「おかしな」家族
昔々ある所に、きこりの夫婦と双子の兄妹が住んでいた。
兄はヘンゼル、妹はグレーテルといい、とても仲の良い兄妹でいつも二人は一緒だった。
ある年、夫婦が作る木材や薪が売れず、その日のパンにも困るくらい貧しくなった。困った夫婦は、二人の子ども達がぐっすりと眠った夜中に今後のことを話し合うことにした。
女将さんは旦那さんと向かい合ってテーブルに着くと、開口一番に深々と大きな溜息を吐く。
「どうしたものかねぇ…これじゃ1人分の食料も買えやしない。あの子達を売って…」
女将さんの突拍子もない発言に、旦那さんは顔色を変えて立ち上がった。
「12歳の子どもだぞ!?あの子達は十分俺達のためにやってくれているじゃないか!実の子になんて…」
「それはお前さんのだろう?」
「っ……」
一言目よりも冷たく低く響いた声に、旦那さんは目を見開いて息を飲んだまま、ゆっくりと席につき直す。
双子の本当のお母さんは二人が幼い時に亡くなっていて、今の女将さんは建前の嫁ぎ先として今の旦那さんを選び、単なる経済的な後ろ盾だとしか思っていなかった。それでも貧しさを極める前までは、母親としての態度で二人に接してくれていた。
「…とにかく、だ。ヘンゼルとグレーテルに我慢を強いるのはしたくない。痩せ我慢は俺が全部請け負う。頼む…ちゃんと考え直そう」
出逢った頃より僅かに痩けた頬を更に強張らせて見つめてくる旦那さんに、女将さんは再び大きな溜息を吐いて頭を抱えた。
この時、寝室の扉が微かに開いていることに夫婦は気づいていなかった。
「ねえ、グレーテル。…起きて、グレーテル」
「ん…どうしたの、ヘンゼル…?」
星すら瞬きのお喋りをやめて眠りについた頃、グレーテルは兄の声で目を覚ました。何時になく真剣な兄の表情に、グレーテルは寝ぼけた頭をぶるりと振りおこすと、きゅっと兄との距離を詰めた。
「グレーテル、落ち着いて聞いて。…今、父さんたちの商売が上手くいかなくてうちの家が苦しいのは知っているだろ?母さんは…僕達を追い出して食い扶持を減らしたいみたいなんだ。父さんがまだ粘ってくれているけど…あの様子だと母さんは必ず近いうちに実行に移す」
「……っ、そうなんだ」
グレーテルは恐怖にも似た不安に瞳を揺らすが、瞬きを一つしてしっかりと兄を見据えた。そんな妹の手を取って、ヘンゼルはそっと微笑む。
「…二人で逃げよう。父さんには申し訳ないけど…僕達を捨てるのを任されるのは多分、父さんだ。自分のせいだって苦しんでほしくないから…逃げよう、二人で」
「うん…逃げよう。ヘンゼルと一緒なら、怖くない」
二人は固く手を握り合って、その夜密かに家出の計画を立てた。
「「…いってきます、父さん、母さん」」
「森の中は最近狼や熊が出るそうだから、気をつけていきなさい」
「「はい」」
「……」
二日後。兄妹は家出を実行した。旦那さんは慈愛そのものの微笑で二人を見送ったが、女将さんは見向きもせずに最近始めたの針子の仕事に勤しんでいた。
両親には森で食べ物になりそうな樹の実やきのこを探しに行くと伝え、一応夕方には戻るとも言った。でも本当は、隣町に移り住んで自分たちの生活を立てていくつもりなのだ。
「本当に……出てきちゃった」
ふとグレーテルはぽつりとこぼした。母親はさておき、身を削って自分達を養ってくれた父親との別れが、こんなにあっけなく残酷な形になるとは妹にとって思っても見なかったのだろう。
実際ヘンゼルも、もっと違う形で現状を挽回できないのか、あの夜家出を決意してからもずっと思案を巡らせていたのだった。
それでも、出てきてしまったからには仕方ない。ヘンゼルは拳をぎゅっと握りしめ、ふっと開くと、あの夜と同じように妹の手をしっかりと握った。
「…僕らは一人じゃない。…生きて、時機がくれば、また家族で暮らせる」
「そうだね……生きなくちゃ。とりあえず食べ物を探しにいこう」
二人は深く頷きあうと、きつく手を繋いで森の奥へ入っていった。
日はとっぷりと暮れ果てた頃、旦那さんが仕事から帰ってきた。いつもなら欠かさず迎えてくれる2つの声が、今日は「ただいま」のあとにすら続かない。
不安になって家を見回し、薪割りの作業場を見ても、寝室にもどこにも、愛しい子ども達の姿はない。仕方なく旦那さんは、テーブルで針子の仕事をしている女将さんに尋ねてみた。
「女将さん。ヘンゼルとグレーテルはまだ帰ってきていないのかい?」
「知らないね。どうせ狼や熊に食い殺されたんだろうよ」
即答、かつ関心のなさが隠されもせずありありと分かる口調に、旦那さんは珍しく女将さんに対して眉間に皺を寄せる。
「探そうともしないで…!」
「それで少しでもましな食事ができるんだ…ちょっとくらいお前さんも喜んだらどうなんだい?実の子だろうが
女将さんは歯をぎりりと食いしばると、裁ちばさみをテーブルに打ちつけた。
「それでも……それでも、あの子達は俺達の子どもなんだぞ…?」
女将さんは旦那さんの振り絞られたか細い声を鼻であしらい、再び黙々と針子の作業に取り掛かった。
旦那さんは下唇を白くなるほど噛み締めて女将さんを辛そうに睨むと、自分の寝室に入ったきり、その夜は出て来なかった。
翌朝。双子は柔らかな木もれ陽に目を覚ました。普段なら一日歩けば抜けられるはずの森の出口すら解らず、彷徨い疲れた二人は仕方なく野宿をすることにしたのだった。
起き上がって辺りを見回したグレーテルは、微かに震えた声で兄の名を呼んだ。
「ねえ、ヘンゼル…この森、おかしいよ。動物たちもいないし…何か変」
「無闇に歩き廻るのは得策じゃないな。どうしよう、此処から出ないといけないのに…」
考えあぐねた二人は、身を寄せ合い、ゆっくりと歩みを進めることにした。小鳥の囀りすら聞こえず、2つの足音が柔らかい芝を踏みしめる音だけが、ひたひたと森に吸い込まれていく。
暫く進むと、どこかから甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。
「ヘンゼル、美味しそうな匂いがするよ!お砂糖と…クッキーみたいな香ばしい香りも!」
「ほ、ほんとうだ…!」
甘いものに目がないグレーテルは、思わず無邪気な声をあげた。ヘンゼルも不思議そうな顔をするものの、僅かに満たされない空腹に抗えず、香りの源泉の方へと駆け出す。
そんな二人のあどけない姿を、水晶越しに艶美な微笑みを湛えて見つめる人影があった。
「さあおいで…ここにくれば、もう何も、こわくない。…ふふっ……」
漏れ出した含み笑いに呼応するように、鳥籠の中の
「うわぁ……これ、夢じゃないよな…?」
「すごい…!おとぎ話だけだと思ってたのに…」
開いた口が塞がらない二人が揃って見上げているのは、大きなお菓子の家。
ビスケットでできた壁に、飴細工の窓。屋根は板状のチョコレートで、太いキャンディーケーンの柱がしっかりと支えている。琥珀糖でできたポーチ、スポンジが敷き詰められた花壇。鮮やかで色とりどりのドロップが並べられた石畳。
一生食べてもゆうに余ってしまうほどのお菓子で作られた家は、二人にとってまさに夢のような光景。
「おにいちゃんたち、だあれ?」
突然背後からかかった声に振り向くと、ヘンゼルたちより大分幼い男の子が小首を傾げて二人を見つめていた。
「あ、えっと……」
「私たちね、少し道に迷ってしまったみたいで…あなたはあのお家に住んでいるの?」
母性溢れるグレーテルの問いかけに、男の子は少しはにかみながら答える。
「そうだよ!僕ランス。あの『甘い夢の家』でママとみんなと……むぐっ」
「いけない子…家の外の人に、自分の名やあの家のことを話してはいけない約束でしょう、ランス?」
白く透き通った白樺のような手が、不意に男の子の口元に被せられた。ヘンゼルたちが視線を上げると、黒いエンパイアワンピースの上から裾にフリルをあしらった白いエプロンを身に纏った薄化粧の女性が、ひやりとするような微笑で男の子を見ていた。
女性の表情を見た途端、さっきまで愛らしい顔をしていた男の子の顔が凍てついたように真っ青になり、幼気で大きな瞳にはみるみる大粒の雫が膨れ上がっていく。
「…うっ…う…ごめんなさい…ごめんなさい…おねがい、まま、僕をすてないで…やくそく…守るから…」
堪えきれず泣き出してしまった男の子を、女の人は先刻とは打って変わった聖母のような優しさで抱きしめ、ガラスを扱うように男の子の頭をそっと撫でてやった。
「大丈夫よ…あなたを捨てたりなんかしない。ごめんね、ランス。
……ところで、あなた達はこの辺りじゃ見ない子だけど…」
突然話を振られた二人は、女性が最初に見せた冷酷な微笑がまだ頭から離れていなかった。しかし返答次第では、答えなかったらなおさら、殺されてしまうのではないかという恐怖に駆られ、辿々しくもこれまでの経緯を話した。
大方話し終えると、女性はほろほろと涙を流してヘンゼルとグレーテルを見ていた。
「…ヘンゼル、グレーテル。あなた達はとても立派な子ね。二人だからこそできたことよ。本当に……よく頑張ったわね」
一瞬呆気にとられていた双子だったが、初めて受けた賛美に胸の奥が熱くなる。
我が子のように双子の肩に手を置くと、女の人は水面を静かに撫でるような穏やかな声で一つの提案を二人に持ちかけた。
「ヘンゼル、グレーテル…私たちと家族にならない?私たちはあの家で、大きな家族として暮らしているの。あなた達二人はまだ子ども。自立しようとする心意気は立派だけど、それ以上にリスクも伴う。だから此処で、私があなた達の面倒を見られないかしら…?」
思いがけない提案に驚きを隠せずにいる二人だったが、女の人からの善意を無下にもできず、無計画な未来への不安もあって、こうして「甘い夢の家」の子どもとなった。
「甘い夢の家」は、ざっくりいうと村や町には非公認の孤児院。
しかし非公認にしては設備が良く、此処で暮らす子供の数もそれなりに多い。女子はグレーテルを含め3人、男子はヘンゼル含め7人。男女比もそうだが、何より不思議なのは子供が双子たちを含め10人程に対し、大人はかの女の人一人だけだということだった。
女の人は名を「リーヴ」といい、子供たちにはママと呼ばせている。何気なく過ごす日々の中で双子はすぐに他の子達と仲良くなり、大人になるまで「
みんなで生活を共にし、ママのお手伝いをして、たくさん遊んで、学ぶ。
―そんな穏やかな日々が続くと思っていた。
「…いい?今から話すことは、私たちだけの秘密よ?」
月だけが静かに佇む夜。「甘い夢の家」の少女3人は、ベッドの中で額を寄せてあれこれと話題に花を咲かせていた。
グレーテルより先にいる少女は二人。
一人はリーナ。3人の中で一番年長で15歳。歌が上手で、家にある楽器は大抵演奏できる。両親を幼い時に亡くし、町の裏路地で泣いていた所をママに拾われたそうだ。
もう一人はアンネ、8歳。彼女は幼少期から親の虐待を受けていて、絶えきれず逃げ出したところをママに保護された。引っ込み思案で人見知りが強いが、リーナが妹のように可愛がってくれる事もあって少しずつ活発になってきている。赤毛のおさげがよく似合う、エメラルドの瞳の少女である。
その日あった出来事などを少しずつ話すうちに、リーナが突然真面目な顔になって、上のような話を切り出したのだった。
「秘密…?」
グレーテルとアンネも、こてんと首を傾げてリーナの続きを待った。
「私も、前にここにいたお姉さんから聞いただけで、本当だとは思ってないんだけどね……
この家の地下には、魔女が住んでいると言われているの」
かなり躊躇いがあるようにも見えたが、リーナはふるふると頭を横に振ると声を潜めて話し始めた。
ここは甘い夢の家。お菓子でできた不思議なおうち。彷徨う孤児たちを救う慈愛に満ちた場所。…でも本当は、若い娘を捕まえて魔女が若さを保つための生贄にしていて、男の子も保護しているのは建前。周囲に怪しまれないように、孤児院という体を装っているだけなんだって。
その魔女はこの家の地下に住んでいて、年頃の娘を定期的に生贄として寄越すようママに命じているの。ママは魔女に操られていて、子を魔女に差し出す記憶は毎回無くなっているみたい。
魔女はまず少女の生き血を飲んで、毒か呪いで穏やかに殺した後その少女の一番柔らかい肉の部分を食べて、それ以外の体は外に放置するの。翌朝遺体を見つけた何も覚えていないママは、その子が夢遊病を患って、外に出た所を熊か何かに襲われたと勘違いするだけ。真相は誰にも解らないまま、一人の少女の命が消えていく。
そんなむごいことが数年置きで定期的に起こるなかで、選ばれる娘には何か条件があるんじゃないかと言われているわ。私にもまだ分からないけど…。
…私にこの話をしてくれたお姉さんは、その翌日に亡くなってしまったの。特に病気もなかったのに、前の日まで優しく私の頭を撫でてくれた手は冷たくなっていた。眠っているみたいだったの。でもベッドの上の彼女は、二度と目を開けてはくれなかった。
話し終えたリーナの顔色は、寝室の暗闇の中でも決していいものとは言えなかった。気づけばグレーテルとアンネはお互いを抱きしめていて、その手は僅かに震えている。
思っていた以上に空気を悪くしたと思ったのか、リーナは無理やり笑顔を作ると明るい声音で二人に声をかけた。
「…ごめんね。怖い話をしておいて申し訳ないけど要は…二人のことは、私が守ってあげるってこと。グレーテルはまだここに来たばかりで慣れないこともあるだろうから、何でも聞いてね。アンネもまだできないことの方が多いんだから、私やグレーテルを素直に頼るのよ」
「うん…ありがとう、リーナ」
「リーナお姉ちゃん、こわいよぉ……」
泣き出してしまったアンネを抱っこして、リーナは優しく微笑みかける。
「よしよし…アンネは寂しがり屋さんね。もう大丈夫…私がいるから、安心してお休み……」
陽だまりのような子守歌が鼓膜を揺らす。リーナの体温と歌声の温もりに包まれて、しばらくしてアンネは眠りについた。アンネをベッドに寝かせリーナ自身も寝ようとした時、グレーテルはリーナに声をかけた。
「…ねえ、リーナ」
「ん〜?」
グレーテルは一瞬言葉に詰まった。開いた口を閉じかけ、閉じかけていたのも止めて、浮かんだ疑問を彼女にぶつける。
「何で、私たちにこの話をしたの」
「…言ったでしょ?二人共もっと私に頼ってねって、それだ…」
「じゃあ何で、自分から死に急ぐを真似したの」
遮ったグレーテルの声は、責める響きよりも苦しそうな悲哀に染まっていた。互いの表情は見えない。何の言葉も返ってくることはなく、夜闇に溶け込んだ静寂がゆっくりと流れる。
「…リーナにこの話をしてくれた人は、魔女に口封じのために殺されたかもしれないんだよ?リーナ…私たちは貴女が必要なの。大切な家族で、大好きなお姉ちゃんなの。リーナがいなくなっちゃったら私…どうしたらいいか分かんないよ……」
リーナがふっと微笑った、気がした。彼女から返ってきた声は、グレーテルの切実さに反して穏やかだった。
「……グレーテル。貴女は本当に聡い子ね。…確かに、口封じのために魔女が私を殺して、翌朝私は遺体で見つかるかも知れない。でも私が魔女に殺されようと、この話が嘘だろうと、私は……近いうちに二人には二度と会えなくなっちゃうから」
グレーテルは息を飲む。「な、っで…」と言葉にならない抗議が漏れた。
「…ママにも言ったことないんだけど、私、肺が良くないの。この家は非公認だから、お医者さんのところにはいかないし、ママも子供が風邪をひいたら、自分が町へ行って薬を買うくらい私たちを外に出さないようにしてる。
もう…私は長くは生きられないの。でもアンネや貴女の前で、血を吐いて苦しむ姿は見せたくない。親しい人が目の前で消えるトラウマを、貴女達に植え付けたくはない。だからこの話が本当なら、いっそ病気で死ぬより、殺される方が楽で…優しいと思って。
グレーテル…私がいなくなっても、アンネをお願いね。自分のせいだなんて思わないで、どうか泣かないで、アンネや新しく来るかも知れない子と仲良く暮らしてね。…この話は、私の余命に関わらず、事実かどうかに関わらず、私はいつか貴女達に話すつもりでいたから。貴女は何も悪くないわ。これだけは忘れないで……私も、二人の事が大好きだよ。……おやすみ」
優しくも強引に打ち切られた会話でも、グレーテルは何も反論できなかった。
宵闇の中、彼女の声になりきらない嗚咽を月だけが聴いていた。
翌朝。瑞々しい榛色の瞳は、朝焼けの中で濁ったまま戻らなくなっていた。
青い芝生が一部赤黒く染まり、陽だまりの歌を紡いでいた口元は微かに開いたまま、同じように赤黒く汚れていた。
グレーテルは、白い布に覆われる優しい姉の体から目を離せなかった。
「…っう…リーナおねえちゃん……」
アンネには昨晩のリーナとの最後の会話が聞こえていなかったことに安堵する一方、大好きな姉が何によって命を散らしたのか、グレーテルは断定できず困惑していた。
魔女が毒を以て口封じに現れたのか。それとも肺の病からくる咳が酷く、寝ている二人に配慮して外へ出たものの、吐血による過剰な失血で亡くなってしまったのか。
「私の知らない所で苦しんでいたなんて…ああ、リーナ…かわいいリーナ…私がもう少しちゃんと見ていれば……」
諸々の処置や葬儀を終えた後、グレーテルが戸の隙間から様子を伺うと、リーヴは自分の部屋で泣き崩れていた。グレーテルが少しの間躊躇うも意を決してノックすると、彼女は快く部屋へ入れてくれた。
「急に姉のように慕っていた子が亡くなって辛いわよね……でも大丈夫よ。ママがいるから」
抱きしめられること数分。リーヴはずっとこの調子でグレーテルのことを慰めてくれている。グレーテルはゆっくりと顔を上げると、上目遣いで彼女を見つめた。
「ママ…あのね、昨日の夜怖い夢を見たの」
「…どんな夢?聞いてあげるから話してご覧」
リーヴもこれ以上ない母親の顔でグレーテルを見つめる。彼女は頷くと、一応合わせていた視線を逸らしてから話した。
「えっとね…ママが魔女になっちゃう夢。夜にこの家の地下で、私が魔女になったママに血を吸われちゃうの。それでね、アコニツムの毒を盛られて私が死んだ後、ママは私の体の一番柔らかい所を切り取って食べちゃうの。切った後、残った私の体は家の外に捨てられて、ママがこう言ったの。『小賢しいお前なんかここに迎え入れなきゃよかった』って…でも次の朝私を見つけたママは、死んだ私を見て今日みたいに泣いていたの」
リーヴの顔が強張っている。それを見たグレーテルは確信を得た。何故ならこの夢は昨晩の話の流れに基づいてグレーテルが作り出した嘘。あまりにも似通いすぎているからか、彼女の動揺は激しいらしい。
笑みを繕ったリーヴは、再び膝下の少女に向き合う。
「……それは、とても怖い夢を見たのね…。グレーテル、大丈夫よ。私が守ってあげる。…そうだ、今日の夜消灯時間を過ぎたら私の所へいらっしゃい。今日は一緒に寝ましょうか」
「…うん!…ありがとう、ママ!」
にこやかに手を振って部屋を後にし、自分たちの部屋に戻ったグレーテルは、机に向かって何かを書き出し始めた。
「…行きましょうか。私の寝室は地下にあるの。怖いかも知れないけど…私がいるからね」
その晩。言われた通りの時間にグレーテルはリーヴの部屋へ向かった。優しく背に手を回され、地下へと促される。
正直グレーテルは、あの話は娯楽に飢えた子供の中でも想像力に富んだ人が生んだ作り話だろうと思っていた。…ただ、それが本当のことであったとは知らなかっただけなのだろうと。
部屋に着いて扉が開くと、そこは薄暗いまさしく「地下室」。
上の段から下までびっちりと本が詰まった、グレーテルの背の軽く二、三倍はある本棚。不思議な色の液体がずらりと並ぶ戸棚に、大きな水晶玉が乗った透明なテーブル。一番目を引いたのは巨大な暖炉。パチパチと音を立てて焚べられている薪の上には、人一人ゆうに入ってしまうような黒い鍋にぐらぐらと湯が沸かされている。側の鳥籠には鴉がいた。
家同様、ここにある家具はすべてお菓子でできていた。ただし家の外見ほど色はない。黒や紫を貴重とし、どこか禍々しい雰囲気と陰湿な空気が漂っているのが分かる。
今から、自分は殺される。口封じとして、あるいは邪魔者の排除という名目で。
死因は何になるだろう。毒、失血、窒息…お湯を沸かすあたり、茹でられるのだろうか。
そんなことを考えながら、グレーテルは昼間立てた計画をどう実行しようか思考を巡らせる。
「グレーテル、そこに座って待っていてちょうだいね…」
リーヴの声が、何時になく猫なで声に聞こえる。彼女は鍋の前に立ち、中に戸棚の液体を少しずつ加えていく。その度にもごもごと呪文のような言葉が聞こえ、色のついた蒸気が立ち昇る。
「寝る前に、ママが美味しいスープを飲ませてあげる…怖い夢を見ないように、おまじないもかけてあるからね……」
「ママ…そんなにたくさん作って、残りはどうするの?」
「明日みんなにも食べさせてあげようかしら…そうすればきっと、みんなが怖い夢を見なくて済むわ。ふふふ……」
グレーテルはそっと席を立ち、リーヴがいる側とは反対の壁に寄る。
戦慄で足が震える。何もまだ確かめていない。でも、死ぬのは怖い。人が殺されるのも、いずれ兄に手が及ぶかも知れないことも。なら苦しむのは…私だけで十分。
「……頼まれたんだ。リーナに…『アンネをお願い』って。だから…私がやらなきゃ。あの人を…許しちゃいけない」
助走をつけて、勢いよくリーヴの背に突進しようとした瞬間、鴉がけたたましく鳴いた。
「なっ…!?」
リーヴが振り返った瞬間、ずん、という重い衝撃とともに、彼女は頭から鍋に突っ込む。
「ぎゃぁあああ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!」
普段の彼女からは考えられない阿鼻叫喚に、グレーテルは震えながら後退った。
「小娘が…小癪なぁああ゙あ゙!!」
鍋の中からぬっと姿を現したのは、最早人の形を失って生き物とも思えないもの。怒りに震えて伸ばされた手は無論グレーテルに届くことはなく、滴った液体で勢いをつけた炎がすぐさま鍋をも包みこむ。
魔女の最後の叫びが轟いた瞬間、家は凄まじい音を立てて崩れ始めた。
「揺れてる!?」
「みんな外へ!!」
「女の子たちが!」
「僕が見てくる!!」
突然の地響きと揺れに混乱する子供たち。胸騒ぎがするヘンゼルは狂うように駆けて少女たちの部屋へ向かった。
「グレーテル!アンネ!」
「…っ、ヘンゼルお兄ちゃん!」
そこに幼い少女一人しかいないのを確認し、ヘンゼルの顔が青ざめる。幼いアンネは自分の状況すら把握できずにかなり怯えている。
「グレーテルは!?」
「わかんない…いなくなっちゃった…っ」
「…っ、とにかく逃げよう!!」
アンネを抱え、ヘンゼルは外に出る。外では息を切らした他の子供たちが、ぐったりとした様子で変貌する家を見つめていた。…その中に、妹の姿はない。
家は時空が歪んだようにぐるぐると形を変え、徐々に目を瞑っても眩しいほどの光を放つ。
「グレーテル…!」
光にすら抗って伸ばした兄の手は、妹には届かなかった。
「…いちゃん。…おにいちゃん、大丈夫?」
朧気な意識が浮かび上がってきて、ヘンゼルは目を開けた。
自分の顔を心配そうに覗き込んでいるのは、見知っているようで記憶にはない少女。ゆっくりと体を起こすと、自分と少女以外にも名前も知らない同年代の少年が、この森のぽっかりと空いたような芝生の上にいた。
唐突に妹の存在を思い出し、ヘンゼルはばねのように飛び上がる。
「っ、グレーテルは…!?」
「ぐ、れーて…?あそこにいるおねえちゃんのこと…?」
少女が指さした方向を見ると、ややぼろぼろになってぽつりと座り込む妹の姿があった。急いで妹の下へ駆け寄るが、グレーテルはこちらに目もくれない。
「グレーテル!!大丈夫か!?怪我はっ、どうしてそんな…」
「わたしはままをころした。つみがわからないひとを、かんじょうだけでころした。ねえさんやいもうとを、たすけたかった。でも、ひとごろし…わたしはひとごろし。わたしは……」
虚ろな目は地面に吸い寄せられて動かない。瞳が微かに潤いを帯びたかと思うと、グレーテルはそのままくらりと意識を失ってしまった。
「まま…?ひとごろし…?何言って…っ、…おい、グレーテル!」
「ランス!あなたどうしてこんな所に…!」
「ああ…心配したのよアンネ…さ、家へ帰りましょう」
「コニー…良かった無事で…体に異常はないか?」
後ろを振り返ると、どこからともなく現れた親が自分の子供を迎えに来ていた。みんな虐待や勘当で子供を見捨てて突き放したことも、突き放されたことも覚えていない。ヘンゼルも、何故自分たちがここにいるのか見当もつかなかった。甘い靄が頭の中に巣食っていてぼやけている。
「…ヘンゼル!グレーテル!」
大半の少年たちが連れ帰られて静まった後、ヘンゼルは聞いたこともないほど切羽詰まった母親の声を聞いた。
父とともに息を切らして双子を見つめる母は、涙と汗で濡れ、苦しそうな顔をしている。
「…かあさん」
思わず口をついた呼び名は、とても懐かしく温かい響きを含んでいた。
「帰ろう…四人で。グレーテルは私が抱える。ヘンゼルは母さんの手をしっかり握るんだぞ」
「…うん」
家族は片時も離れることなく、一歩一歩家への歩みを進めていった。
グレーテルが目覚め、いつも通りの日常が戻る。
ヘンゼルは妹の譫言について、本人にも親にも、敢えて何も言わなかった。そのうちどんな事を言っていたかすら分からなくなり、今ではもう記憶にもない。
双子は前よりも一層仲良くなった。優しい両親に、大好きな兄妹。四人は自分たちをこの上ない幸せな家族だと誇りに思っている。
「めでたしめでたし」と素直に終わらせたいが、この話はいくつか後濁りがある。
虐待や勘当は、本当に親自身の意思や感情で動いていたのか。
魔女の正体は、リーヴ自身だったのか。
リーナはそもそも病を患っていたのか。
グレーテルがリーヴを死へ追いやったことは、「人殺し」なのか「正当防衛」なのか。
子供や親の残虐な記憶がすべて消えたのは、魔女の最後の慈悲か、神様の恩恵か。
どこまで魔女の掌の上だったのか。
……真実は神のみぞ知る。
※「ヘンゼルとグレーテル」グリム童話より
かみさまのかんちがい 紫丁香花(らいらっく) @azuki-k01
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