葡萄の味


 ある森の中に、きつねの子が住んでいました。


 親はきつねの子がもっと小さい時に、猟師に撃たれて亡くなってしまいました。他の動物たちは、ずる賢いきつねの子だということで、誰も進んで面倒を見ようとしませんでした。


 何も知らず、物事を教わる親代わりすらいないきつねの子は、時々自分の身を危険にさらしながら、どうにか森で生きる術を身につけていきました。


 ある日、きつねの子が森を歩いていると、ふくろうのおじいさんが急にバサバサと降り立って、一生にあるかないかの大声を出しました。


 「いたぞー!うさぎの子を攫った卑怯なきつねはここにいるぞー!」

 「追い出せ!卑怯なきつねめ!」

 「うちの子を返せ!」

 「出ていけ!追い出せ!」


 「誰か…たすけて!どうして僕ばかりひどい目に遭うの?」


 みんなが急き立ててきつねの子を追いかけますが、何もわからないきつねの子は震え上がって走り続けました。

 それもそのはず。一週間探しても我が子が見つからないうさぎのお父さんが、心配のあまり気が狂ってしまい、憂さ晴らしにきつねの子を標的にしたのです。そして同じようにきつねのことを嫌う動物たちが便乗し、邪魔者のきつねを森から追い出してやろうと企んだのでした。


 「出ていけ!出ていけ!」


 


 止むことのない罵声の雨を振り払って、きつねの子は肺がちぎれそうになるまで走りました。


 森を抜け、草原を駆け、もう一つ森を抜けて、漸くきつねの子は足を動かすのを止めました。


 そこはくらくらするほど葡萄の甘い香りがしていて、一面たわわに実った葡萄の美しい紫色に染まっています。大きな甘い紫水晶アメジストを携えたたくさんの枝が、房の重さに引っ張られてずっしりと垂れ下がっていました。


 「美味しそうな葡萄だなぁ…」


 きつねの子の琥珀色の瞳を、深いすみれ色に染め上げてしまう程によく熟れた葡萄がなっているのに、誰かが取ったような跡も、虫がかじったような房も一つもありません。ちゃんと勢いの良い芽だけが選んで残されていて、十分に行き届いた管理がなされているのです。


 きっと人間の葡萄畑に迷い込んだんだ。

 きつねの子はそう思いました。


 どれも重みで垂れ下がってはいるものの、きつねの子が跳び上がっても取れそうにない絶妙な位置にぶら下がった誘惑を、きつねの子は暫く眺めていました。


 「食べてみたいな…でも、飢えるより、人間に捕まって母さんみたいになるのは、嫌だな…」


 しかしきつねの子が辺りを見回しても、人の気配は全くありません。憧れにかまけたきつねの子は、試しに一番自分に近い所に生っていた葡萄を取ってみようと思いました。



 ぴょん


 一度跳び上がってみると、葡萄の房先に鼻の先がちょん、と軽く触れました。


 もういちど、はずみをつけて。


 …ぴょん!


 今度は、房を揺らすことができました。それでも落ちてくるにはまだ遠いようです。


 「どうにかして、房を取れないかな…」


 きょろきょろときつねの子があちらこちらに目をやると、上手く使えそうな葡萄の木の幹が聳えていました。近づいて、まだ少しふわふわした肉球でそっと撫でると、脈々とした清らかな水が中を流れているのが分かります。ひんやりした触り心地は、まだ雪に触れたことがないきつねの子にとってとても新鮮で、不思議なものでした。


 助走をつけ、幹を蹴る力を弾みに、きつねの子は房の根元に飛びつきました。


 「ふぬぬ…んっ、く」


 きつねの子は小さい口で食んだ房の根元を、必死に齧ります。ぎりぎりと歯を食いしばって、漸く最後の筋を噛み切ることができました。


 「やった…あれ?」


 喜びも束の間、バランスを取り損ねたきつねの子はそのまま地面へ落っこちてしまいました。


 「いたた……でも、生きてる。それに…葡萄も取れた!」


 ごろりと寝転がったまま、自分の側に横たわる葡萄に少しだけ頬ずりして、咥えようとしたところで、きつねの子は咄嗟に飛び起きました。


 「きつねのおにいちゃん!」


 自分よりも幼い可愛らしい声。正直に言うと、今のきつねの子が人間の次に会いたくない相手のうちの一でした。


 「うさぎちゃん、どうしてここに…」


 親元からはぐれ行方が知れないまま、きつねの子が追い出される契機きっかけになったうさぎの子。体に目立った傷はなく、一週間前と何ら変わらない様子で、その子は愛くるしくきつねの子を見つめていました。


 「あのね、ちょうちょを追いかけていたら、こんなところまできちゃった。わたしね、ここにくるまで、たくさんできるようになったの…!いっぱい冒険したんだよ!」


 親が寿命を縮ませて心配しているとも知らずに、物怖じする様子すら見せず、うさぎの子はただ楽しそうに、うっとりと話していました。

 しかし健気な姿と無事である事にほっとする反面、きつねの子は心からうさぎの子の話を楽しむことはできませんでした。

 自分が追い出されたきっかけでいい思いばかりではないものの、今のきつねの子は、うさぎの子にただただ早く無事に家へ戻ってほしいと切に願っていました。


 「うさぎちゃん…お家へ帰ろう。お父さんも、お母さんも、うさぎちゃんが帰ってこないこと、すごく心配していたんだよ」

 「じゃあ、帰り道はおにいちゃんといっしょね!」


 あまりに当たり前のように放たれた無邪気さに、きつねの子は言葉に詰まってしまいました。


 「僕は……僕は、まだ出かけている途中なんだ。だから…うさぎちゃんと一緒には帰れない。でもね、この葡萄をあげる。いいかい?ちゃんとお家に帰って、お父さんたちにこの葡萄はどうしたのって聞かれたら、小さな人間の男の子にもらったって、言うんだよ」

 「どうして?このぶどうは、きつねのおにいちゃんがくれたぶどうだよ!おとこのこなんて、わたし、知らないもん!いっしょに…いっしょに帰るんだもん!」


 どこまでもまだ幼いうさぎの子に、きつねの子はきゅう、と心が締め付けられるような、初めて感じる名づけがたいものを感じました。それでもどうにか表情を守って、きつねの子はいつか森の奥に住むたぬきのおじいさんに教わった化ける術を唱えました。


 ぼむ!と音がして、きつねの子は人間の男の子の姿に変わりました。尻尾と耳は残ったままですが、どう見ても幼い人間の男の子です。

 吃驚して固まってしまったうさぎの子の頭をそっと撫でると、きつねの子は葡萄をそっとうさぎの子の腕の中に包ませました。


 「これで、『ほんとう』になったよ。僕も……うさぎちゃんと一緒に帰れないのはさみしいけれど、うさぎちゃんなら、きっと大丈夫。まっすぐ、寄り道せずに帰ってね。僕のこの姿も、この葡萄畑も、僕とうさぎちゃんの二人だけの秘密。…約束してくれる?」


 こくこくと頷くうさぎの子。それを見てふっと微笑んだきつねの子はもう一度うさぎの子の頭を撫でると、その小さい綿菓子みたいな丸い尻尾の影が見えなくなるまで、うさぎの子を見送りました。





 再びぼむ!と音がして、元の姿に戻ると、きつねの子は俯いたままうさぎの子が行った方とは反対の方へ歩き始めました。

 きつねの子に再び葡萄を取ってみようという気は起こらず、むしろ食べなくて良かったという安堵さえ湧いてきました。


 歩きながらきつねの子は、自分が結局葡萄の実にありつけなかった悔しさや失意を口にしかけて立ち止まり、思い留めるようにぎりりと歯を食いしばりました。ほうっと息を吐き出して、きつねの子は突然狂ったように言葉が溢れてきました。


 「そもそも僕みたいな嫌われ者に、あんな清らかな実を口にする資格などあるはずがなかったんだ。……そうさ、きっとあの葡萄は酸っぱいんだ。あんな葡萄は、僕を追い出した奴らが食べて、期待外れの味に腰を抜かせば良いんだ。そうだ…そうさ、それがいい…はは、ははは…」


 目からは水がこぼれるのに、口からは止め処なく可笑しな笑いが込み上げてきて、きつねの子は自分でも困ってしまいました。






 雫も笑いも止められないまま、再び歩みを進めたきつねの子は霧深い森へ姿を消し、それきりそのきつねの子を見た人はいないそうです。

 きつねの子が見つけた葡萄の園も、もう誰も見つけることは叶いませんでした。







※「狐と葡萄」イソップ寓話より

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