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「よし、とびっきりの夕焼けを見に行こう」
元々アラームを設定していたスマートフォンのアラームが震え、 篠森は勢いよく立ち上がる。私も散らかしていた教材の後片付けをし、少しだけ残っていたコップの中身をグイグイと音を立てて飲み干す。口の端から少しだけ漏れたお茶を手の甲で拭いとる。スカートをパンパンと叩いて、座ってできた皺を伸ばしてやると、正座をしていたせいか足がじーんと痺れだす。
小鹿の様にプルプルと震えていると、それに気づいた篠森が私を指して笑う。あまりにも揶揄うので軽く肩を叩くと、「痛い」といいながら笑うのをやめた。
おばさんにお礼を言い篠森の家を出て徒歩で神社を目指す。緩い坂道ではあるものの十分も歩けば体には大夫堪える。日頃運動をしない私にとっては、歩くだけでも十分な運動で、到着するころには夕方であっても夏ということもあり暑く、汗が額から滲んでいた。
少し色あせてきた赤い鳥居をくぐると空は真っ赤に染められていた。社の裏側へと回るとそこからは神無市が見渡され日の沈む様がよくよく見ることができる。
これほど開けた景色が見れるのは、篠森神社だけであろう。篠森神社は歴史が古いこともあり、一部の歴史マニアの中では人気があるようであるが、彼らも市民にも社の裏側の絶景はあまり知られていない。多くの人が社の裏へと行くことはないであろうが、そこが一番景色が良いのである。以前、私も篠森に教えてもらいはじめて知ったのだ。
急ぐかのように日が沈んでいく。太陽が空高くある時はゆっくりと動くように感じるが、日が沈む間際は慌ただしくじわじわとゆっくりとその体を隠していくのだ。
篠森も同じことを思ったのかぽつりと言う。
「地球は時速千五百キロで自転しているんだって。俺たちには常に千五百キロの速度が与えられているんだ、そんな風には感じないけれど。昼間は地球が回っているなんてこと忘れてしまうくらいゆっくりだけれど、こうやって改めて観察してみると視覚的に速度を感じれるよね」
私たちは周りながらもその軌道を走り続けているのだ。ゆっくりと進んでいくようでありながら、急ぎ早に私たちは何度も遠回りもしながら、少しずつ進んでいくのだ。
夕焼け小焼けの音が耳にはっきりと聞こえてきた。リズムに合わせて歌詞を紡いでいく。寺の鐘ではない、市内のスピーカーからの防災の音。こちらは防災神無、児童の皆さんはお家へ帰りましょう。木霊しながら放送が市内へと拡散されていく。
黄金色の空も藍色の空へと染まり、チラチラと小さな光が見え始める。
私の心の中にぼんやりと炎が宿った。それは心を温めるような優しい光だ。私は、この景色に心を奪われたのだ。
私たちは太陽が完全に沈むまでただ茫然と無言でその様子を見つめていた。日が落ちるとどちらが言うでもなく、自然と私と篠森は帰り道を歩いていた。
日も落ち気温はやや下がるも、やはりじめっとしていてシャツが肌に纏わりつく。
「夜月、今度神無祭に一緒に行かない?」
神無祭とは篠森神社で行われる年に一度の夏祭りで昼から屋台が並び、一日中市民でにぎわう。夜には神無市で近くの花火師にお願いをし、何発かの花火も打ちあがる。老若男女こぞって遊びに行くお祭りだ。神無祭は、篠森肇が篠森神社を建てる前からあった古いお祭りが原形だそうだ。
「篠森は踊り子をやらなくていいの?」
神無祭では毎年篠森は踊り子として参加していた。この踊りは「しのもり」という演目で、篠森神社の始まりを踊りにしたものである。
踊り子には毎年地元の小学生も何人か選ばれる。演目は、平穏な神無の地がいつしか戦乱の世となり、それに乗じて魑魅魍魎が荒れ狂うところから始まる。多くの子供たちは魑魅魍魎に連れ去られる役として参加する。その後、篠森肇が神様のもとへと行き、社を建て、神様に沢山の食べ物やお金といった送りものをすることを条件に荒ぶる者たちを押さえることを約束させる。篠森肇を筆頭とした篠森家の献身的な奉仕によって、神無に平穏がおとずれるというような内容だ。ほとんど一般的に知られている史実通りといえるだろう。私は踊り子に選ばれることはなかったが、選ばれたことのある人たちの話によると、舞台の上では無性に恐怖を感じるそうだ。とりわけ魑魅魍魎に連れ去られる神隠しの場面では、本当に知らぬ何かに連れていかれるような、そんな恐怖を感じるという。中には数日間ほど恐怖で眠れなくなる子もいるという。
「俺は今年は踊らないよ。だから、一緒にまわらないか?」
人混みがあまり好きでないので断ろうと考えていたが、篠森が夏祭りに誘うのも珍しい。断る理由も対してないので、行くと言うと篠森は嬉しそうに当日の話をしだした。
夢を見た。
―こちらへ来てはいけない。全てを忘れなければならない。
また、あの夢だ。不思議な夢。
周囲はどこまでも深く光さえ通れぬ闇に一人私は佇む。前後左右、上下すらも分らぬ深い深い闇の中。
不思議と恐怖は感じない。ただ、どうしようもない切なさと寂しさを、知らぬ声に対して思い抱く。
なぜそんなことを言うの?声を出そうとするも、声の出し方が分からず水の中でもがき苦しむように喉が震えない。
―夢はすべて灰燼と帰す。これは全て幻だ。幻なんだよ、夜月。
抑揚のない声が、優しく私の名を呼んだ。
体中に鳥肌が経つ。彼とも彼女ともつかぬその声が私の名を呼んだその瞬間に。全身の神経という神経が敏感となり、全ての情報を体全体で得ようとする。鳥肌とともに、意識はどこか興奮状態である。
私は大事なことを忘れている。
確信が生まれた。
私は大事なことを、絶対に忘れてはならないことを忘れていると頭が警鐘を鳴らした。本能がこれはただの夢でも幻でもないと語りかける。
あなたは誰?と問おうにも口がうまく回らず、ひたすら口をパクパクさせる。どこにいるかも分からぬ声の主に声が出ぬとわかっていても必死に語り掛ける。
声の主は私の言いたいことは全て分かっているとでも言いたげに言葉を続ける。
―私はあなたを知っている。あなたは私を知らない。知ってはならない。
冷たく抑揚のない声で言われたその言葉は、どこか冷静さを取り繕っているようでやはり寂しさを感じた。
知ってはならないのならなぜ語り掛けるの?私の必死の叫びはうめき声となる。
―あなたがこちらへ来ようとしているから。これは忠告だ。思い出してはならない、忘れなければならない。これらは全て夢だ。夢は灰燼に帰すのだ。
―去れ!
強く解き放たれた言葉に私は飛び起きる。呼吸は乱れ、沢山の汗が体のいたるところから滴る。汗だけではないしょっぱい水も目から滴り落ちる。
気味の悪いはずの夢が決してそうには思えなかった。忘れなければならないものとは何なのか、私は知らなければならないように思えた。知ってはならぬパンドラの箱を私は開けなければならない。
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