紅い花びら



 昔むかしある村に、小さな少女とその家族が森の側にある家に住んでいた。父は猟師、母は町で針子をしていて、少女はいつも飼い犬と遊んでいた。


 少女がまだ5歳の頃、村は大規模な飢饉に見舞われた。食べ物もなく、皆が困窮する中、少女が失ったのは食だけではなかった。

 ある夜、寝室でいつものように眠っていると、外で犬が吠える声が聞こえた。鳴き声が何時にもまして警戒の調が強く、少女は心配になって外の様子を見に行こうとした。しかし添い寝していた母は引き止め、代わりに見に行くといった。

 母が外へ出てしばらくすると、犬の鳴き声は聞こえなくなった代わりに、その晩は母は少女の隣には帰ってこなかった。そして翌日起きた時には、犬もいなくなっていた。森を探しても、どんなに大声で呼んでも、あの愛くるしい姿で駆け寄ってくることはなかった。

 突然姉弟のように慕っていた犬を失い悲しみに暮れる少女に、母は紅いケープマントを繕ってやった。フードが付いていて着心地の良いそれを少女は気に入り、でかけるときはいつも身に纏っていたので、村の人々はいつしか彼女を「赤ずきんちゃん」と呼ぶようになった。


 これはその飢饉が終わって、何年かたった後の話である。



 「メイシー、森へ出掛けるの?」

 「ええ、おばあさまが風邪をひいたらしいの。最近、森へは誰も入りたがらないから…私、お見舞いに行こうと思って」


 殊勝な娘の言葉に反し、母の面持ちは暗いものになった。


 「どうして村の人が森へ入りたがらないか分かる?…人喰い狼が出るからよ。最近あの森を通ってこの村に来た旅人が皆、口を揃えて『人喰い狼に襲われた』って、わなわな震えながら助けを求めてくるの。おばあさんも、もしかしたら、もう…」


 言葉を濁す母に、少女はむっとした表情を見せる。


 「ママ、縁起でもないこと言わないで!旅の人だって、襲われたと言っても生きてこの村へ逃げて来られているじゃない。きっと…疲れで、枯れた柳の葉をおばけと勘違いしただけよ」

 「…分かったわ。いちご水とシナモンクッキーを持たせてあげるから、気を付けていくのよ」


 それでも不安を拭いきれない母に、少女は母の手をそっと包み、柔らかく微笑む。


 「大丈夫。ママのケープのお守りがあるもの。無事に帰ってくるから…ね?」


 にこやかに手を振り、少女はきゅっとケープの前を合わせ、深呼吸して出発した。




 「やあ、赤ずきんちゃん!何処かへおでかけかい?」

 「赤ずきんちゃん、お母さんがこの前仕立ててくれたドレス、とても素敵だったわ!よろしく伝えてちょうだいね!」

 「赤ずきんちゃん!お父さんが仕入れてくれた肉がまたいい値で売れたよ!ありがとうなー!」


 森へ入るまでの道のりで村の人からかなり声がかかるが、この小さな村では珍しくない。少女自身、こうした温かい雰囲気の村が大好きだった。彼女も村人に負けないくらいの朗らかさで返事を返していった。


 森へ入ると、木漏れ日は心地よく、空気は村よりも若干冷たくなる。こんな長閑な場所で、狼が出るようには思えなかった。栗鼠りすや梟、鹿や兎など、可愛らしい動物を見かけては、少女は楽しそうに話しかける。


 狼と聞くと、少女は幼い時に飼っていた犬を思い出す。

 名前はリューク。狼犬の子犬で、少女は弟のように可愛がっていた。飢饉の年に親から捨てろと言われなかったのは幸いだったが、ある晩、忽然と消えてしまった。

 元々野良だった所を少女の我儘で飼わせてもらっていたが、飢饉の頃までは利口でよく少女の指示や言いつけを守り、大きくなれば猟犬にしようかと父も言うほど忠実だった。

 リュークのことを考えると、彼を撫でた時のふわふわとした感触と、首の右側の付根にある小さな十字傷が鮮明に蘇る。リュークは少女がその傷をなぞってやると、怒るどころか体を捩らせてくすぐったそうに喜んでいた。


 「リューク…懐かしいなぁ…」


 少女がぽつりと零した懐古を、遠く離れた木の裏に隠れて聞いている影があった。少女の声を聞いた途端、その影は僅かに飛び出しかけたが、すぐに諦めたようにまた引っ込んでしまった。



 しばらくして、少女はおばあさんの家に着いた。戸を叩くと、少し間を置いておばあさんが扉の隙間から顔を出した。


 「あらまぁ…赤ずきんちゃん、お見舞いに来てくれたのかい?」

 「こんにちは、おばあさま。少しでも早く風邪が良くなってほしくて、いちご水とママのクッキーを持ってきたわ。ぜひ食べてね!」


 あくまで他人である自分を、人喰い狼が出るといわれる森の中を通ってまで見舞いに来てくれた少女の優しさに、おばあさんは癒やしと感動で寿命が何年か伸びたような気がした。少女を家にあげ、孫を愛でるように少女をもてなした。

 少女はおばあさんにたくさん話をした。家の中の小さな出来事から、噂で聞いた村や隣町の様子まで、おばあさんもそれは嬉しそうに、少女の話を一言も聞き漏らさないように聞いていた。


 気づけば窓の外では、太陽が地平線へ潜ろうとしていた。それを見たおばあさんの顔に焦りが出る。


 「あら、いけない。もうこんな時間になってしまったのね。赤ずきんちゃん、ランプを貸してあげよう。これ以上暗くならないうちに帰りなさい。いいかい?何があっても、道草をしてはいけないよ。人喰い狼がでるというんだから…」

 「おばあさま、大丈夫よ。まだ実際に襲われて亡くなった人はいないもの。でも…おばあさまも、戸締まりや食べ物の扱いに気をつけたほうがいいわ。ランプをありがとう。さようなら。お大事になさってね」



 家を出た時と同じようににこやかに手を振ると、少女は帰路に着いた。


 ランプの光は温かく、黄昏時の冷たさを紛らわせてくれる。昼間と比べるとどうしても視界は悪くなるが、少女はそれほど怖いとは思わなかった。


 暫くして突然、頭上から枯れた枝葉がばらばらと振ってきた。


 「きゃあ!!」


 少女はランプを落とし、落ちた拍子にランプが割れて火は絶えてしまった。

 蹲った少女の上に、大きな影が襲いかかる。押し倒された少女は仰向けにされ、両肩を押さえつけられてしまう。


 荒い息に、びくともしない強い力。目を開けずとも分かる獣の匂い。腹の底に響く唸り声が容赦なく恐怖を煽る。ケープ越しに感じる爪の鋭さは、間違いなく一撃で少女の命を攫うのに十分だった。

 母やおばあさんの言う通りだった。旅人たちは大人だったから逃げ切れただけで、子供、ましてや自分のような小娘に、人喰い狼から逃げ切る力も術もない。もっと用心すべきだったのに。少女は必死に心の中で二人へ謝った。


 ごめんなさい…ママ、おばあさま。私、もう…


 しかし死を覚悟しても、牙が食い込むような痛みはいつまで経っても感じられない。それどころか低い唸り声も聞こえなくなっている。そしてふわりと浮いた重みに恐る恐る目を開け、ゆっくりと体を起こすと、そこにいたのはすっかり毒気の抜けた弱々しい姿をした狼だった。

 尾は細々と垂れ、少女の方を向いて項垂れたまま座っている。


 ふと、少女は狼に手を伸ばした。そしてその細く白い人差し指で、幼い時と同じようにをなぞる。狼は哀しげに小さく身を捩らせた。


 「リューク…?でも…」


 幼いときとは比べ物にならないくらい大きな体躯。唯一変わらないのは、日暮れ暁を溶かしたような紅い瞳。あの頃何度触れたかわからない十字傷。

 でも、リュークはいない。もうどこにも。そう思っていたのに。


 呆気にとられていると、狼はのそのそと後ろを向いてその場を去ろうとした。


 「…っ、待って!」


 もし、無事だったなら。もしあの夜、自分の知らない何かがあったとしたら。


 「…生きていたの?」

 『…信じてくれるのか?』


 心に直接響く声。幻聴じゃない。確かに狼が少女に向かって放った言霊だった。少女は思わず狼を抱きしめる。少しだけごわごわした懐かしい毛並みと、薄くなりかけていても分かる首元の傷。


 「生きていたなら、どうして…」


 少女の感情が、安堵から哀へ傾いていく。嫌われてしまったのか。はたまた忘れられてしまったのか。あってほしくはない選択肢を頭の中で並べ、少女の不安は独りでに大きくなっていく。その変化を感じ取ったのか、リュークは彼女を安心させるためにぺろりと少女の頬を舐めた。


 『メイシー、落ち着いて聞いてほしい。…僕はあの夜、君の親に捨てられたんだ』


 少女の翡翠の双眸が大きく見開かれる。一度何かを言おうとして開かれた口は、はくりと息だけが音を立てて閉じてしまった。


 『僕は…本物の狼。飢饉で飢えるのは人間だけじゃない。当然僕も空腹に精神を支配されかけることはあった。それを見越した君の両親は、自分たちが僕に襲われる前に捨てるか殺すかしてしまおうと思ったらしい』


 少女は再び開いた口が塞がらないまま、リュークの話に聞き入っていた。


 『実際…まあ、すべての人とこんな風に話せたら苦労しなかったんだけど、僕は君たち一家を、無論人を、食い扶持にしようなんて思ったことは一度だってない。メイシー、君がくれた恩を無下にしたくなかったし』

 「ちょっと待って、リュークが話せるのは私だからなの?それに私、リュークに何か恩って言われるようなことしてあげられてなかったよ?」


 矢継ぎ早に少女が繰り出した質問に、リュークは愛しそうに微笑む。


 『…一つずつ答えていこうか。だけどもう時間も遅い。歩きながら話そう』




 まず、こうして君と意思疎通が図れるのは、僕と君の絆の深さとそれを基に神様が与えてくれた特権があるからだ。

 僕らが相互に想いあっていたからこの特権を授かれたけど、他の飼い主と猫で、飼い主がどれだけ猫に愛情を注いでも、猫が恩を受けるだけで返そうという意志が見られなければ与えられない。


 次に、君に受けた恩についてだけど…本当に覚えがないのか?


 野良、というか野生で生きていた僕を家族として迎え入れ、名前をくれた。

 いつもやさしくて、僕に「大好き」をたくさんくれた。

 飢饉の時だって…ただでさえ食糧が少ないのに、君は僕の食事を欠かすことは一度もなかった。量が減ることを謝ったり、自分の食事を分けてくれたりさえした。


 人間の価値観で、そういった…何と言うか、自己犠牲が当たり前なのかは判らない。少なくとも野生の世界では、集団の生存のために個々が役割をもつことはあるけど、そこまで情を重んじる奴らはいなかった。

 捨てられて初めて、自分がこんなにも恵まれて、穏やかで、いい意味で普通じゃない環境に生きていたことを知ったんだ。


 だからどんなに飢えに苦しむ時も、人だけは襲わないようにした。その人に飼っている動物、それがいなくても大切に思う人がいるとしたら、それまであった「大切」を僕が壊してしまうことになるから。

 時折野生の本能に頭を支配されかけて、森を通る旅人や商人に襲いかかってしまうこともあった。でも噛みつく寸前、僕を見て怯えきった人の表情と、何より君の手の温もりが心に蘇ることでどうにか踏みとどまることができた。


 …だからメイシー、君には伝えても伝えきれない程の感謝の気持ちがあるんだよ。




 直接口では語らないが故に表情の起伏も少ないものの、時折目が合えば微笑むように目を弧にしたり、体を甘えるように擦り寄せてきたりと、彼の想いは十二分に少女に伝わっていた。


 「…感謝を伝えないといけないのは私よ。けれど、感謝だけじゃだめね。謝罪も伝えないといけないわ。ごめんなさい、リューク。私、貴方を探すのを心のどこかで諦めかけていたんだわ。ちゃんと、ずっと探し続けていたら、貴方にもっと早く再会できていたはずなのにね。…そして、ありがとう。私が初めて誰かに優しくすることを覚えられたのは、貴方がいたからよ」


 少女はしゃがむと二つの翡翠でしっかりとリュークの姿を捉え、あの頃より凛々しくなった弟の顔をあの頃と同じように撫でる。


 「メイシー!?そこに居るの?」

 「ママ…!?」


 不意に母の声が二人の和やかな空気をすぱりと切り裂いた。声の方を見やると、少し離れた場所で仄かな灯がぽぅっと揺らめいている。


 母は少女に駆け寄ると、強く、ただ娘の存在をひたすら確かめるようにきつく抱きしめた。

 いつの間にかリュークは姿を消していた。


 「本当に心配したのよ!」

 「あ、えっと…おばあさまとのお話が楽しくて…ママのいちご水とクッキー、すごくよろこんでもらえたの。もうすぐ元気になるって、おばあさまはそう言ってたわ」

 「もう…本当にお前は、時々私の心臓を盗むようなことをするね。…帰るよ」


 母に手を引かれ、少女は一瞬後ろを振り返った。そこで紅玉が煌めくことはなく、少女は帰ってからも両親の顔を真っ直ぐ見ることはできなかった。




 次の日の夜、少女は母に思い切ってあの事を尋ねてみることにした。少女にとって彼の言葉は信じがたいものだったが、確かめなければならないという義務を感じた。


 「ねえ、ママ…小さい頃に飼ってたリューク、覚えてる?」


 それまで滑らかな動きで針を運んでいた母の手が、見えない力で引っ張られたようにぴたりと止まる。

 一瞬間をおいて緩慢な動きで少女の方へ向けられた顔は、母のいつも通りの表情だった。


 「そういえば、飼っていたねぇ…」

 「飢饉の時、いなくなっちゃったでしょ?もしかしたら、最近森に出るって言われる狼って、」

 「メイシー・エークルンド。無駄な望みをもつのはやめなさい。弱々しい子犬がいきなり自然に飛び出して生きていける確率など、たかが知れてるわ。もし生き延びていて、お前の仮説が正しかったとして、旅人を襲った責任を取らなければならないのは私たちなんだよ?しかもあれは狼だった。人の下で育った犬がいきなり完全に野生化することなど、まずありえないでしょう」


 母の口から次々と紡ぎ出される正論に、少女は何も言い返せなくなる。代わりに、あの夜の出来事で母は何かを隠そうとしていることについて、少女の確信は一層強いものとなった。


 「…夜中に何を騒いでいるんだ。少しは静かにしないか。家の近くにいるかも知れない獲物が逃げてしまうだろう」


 町から父が帰ってきた。落ち着いた口調ではあるが、近頃大金になる獲物を得られないからか機嫌が悪いのは声音に明らかだった。

 これに酒が入ると、父の口調は体裁を保てなくなる。家の空気はまるでどこかの酒場から荒くれ者を押し付けられたように間が悪く、どうしようもなくなってしまう。


 少女は父の口に一滴でも酒が入る前に、父にも聞いてみようと思った。


 「ねえ、パパ。リュークのこと覚えてる?あの子…」

 「メイシー!」 「…あ゙?」


 母のヒステリックな叫びと、父の初めて聞く声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。

 父はまだ一口も酒を口にしていなかった。

 暖炉の薪の欠片が一つ、ぱちっ、と弾ける。


 「あいつは死んだ。いなくなったんじゃない。俺が捨てた。それだけだ。そもそもメイシー、お前が野生のなんぞ飼おうなんて強請らなければ、俺達が食われるなんて余計な心配をせずに済んだんだ!」


 父の怒鳴り声に、母までも身を竦ませる。父は一気に酒を煽ると、酒が入っている樽を蹴飛ばした。溢れた酒が暖炉の火で一瞬燃え上がったかと思うと、元々頼りない火だったせいか大半は灰に染み込んでいった。

 少女は父の言葉を自白と取り、父に詰め寄った。


 「…やっぱりあの夜だったのね。吠える声が途中で聞こえなくなったのも、麻酔か何かを打ち込んで、匂いを辿ることができないような、深くて、暗くて、冷たい谷底へあんなに小さい生き物を放ったからなんでしょ!?」


 ダン!とテーブルを叩き、父は少女につかつかと歩み寄ると、少女のケープを無造作に引っ掴んだ。酒臭い。それでも少女は目を逸らさなかった。

 母は顔を真っ青にして悲鳴をあげる。


 「やめてください!どうか、落ち着いて…!」

 「黙れ!あの狼のせいで獲物の捕れ高が急に減ったんだ!動物は匂いに敏感だ。お前ほどではないにしろ、俺にも狼の匂いが着く。少しでも距離を詰めればあっという間に獲物は逃げ出す。俺は…お前たちの食い扶持を稼いでいる立場だぞ?家内もやってくれちゃあいるが、俺の半分も稼げやしない。それなのにメイシー、お前は…」


 母のそれまで怯えきっていた顔が引きつる。

 その時、木窓を割って大きな青黒い影が家の中へ飛び込んできた。


 『そこまでだ、人間。その子から手を離せ』


 見て分かるほどの怒りに毛を逆立て、狼は牙を剥く。煌々と光る紅い視線に射抜かれた父は、慄いて反射的に少女から手を離した。


 「リューク!」


 「な、何で人喰い狼が此処に…メイシー、一体ど、どういうことだ!」

 『簡単な話だ、人間。この子に手をあげようとした挙げ句、妄言ばかりを吐き散らした。私を捨てたことは何も言わない。だが…この子を傷つけて俺をいなかったことにしようとするのは、死んでも許さない!』


 リュークの「声」は両親の「心」にもしっかりと届いているようだった。唸り声が凄みをましていく。

 父は狼狽えて後ずさり、手探りで壁に立てかけてあった猟銃を取ると、ガタガタと震えた構えで狼と娘に銃を向けた。


 「しr、知るか!こ、殺してやる…そして俺も死んでやるんだぁあ!」


 リュークは父が引き金を引くより早くその銃身に噛みつく。


 『もういい…お前は私が喰らう、最初で最後の人間だ』


 銃から狼を振りほどけず、暁に睨まれた男は、最早成す術もない。尻もちをつき、ただこれ以上なく情けない顔をして、呂律の回らない口で只管狼に許しを乞う。


 「ひ、ひぃあぁ!!た、たす、助けてくれ!許してくれ!俺が悪かったから!」


 狼は大きく飛び上がり、着地と同時に男を組み敷くと、その鋭い牙で容赦なく目の前の標的に食らいついた。


 「…ひっ」


 男のものか母のものか、どちらとも判らない短い声でリュークは我に返る。背中に不思議な重さと懐かしい温もりを感じる。

 男の肩を噛んだつもりだった。しかしそこから赤い雫は一滴も垂れておらず、自分は別の何かを噛んでいると理解した。


 「リューク…だめだよ。もういいの…もう、おしまい」


 耳の直ぐ側で大好きな優しい声がした。視線を落とすと、可愛らしい紅色の布に黒みを帯びた別の赤が染みていくのが見えた。口の中に初めて広がる人の血は、これまでのものよりもずっと苦かった。


 『メイシー…?そ、んな、』

 「…だいじょうぶ、だから」


 痛みと失血で、少女は意識を手放してしまった。




 せせらぎの音と小鳥の囀り、木漏れ日の温もりで少女はゆっくりと目を覚ました。


 「…おはよう。傷はまだ痛むかい?」


 母の何時になく柔らかい声が鼓膜を揺らす。昨晩の出来事が嘘のように静寂に満ちた家の中で、台所に佇む母は聖母のように見えた。


 「大丈夫。…ママ、あの、」

 「あの人は、私が追い出してやった。半分も稼げないなんて言われたけど、あれはあの人の大嘘さ。私が稼いだお金を3つに分けた時、2つ分はあの人が皆、自分のには一切手をつけずに酒や遊びに費やしていたんだから」


 父親が追い出されたと聞いて驚きを隠せない少女だったが、母の晴れ晴れとした表情を見ると、それで良かったのだろうと心から安堵する。


「あと、リューク…あの狼は、お前が気を失った後、私に深々と頭を下げて去っていったよ。私もあの夜、追い出すのに加担したことに変わりはない。だから…というのも変だね。もう一度リュークを飼いたいなら、私は勿論反対しないよ。家族としてあの頃以上に大切にする」

 「ありがとう…ママ」


 母娘はひしと抱き合う。互いの体温をこの時ほど心地よく感じた事はなかった。


 突然、戸を叩く音がした。

 母に頼まれ少女が戸を開けると、視界いっぱいに色とりどりの花が満たされる。


 花束に隠れた訪問者の顔を見ようと少女がかがむと、透き通った紅い宝石とうっすら朝日を溶かした翡翠がぶつかる。


 「すごい花だね…ふふっ、かわいいよ」

 『誂うな…お見舞いと、挨拶に来たのに』

 「…挨拶も、お見舞いも、必要ないよ」


 そう言って少女は新芽が開くようにそっと微笑む。


 「…おかえりなさい。リューク」


 一瞬大きく見開かれた双眸は、少しずつ穏やかな感情の高ぶりを湛えていく。


 『…ただいま。メイシー』


 抱きしめた拍子に翻った紅いケープが、春の訪れを知らせる花弁はなびらのように舞っていた。






 ※「赤ずきん」グリム童話より

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