はどこか青ざめており、前方一点をまっすぐに逸らすことなく見続けながら歩いていた。
「夜月、手を・・・握ってもいい?」
篠森が後ろを振り返ることなく小さくか細い声で言う。まるで幼子のようで、私よりも大きくしっかりとした背中が小さく見えた。
私はなんと答えればよいのかわからず、そっとその手を握りしめた。篠森の手は氷のように冷たく、僅かに震えていた。
私は篠森が何に恐れているのか分らなかった。謎の声も延々と来てはならないと言い続ける。その言葉が、私が歩む道が正しいことを伝えていた。
二十分程歩いただろうか、急に道が開けた。更にそこから少し歩くとそこには学校の体育館ほどの開けた敷地があった。
見た瞬間に気づいた。私は確かにこの場所を知っている。
「ここは・・・」
ここは、幼い頃私が仲の良かった少年二人と遊んだ場所である。こんなところにあったのか。まるで覚えていなかった。案内されなければ、こんな獣道を歩かなければ来れぬ場所を到底見つけることは不可能だっただろう。
なぜ篠森はこの場所を知っているの?
疑問が沸き上がる。
困惑するも、懐かしさと嬉しさが勝った。幼い私たちが走り回るのが見えるようであった。当時は世界を支配したかのように広く感じた場所も、大きくなった目から見れば大した広さではなかった。
私は広場をゆっくりと歩く。隅っこには朽ち果てた小さな小屋があった。その小屋は、一緒に遊んだ小汚い少年がいつもいた場所だ。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
篠森は聞き取るのが難しいくらいの小さな声でひたすら謝罪の言葉を述べ続けていることに気づく。その言葉が何に対してなのか分らず、尋ねようにもなんと聞けばよいかわからなかった。言葉を紡ぐ代わりに、私はそっと篠森を抱きしめるような形で小さくなった背を撫でてやる。
篠森は、私にはわからぬ巨大な恐怖を抱えているのだ。
ゴーン、ゴーン
どこからか鐘の音がする。
―夜月、早く帰るんだ。もう時間がない、早く。
鐘の音を声も聴いているのか焦ったように声を荒げる。
今までに聞いたことのない鐘の音。近くにお寺などないのに、一体どこからか鳴っているのか。
私は音の場所を探すかのように空を見上げ首を動かす。
ゴーン、ゴーン
鐘の音に合わせ篠森は肩を震わせる。
篠森も、困惑したように顔を上げる。泣くのをこらえていたのか、目は真っ赤に充血していた。
空が茜色の空から日は沈み、黄金色に水平線が輝く。黄昏時だ。逢魔が時、魑魅魍魎の時間だ。
―早く!今、すぐに!
声は怒鳴るように言うも私は動くことはなかった。
日が沈んでも遊び惚ける悪い子は神隠しにあってしまうんだよ。その言葉が頭を過った。私はきっと、今から神隠しに遭うんだ。私はそう思い覚悟を決める。
その後完全に日が沈むまで私たちは待った。その間、終始声は聞こえ続けるも何も起きなかった。
結局何も起きぬのかと諦め帰ろうと後ろを向くと私の目は目前の景色に釘付けとなる。そこには見たことのない巨大な鳥居が立っていた。来た時にはなかった、真っ赤な鳥居だ。周囲は夜に染まっていく中、鳥居の中だけは昼間のように明るい。
落ち着いた篠森もその鳥居を見て口を開ける。
「なぜ、こんなものがここに・・・。夜月、ここから離れよう」
篠森は謎の鳥居に恐れをなしたのか、気味悪がって帰路を促す。
私はゆっくりと首を横に振る。
「いや、行こう」
私がいうと篠森は叫ぶ。
「なんで!!絶対に危険だ!」
「謎の声がずっと言うの、こっちへ来てはならぬって。なら、この先に何かあるかもしれない」
私の意志は決まっていた。篠森の手がぎゅっと強く握られる。篠森も心を決めたようだ。私は小さく縦に頭を動かし、ゆっくりとその足を踏み出す。
鳥居の先にはただの来た獣道が広がっていた。しかし、跨いだらこの先は異なると確信していた。
なぜか恐怖は感じなかった。ただ、後先考えず本能のまま私は歩いていた。
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